1919(大正8)年
中国、段祺瑞、参戦軍(辺防軍)正式に創建。
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1921(大正10)年
軍備拡張を主張してきた「時事新報」、一転して海軍縮小を主張し始める。
尾崎行雄がこの年の第44議会に提出した軍備制限決議案は、2月10日衆議院で圧倒的多数で否決されたが、議会後に尾崎が各地を遊説すると聴衆の強い支持を受ける。大阪財界でも、鐘紡社長武藤山治らが軍備制限連動にのりだす。軍縮論は、国際的な軍縮問題への関心の高まりに刺激され、促される。戦後も、戦争中からの建艦競争が続いており、何とかしなければいけないというのが当面の問題。
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「1919年インド統治法」発効。
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1922(大正11)年
山川均・田所輝明・西雅雄ら、「前衛」創刊(共産主義運動機関誌)。4月市川正一・青野季吉ら「無産階級」創刊。
1923年4月「前衛」、「社会主義研究」「無産階級」と合併、「赤旗」となる。山川論文は毎号掲載、他に堺利彦・荒畑寒村・平林初之輔らが執筆。大杉栄らアナ派の「労働運動」(第3次)とアナ・ボル論争を展開、ソヴェト権力を支持するボル派の指導的雑誌となる。時事評論、各国共産主義運動紹介のほか、山川「無産階級の方向転換」(’22年7・8月合併号)が掲載され大きな影響を与える。
堺利彦「精神主義と潔癖」(「前衛」)。土田杏村、賀川豊彦、武者小路実篤、有島武郎、吉野作造ら対し、「反動的」「逃避的」「独善的」「現状維持主義」と痛烈な批判を展開。
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ロシアで推定3,300万人が餓死の危機に瀕する。
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1924(大正13)年
枢密院議長清浦奎吾に組閣命令。清浦組閣開始。政党内閣は時期尚早とする西園寺の意向。4日、貴族院研究会幹部、枢密院議長清浦奎吾の組閣を援助することを決定。人選は研究会幹部が行い、閣僚は貴族院から選ぶ。外相・陸海相以外は貴族院議員。
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「大阪毎日新聞」、部数100万部突破を社告。2日「大阪朝日新聞」も同様発表。
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1925(大正14)年
大衆雑誌「キング」(大日本雄弁会講談社)、創刊。発行部数100万部を誇る。
「中世的ではなくて近世的であり、専制的でなくて民衆的であり、聡明にして趣味豊満、気軽に変装して随時随所に出没し、殆ど端倪する遑がない」と、現代性と軽快さを自認。「一家に一冊」を標榜し、年齢や性別、職業を越えた「国民雑誌」を目指す。著名人の論稿、成功譚や出世譚、逸話、小説、講談、実用記事、笑い話に至る、多様なジャンルの記事が満載され、社会不安を防禦する家庭の育成が図られる。農村にも目を向け、発刊時には村長、青年団幹部、校長などにも案内を送る。
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独、ゲッペルス「アドルフ・ヒトラーに! われわれはあなたに敬意を表する。指導者にして英雄よ。…」(「民族の自由」)。
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ノルウェーの首都クリスティアニアをオスロと改称。
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1926(昭和元)年
中国国民党第2期全国代表大会(4~19日)開幕式典(広州)。茅盾、参加(3月に上海に戻る)。
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歩兵第24連隊事件。差別糾弾に対し「福岡連隊爆破陰謀」のフレーム・アップ。松本治一郎ら懲役3
年半
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フィンランド、金本位制に復帰。
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1927(昭和2)年
武漢政府、職務開始。武漢入りしない蒋介石の南昌司令部と対立。
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年賀状(東京市36局)、282万通に激減(1926年、3,595万通)。
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佐野学、第1次共産党事件の刑期を終え出獄。前年末の五色温泉での再建大会で中央委員・無産者新聞主筆に選任されていたが、支配的な福本イズムに反対のため、すぐには党活動に復帰せず。27年1月~4月上旬、福本イズムに反対の堺利彦・荒畑寒村・山川均・北浦千太郎らと意見交換。市川正一・志賀義雄らの働きかけにより、4月上旬頃、荒畑と手を切り、「無産者新聞」主筆に復帰。
前年末の再建大会後、暮に市川正一が出獄。この月、徳田球一も出獄し、渡辺政之輔が留守中の報告。佐野は福本に反対。徳田・市川は福本支持。この頃、前年入露した鍋山貞親の報告により福本イズムによる運動実践面の欠陥が説かれ、在モスクワの高橋貞樹もこれに同調、コミンテルン(ブハーリン中心)は福本イズムを重要視し、山川イズム・福本イズム両責任者のモスクワ召集指令を出す。1月中旬、草津温泉で会合。モスクワ召集に応じ、福本・徳田・渡辺・中尾・佐野(文)・河合の派遣決定。市川・三田村・志賀が「留守部隊」常任委員として残る。山川は同行せず、意見書をヤンソンに託す。
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イタリア、国家防衛特別裁判所が活動を開始。
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独、ゲーリンク、ベルリン大管区事務所をポツダム街地下室よりリュッツォー街へ移動。
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西スマトラのパダン付近で蜂起。
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仏、舞踊家・振付師モーリス・ベジャール、誕生。
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デンマーク、金輸出再禁止(金本位制復帰)。
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1928(昭和3)年
中国、湖南南部の農民暴動、湖南ソビエト成立。
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1929(昭和4)年
中国国軍編遣会議(再編・削減会議)。軍閥私軍の国軍編入めざすが失敗。広西派・馮玉祥等反蒋運動。5日より第1次大会開会。蒋介石、軍閥私軍の国軍編入を図るが、地方軍閥の反対で失敗。25日閉会。
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蒋介石「国民に告ぐるの書」発表、3年以内に平和的に不平等条約を廃棄
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中国国民政府王外交部張、田中義一外相の対中政策に関して村上領事を攻撃。
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アグネス・スメドレー、ハルビン到着。前年末、モスクワ経由シベリア鉄道で中国入り。ハルビン~奉天・大連~北京~南京~上海(5月)。
スメドレーは、中国人家庭を転々とし、東北各地に3ヶ月留まり、外国領事館員、中国人の鉄道官吏、学生、出版物などのあらゆるルートを利用して、日本の資本がどの程度に行政機構や鉄道などに喰いこんでいるかをさぐり、中国での第一報「満州における日本の武力」を纏める。しかし、この文章は、編集部で保留になったまま陽の目をみず、日本の武力侵略(9・18事件)後、初めて活字になる。
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シャフィー派系の全インド・ムスリム協議会、大幅自治の連邦制・分離選挙制堅持などの決議を採択(議長アーガー・カーン3世)。
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1932年
中国、広東派政権発足。蒋介石の南京政府と王兆銘の広東政府が妥協。新国民政府が南京に樹立。主席林森、行政院長孫科、外交部長陳友仁。翌2日、中央政治会議、蒋・汪両名を南京に召集する決議。孫科「内閣」は辞意をかためつつある。
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1933(昭和8)年
山海関事件。
山海関守備隊長落合甚九郎少佐謀略。山海関憲兵分遣隊裏庭、日本守備隊派出所前鉄道線路上に手榴弾投擲。3日、夜明け、陸海軍協同攻撃。午後2時、山海関占領。張学良・何桂国に陳謝及び山海関の緩衝地帯化を要求。
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山海関(万里の長城の東端の、奉天~北平の鉄道が関内(支那本土)へ入る入口に当る)。
元日夜、山海関守備隊長(天津派遣軍所属)落合甚九郎少佐の命により、国境警備隊山海関派遣隊特務警士4名が、日本側の山海関憲兵分遣隊裏庭と日本守備隊派出所前の鉄道線路上に手相弾2発ずつを投擲、爆発、損害なし。落合少佐は、これを支那側何柱国軍の仕業として抗議し、安全保障の為に日本軍による山海関南門警備を要求。相手側指拝官何柱国が北京に行っていて留守中に、武力に訴える謀略。
2日夜、関東軍司令部に日支両軍衝突の入電があるが、それ迄に、隷下の第8師団は兵力を山海関へ増強。何柱国が、北平からの帰路、秦豊島に止まり電話で落合隊長と交渉している間に、日本側は攻撃兵力を整える。守備隊が2個中隊だったのを、歩兵10個中隊基幹に増強、空軍1中隊を加え、更に海軍も協力して、津田静枝第2遣外艦隊司令官は軍艦「平戸」と第16駆逐艦隊を急行させる。
3日仏暁、陸海空3軍協同して攻撃開始、牛後2時、山海関を完全占領。午後6時頃、第8師団は関東軍司令部へ山海関占領後の進退に関する指示を求めると、事態拡大は目下の情勢上不得策であり、濫りに渦中に投じないように指揮下部隊を指導せよとの回答。第8師団は何柱国軍を追撃し、4日、石河の線で停止、何柱国軍もここで増援を受け日本軍に対時、後の熟河作戦開始まで一服の状態となる。
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独、オーバーザルツブルクのヒトラー山荘に占星術師ハヌッセン来訪。ヒトラー自信を回復。
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ソ連、スミルノフ(禁固6年)ら「旧降伏者」逮捕。
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ニカラグア、サカサ大統領就任。「愛国グループ」指導者ソフォニアス・サルバティエラ農相。サンディーノに停戦を呼び掛け。国警隊長官ソモサ。
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1934(昭和9)年
中国、国民党中央軍、福建人民政府を総攻撃。13日、壊滅。
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東京宝塚劇場が開場。
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ウィーンで労働者蜂起。政府軍・郷土防衛団と市街戦、鎮圧。~16日。祖国戦線を除く全政党、禁止される。
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ソ連、第2次5ヵ年計画を発表。
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1935年
中国、国民政府、華北と満州国間の通郵を実施。
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1936(昭和11)年
全国の日刊新聞者と日本放送協会により同盟通信社、発足。政府は同社を通じて国内報道統制を開始し、外電取り締まりも強化しようとする。
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1937(昭和12)年
中共中央政治局会議、東北軍・西北軍・紅軍の三位一体強化決定。
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この年元旦の貴族院議長近衛文麿の論文。この頃、正月には新聞雑誌は近衛の論文を掲載。
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「朝日」の「我が政治外交の指標」は、近衛には珍らしく穏健な内容、「政治運用の要諦は政治の明朗性を保持することにある・・・非常時だからといって断じて憲法の埒外に出ることは許されぬ・・・非常時だから国民生活を忍従せしめてよいなどというのは誤謬・・・国民生活の尊重こそ政治の大本だ」との主旨。しかし、他紙では、「日独防共協定」に対し、英米などが一大勢力結成を企てるのは甚だ遺憾と言い、日中間題では、「中国がソ連に依存して、抗日・排日・打倒日本、ボイコットに狂奔」しているとし、これでは「結局日支戦争に行かねばならない」と断言。西園寺はこれを嫌い、広田内閣交代の気配が出るや、いち早く近衛を後継候補から外す。
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「棉花・石炭・鉄鉱等々支部の天然資源は今なお無尽蔵にあるが、これらに要する資本技術などは日本側よりこれを提供し、支部側の労力と共同してその開発に当る」ことを提議し、「自ら開発のカがおよはざるに天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒溝ともいい得るが、日本は友誼の発露として開発をなさんとするものである」(「我が政治外交の指標」)。
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「神聖な年神さまにたった一つお願ひごとをしたい。・・・コレラとペストが一緒に流行ってもよろしうございます。どうか戦争だけはございませんやうに」(野上弥生子「朝日新聞」)。
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ニカラグア、ソモサが大統領に就任。
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イギリスで社会秩序法が施行。政治的意図のある制服や私設軍隊が禁止される。
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1938(昭和13)年
南京市政府に代る住民代表による南京自治委員会再建。中支那方面軍特務部の指導。市政府の役割を事実上代行していた難民区委員会から行政責任を引継ぐ。日本軍占領から2週間以上無政府状況。
正月以後も、国際委員会は「統治する能力も・・・自信もない」(「一ドイツ人の見聞記」)行政能力の低い自治委員会を肩代りして、精力的な救援活動を継続。特に日本兵の非行摘発は、1月上旬に復帰した米大使館など外国代表部に窓口を切替え、外国政府⇒日本外務省⇒陸軍中央部⇒現地軍のルートを通じ圧力を加え、それなりの効果を得る。
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蒋、内閣改造。行政院長辞任。後任孔祥煕。講和の責任取らぬ意志表示。この日、トラウトマンより新4条件に関する細目11ヶ条が非公式に伝えられる。
蒋は、「倭寇が持ち出した(細目)条件は、わが国を征服し滅亡させるものに等しい。日本に屈服して亡びるよりは、戦いに敗れて亡びる方を選ぼう。厳しい拒絶をもって回答としなくてほならない」(「蒋介石秘録」12)と、2日の日記に書く。
「孔(行政院院長)、張(副院長)はこの日(1月1日)正式に就任し、二日には白崇禧、閻錫山等が漢口を去って前線に赴き、四日には蒋介石も開封方面に去ってしまった。ここで後に残った孔、張二人に和平の全責任が負わされてしまったのであるが、しかし前後左右からいろいろ邪魔が入り、徒に時日を空費しているうち、日本軍は遂に待ち切れなくなって一月十六日の声明を発し、すべては全く水泡に帰してしまったのである。・・・和平方針はすでに(民国)二六年(1937年)の大晦日の国防会議で正式に決定され、二七年の元且から実行される筈であったのだ」(安藤徳器「汪精衛(兆銘)自叙伝」)。
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広州で「救亡日報」復活。郭抹若の手配。編集長夏衍(劇作家、のち文化部副部長)。
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尾崎秀実「抗日支部の行方」(「大阪朝日」1日~4日)。
「陸海軍は全支各方面にわたって赫々たる戦果を挙げつつある。しかしながら一切の問題がすべてこれのみによって解決されると考え、これのみに依頼しようと考えるならば、いうまでもなく甚だしき誤りであるだろう」。「支那の長期抵抗の基礎は南京でもなければ、その他の大都市でもない。全支の農村と人民の確固たる決意にあるのだ」との37年12月16日漢ロでの蒋介石の全国民に告げるラジオ放送を引用し、さらに「わが軍事行動の進展にしたがって生ずる・・・日本と列国との間の危機の増大は直ちに日本に対する支那の抵抗力の増大となって現われるであろう」。
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新潟県十日町の映画館旬街座の屋根が積雪で落下、晴着客69人が圧死。
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1939(昭和14)年
中国国民党中央常会臨時会議、汪兆銘の党籍永久除名を決定。逮捕命令を出す。
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スペイン、フィゲラスで共和国最後の国会開催。
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フランスのダラディエ首相、アルジェリア・チュニジア・コルシカを訪問(~6)。イタリアの領土要求(2ヶ月前、イタリア議会がコルシカ、チュニジア返還要求を決議)を拒否。26日 フランス会議、植民地を含む領土防衛を決議。
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1940(昭和15)年
1日より6大都市で次の映画を強制上映。「ある保母の記録」(芸術映画社、水木荘也)、「或日の干潟」(理研、下村兼史)、「戦ふ兵隊」(東宝、亀井文夫、上映禁止)。
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1941年
自由フランス代表ド・ゴール、英外相イーデンより自由フランス海軍総司令官ミュズリエ少将をヴィシーのスパイとして逮捕したとの通告を受ける。冤罪であり1週間で釈放。チャーチル英首相陳謝。最初ド・ゴールはミュズリエを疑っていたと言われ、両者の関係は次第に冷えて行き、1942年3月ミュズリエ解任に繋がる。
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1942(昭和17)年
竹内好「大東亜戦争と吾等の決意(宣戦)」(雑誌「中国文学」第80号)
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食塩通帳配給制。ガス使用量割当制実施。
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フィリピン、午前6時、最後の米比軍、カルンピット橋爆破。
夜、第14軍第16師団(森岡中将)がマニラ市南部、第48師団(土橋中将)が北部を制圧。いつでも進入できる状態。
この時、マニラ市は、31日に米比軍・警察が撤退し無秩序状態となり、難民が騒乱を起し、商店は破壊略奪を受け、数ヶ所に火災が起り、空は黒煙に覆われている。
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第14軍第65旅団(奈良晃中将、歩兵5大隊・野砲2中隊基幹)、リンガエン湾上陸。ジャワに転用される第48師団と交替するため、この日からバタアン半島の第1線まで220Kmを徒歩で強行軍を開始。
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川口支隊2小隊、ラブアン島占領。
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第1航空艦隊、機動部隊のラバウル方面作戦兵力部署と行動予定を示達。
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南方軍・第2艦隊、蘭印攻略日程の1ヶ月繰り上げ協定が成立(通称、カムラン協定)。
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ワシントン、連合国26ヶ国宣言。対枢軸国単独不講和・大西洋憲章(1941.8.14)の原則を確認。軍事的経済的資源の利用に関する宣言。中国宋子文は米英ソについで4番目に署名。
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米英ソ中、反枢軸同盟条約調印。
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極東地域連合軍統合司令部を設置、総司令官に英陸軍ウェーベル中将が就任。
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仏、ジャン・ヌーラン(元県知事、左派政党に人脈を持つ)、ドゴール将軍代理・フランス国民委員会代表としてイギリスよりフランス本土に落下傘降下し活動開始。ド・ゴールは自分が主権国家フランスの代表としての地位を維持するためには国内レジスタンスの広範な支持が必要であると考え、全組織を自分のイニシアティヴのもとに統合することを企図。
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〇フランス・レジスタンス:
翌1943年年1月、ヴィシー政府統治の自由地区レジスタンス諸派を「統一レジスタンス運動」に統合。同じ頃、フランス北部・大西洋沿岸のドイツ軍占領地区のレジスタンス諸派も自由フランス情報行動中央局による統合が進められ、1943年5月27日、全フランス16団体(8組織・6政党・2労組)を結集する「全国抵抗評議会」結成。組織者ジャン・ムーランはこの1ヶ月後ドイツ軍に逮捕され、拷問・殺害。ムーランの死後、ジョルジュ・ビドーを議長に選出、ド・ゴールから独立した機関であることを明確化して行く。
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1943(昭和18)年
中野正剛「戦時宰相論」(「朝日新聞」連載)。東条批判。「朝日新聞」発禁。春、東条政権打倒の重臣工作(重臣らが東条を追詰め、後継首相には宇垣を擁立するシナリオ)。10月、倒閣企図で検挙、釈放後割腹自殺。
ビスマルク、ヒンデンプルグ、ルーデンドルフを引用し、非常時宰相は強くなければならぬ、戦況が悪化したといって顔色憔悴してはならぬ、と説く。「・・・非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄足らずともその任務を果たし得るのである。否日本の非常時宰相はたとえ英雄の本質を有するも、英雄の盛名をほしいままにしてはならないのである」。桂太郎は貫録のない首相に見えたが、人材を活用してその目的を達した。「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しこうして気宇広大でなければならぬ」と結ぶ。
読みようによっては東條を激励しているととれるが、東條は、自分へのあてこすり、批判、中傷、戦局への対応の誹謗ととる。情報局検閲課に新聞紙法第23条による発売禁止を命令。内相でない命令は、23条(内務大臣の権限で、安寧秩序を策したと認めたとき発売、頒布を禁止できる)との条項に違反するが、東條はそんな事には構っていない。陛下の御親任によって首相の任にある者に対する批判中傷は、陛下に対する中傷である、と本当にそう信じている。憲兵隊は、この時から中野正剛監視を命じられる。また、監視は、ときに「法律違反」の捏造を意味する。
*
「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」、題字を「毎日新聞」に統合。
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朝日系グラビア写真雑誌「ジャワ・バルー」創刊
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ソ連軍、ヴェルキエ・ルーキ奪回
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アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ「星の王子様」出版。
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サルトル「存在と無」「蝿」出版。
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1944(昭和19)年
元水上機母艦の空母「千歳」「千代田」の改造終わる。
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仏、統治権をレバノン政府に移管。レバノン、主権回復。
*
独軍、東部戦線(ウクライナ)より撤退開始
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ワルシャワで共産党系の国内国民評議会結成会議。
*
ロンメル、B軍集団の指揮をとる
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1945(昭和20)年
戦時最後のプロ野球試合、在阪4球団で5日間、甲子園球場で行われる。
*
フィリピン、アメリカ軍、ミンドロ島で進撃開始。また、この月、アメリカ軍機、ルソン島北部のバギオを空爆開始。
*
ポーランドのルブリン委員会(国民解放委員会)、ポーランド臨時政府と改称。ポーランド共和国臨時政府樹立(ルブリン)。18日、ワルシャワに移る。亡命政府(ロンドン)、抗議。
*
ドイツ「ボーデンプラッテ(敷石)」作戦(空軍残存戦力による北西欧州連合軍航空基地空襲作戦)。独空軍、連合軍飛行場を奇襲。
*
ドイツ軍、アルザスで「ノルト・ヴィント作戦」
*
ドイツ軍、アルデンヌで後退
*
ドイツ軍、ブダペスト救出作戦を開始。2日、ドイツ軍、ブタベストで反撃。
*
End
2009年1月10日土曜日
「元日」物語(6)
「黙翁年表」の元日の出来事をピックアップ。
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1901(明治34)年
慶應義塾大学で「19世紀・20世紀の送迎会」開催。福澤諭吉は病気のため欠席
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福澤諭吉「痩せ我慢の説」(「時事新報」)。徳富蘇峰と論争。
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川上音二郎・貞奴一行、神奈川丸で神戸港着。
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「労働世界」第69号英文欄、高野が天津から北京に移動し商店を開くとの短信。15日、「労働世界」第70号英文欄、高野が現在ドイツ軍におり、用務のため一時帰国し馬関(下関)にいるとの消息あり。
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イギリス領オーストラリア6植民地、オーストラリア連邦結成。自治権承認。初の内閣首班はエドマンド・バートン。当初より、ジョン・C・ワトソン率いる労働党が政策決定に強い影響力を持つ。
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1903(明治36)年
山路愛山「独立評論」創刊。
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長野県諏訪郡の有力製糸業者、職工争奪防止を目的として諏訪製糸同盟会を結成。男女工の登録制度を実施。
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英国王エドワード7世、デリーで行われた式典でインド皇帝として即位。
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1904(明治37)年
木下尚江「火の柱」(「毎日新聞」連載、~3月20日)。キリスト教社会主義の立場から非戦論を唱える主人公を描く。
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近衞篤麿(42)、没。
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林董駐英公使、訓令により英外相に日露開戦の際の財政上の援助を要請。英は起債保証は不可能と回答。
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ウルグアイ、バッジェ大統領の政策を不満とする保守派ブランコ党反乱。~9月24日。8ヶ月後鎮圧。後、国内の統一ほぼ達成。労働立法制定・基盤産業国有化進む。
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1905(明治38)年
旅順陥落。
午前7時30分頃、第9師団右翼第6旅団(一戸兵衛少将)第35連隊第3大隊(増田惟二少佐)第10中隊、盤龍山堡塁前面の虎頭山に進出、望台攻撃。同時刻、第11師団第22旅団第43連隊第2大隊(松田三郎少佐)第5中隊も望台北側散兵壕に進み攻撃開始。両連隊の突撃は頂上前で撃退される。午前11時20分、両連隊は兵力を増強して再度攻撃。これも突破できず。午後2時30分、28センチ砲による砲撃。午後3時頃、再々度攻撃。ロシア兵は退却。午後3時30分、望台を占領。午後4時30分頃、第1師団司令部より第3軍司令部に、水師営南方の前哨点にロシア軍降伏使節(守備隊軍司令官ステッセル将軍の降伏書簡届ける)現れるの報が届く。
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朝鮮、京釜鉄道草梁・永登浦間開業。釜山~京城間の連絡成る。
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非常特別税法改正公布。即日施行。第2次非常特別税。地租・営業税・所得税・酒税・砂糖消費税・登録税・取引所税・狩猟免許税・鉱業税・売薬営業税・印紙税及び各種輸入税増徴。小切手印紙税・砂金採取地税や、汽車・電車・汽船の乗客に通行税、織物消費税、繭・米・籾に輸入税、相続税法(4月1日施行)など創設。塩専売法開始(6月1日施行)。これにり7,412万8千円余りを得る(内、地租25.3%、塩専売21.9%、印紙収入14.9%)。
*
臨時軍事費予算7億円追加公布。一時借入金・国庫債券・公庫の総額を4億5,500万円以内とする。
*
鳥取市、「因伯時報」主筆波羅生(原戌吉)、政府の社会主義弾圧を批判。
*
与謝野晶子(27)・山川登美子・増田雅子、「恋衣」(本郷書院)発行。登美子は夫の死により明治37新詩社に返り咲く。評判が良く、2月に再版、10月に3版。
*
啄木、詩「心の声」(「明星」巳年第1号)。特別定価40銭。
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尾上松之助一座、マキノ省三の西陣・千本座で興行。
*
伊、ベルギー人のアンリ・ウーデンコーフェン、世界で初めて菜食主義者組織結成。
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1906(明治39)年
小村寿太郎、清国より帰国。
*
3月10日(奉天入場日)を陸軍記念日、5月27日(日本海海戦日)を海軍記念日と決定。
*
足尾銅山で日本鉱山労働組合結成。
*
英、外国人法発効。移民希望者は入国許可前に経済状態・心身健康状態に関する厳しい尋問を受ける。露や中欧からの貧しい移民希望者に大きな打撃。
*
ヘルムート・フォン・モルトケ、独参謀総長就任。
*
1907(明治40)年
福田英子「世界婦人」創刊。半月刊。石川三四郎の助力。婦人問題とともに谷中村問題も取上げる。主な執筆者:安部磯雄・石川三四郎・小野吉勝(有香)・遠藤友四郎・神川松子・堺利彦・幸徳秋水・長加部寅吉・高畠素之・深尾韶・赤羽一(巌穴)・白柳秀湖・内山愚道・大石誠之助・久津見蕨村・西川文子など。二葉亭四迷・小山内薫(1度)も。「新紀元」に袂は分れたキリスト教社会主義者が唯物論社会主義者に再提携し、英子が内村攻撃の急先鋒の幸徳らと接近、また、英子と石川との内縁関係など、内村を刺激。
この頃、英子を巡る婦人たち:堺為子・幸徳千代子・菅野須賀子・菅谷いわ子・西川文子・熊谷千代三夫人・上司小剣夫人・竹内余所次郎夫人ら。
*
1908(明治41)年
「日本平民新聞」、群馬の築比地伸助「革命の歌」など3篇の社会主義の歌応募作発表。
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幸徳秋水「病間放語」(「高知新聞」)。倒幕運動・自由民権運動の伝統を述べ、「革命は過去のものなり、歴史のものなりと思はば、これは大なるあやまりなり。文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮を保護するの日本、三井と岩崎の日本においても、革命はたしかに活ける問題なり。」と提起。続いて、中国革命の成功を語る。
また、「文芸上における陶庵公と早稲田伯」(「中央公論」新年号)掲載。明治39年2月17日の文芸協会発会式(坪内・島村が大隈を会頭にいだく)、明治40年6月17日西園寺(号「陶庵」)が文士30名を招待して会を開くことを批判(二葉亭・漱石は欠席)。
*
漱石(41)、「坑夫」(1月1日~4月6日)、「夢十夜」(7月25日~8月)、続けて「三四郎」(9月1日~12月29日)、「それから」(明治42年6月27日~10月14日)、「門」(明治43年3月1日~6月12日)のいわゆる「前期三部作」を連載。
*
蒲原有明「有明集」。
*
高浜虚子「鶏頭」。漱石の序を付し、「風流懺法」「斑鳩物語」などを含む。
*
1909(明治42)年
北原白秋ら、「スバル」創刊(森鴎外命名、発行名義人啄木)。「明星」終刊後、平出修が出資。最初の編集同人、平野万里、吉井勇、石川啄木、木下杢太郎。客員与謝野鉄幹・晶子。発行所住所は平出修法律事務所。啄木(小説)「赤痢」、鷗外(戯曲)「プルムウラ」。~1913年12月、60冊。
*
森田草平「煤煙」(「東京朝日新聞」~5月16日、1910年2月~1913年11月、4巻刊)。事前に漱石から父定二郎へ、草平は事件により中学教師の職を失い、もの書き以外に生きる道がなく、事件を題材に小説を書く許可を求める手紙。母光沢が断りに出かけるが、漱石に押し切られる。新聞は12月1日より小説掲載予告を派手に宣伝。12月中旬、明子は信州から帰郷し草平を訪問、不在のため絶縁の手紙を託す。小説の反響は大きく、草平はスキャンダルを売り物に有名作家となる。小説中の明子の手紙は、約束に反し半分程が手を加えられており、やがて明子は「煤煙」に対する意見や自己の内面を表白する作品を公開し始める。
この年、明子は曙町の実家に戻り、神田美土代町日本禅学堂で中原南天禅老師について参禅、神田正則英語学校で唯一の女生徒として英語を学ぶ。年末には、禅の友人木村政子との交遊から、西宮海清寺で臘八接心を受け、再び見性を許され「全明」の大姉号を受ける。
*
山路愛山「足利尊氏」。
*
米、映画特許会社設立。仏の2社を含む9社の映画製作会社に特許許可。
*
英、1908年8月1日に可決の老齢年金法、発効。
*
1910(明治43)年
千駄ヶ谷平民社、正月の屠蘇気分も手伝い、大晦日に来た宮下太吉を交え、幸徳・管野・新村ら、空缶の投擲試験。但し、秋水は気乗り薄く、須賀子も病み上がりで元気なし。午後3時、まとまった相談もできず宮下は退去。入れ違いに古河力作が来訪。宮下は、甲府の山本久七万宅に2泊し、3日午後6時、明科に帰る。
〇古河力作:
明治17年6月14日福井県遠敷郡雲浜村生まれ。明治36年秋、園芸見習いのため上京、下滝野川の康楽円印東熊児方で草花栽培に従事。1908年7月頃より平民社に出入り、1909年10月、天皇暗殺への加担を請われ、日頃の大言壮語の手前もあり賛同の意を表す。
*
上田敏「うづまき」(「国民新聞」~3月2日、6月刊)。
*
島崎藤村「家」前編(「読売」~5月4日、後編、原題「犠牲」(「中央公論」1911年1月~4月)、1911年11月刊)。
*
「スバル」第2年1号発行。発行名義人は啄木から江南文三に代わる。
*
種痘法(1909年4月14日公布)、施行。新生児の種痘義務化など。
*
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、テノール歌手エンリコ・カルーゾーを起用しオペラを初めてラジオ放送。
*
1911(明治44)年
朝鮮、業務総監部、安明根の逮捕を機に朝鮮黄海道一帯の民族主義者の一斉大検挙(安岳事件・105人事件)。
*
政府、「逆徒判決証拠説明書」を在外大使館に送付。英訳を国内英字新聞掲載。
*
田村とし「あきらめ」(「大阪朝日新聞」~3月21日)。7月刊。前年「1万号記念文芸募集」で1等当選作。
*
1910年11月12日交付の漁業組合令、施行。1910年3月25日に改正された地租条令、施行。地価税率改正。1910年3月26日交付の電気測定法、施行。1910年4月6日に改正された営業税法、施行。税率増加。漁業組合令、施行。
*
1912(大正元)年
中華民国南京臨時政府成立。南京。大総統孫文。副総統黎元洪、陸軍部長黄興、教育総長蔡元培、秘書長胡漢民。革命派は5人のみ。
*
中華民国、太陽暦の採用決定(1911年12月31日)。この日を中華民国元年1月1日とする。
*
日本陸軍500人以上、漢口警備の陸戦隊と交代のため漢口に到着。
*
安田善次郎、保善社(安田財閥中枢の持株会社)を設立。本社東京。資本金1千万円。代表社員安田善次郎・安田善三郎。
*
漱石(45)、「彼岸過迄」。~4月29日。小説執筆を再開。
*
黒田清輝(45)、大晦日の夜に鎌倉に行き、乱橋の貸別荘昔人庵で新年を迎え、滞在。6日小坪に、8日、再び小坪に行き、山路の夕景を写生。翌日も小坪に行き、図を修正。17日一旦帰京
*
啄木(26)、「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた。」「明治四十五年がストライキの中に来たという事は、私の興味を惹かないわけには行かなかった。・・・国民が団結すれば勝ということ、多数は力なりということを知ってくるのは、オオルド・ニッポンの眼からは、無論危険極まることと見えるに違いない」(「日記」)。
19日、「去年のうちは死ぬ事ばかり考へてゐたつけが、此頃は何とかして生きなければならぬと思ふ。」(「日記」)。21日、森田草平に窮状を訴える手紙を書き金策を依頼。22日、森田草平、夏目漱石夫人鏡子からの見舞金10円と征露丸を持参。23日、母カツ、近所の開業医(宮内省侍医)三浦省軒の代診の診察により、結核と判明。江馬修の厚意により訪れた医師柿本庄六の診察結果も同じ。喀血が続き重体。25日以後、三浦省軒の診察を受ける。26日、東京朝日新聞学芸部長杉村広太郎(楚人冠)から、社内有志による義金企ての通知来る。29日、佐藤北江、社内有志17名の見舞金34円40銭と新年宴会酒肴料3円を届けに来宅。30日、夕方俥に乗って神楽坂の相馬屋まで原稿用紙を買いに行き、帰りに本屋でクロポトキン「ロシアの文学その理想と現実」を購入。
*
東京市電ストライキ。前年明治44年8月、東京鉄道会社は東京市に買収。運転手・車掌らの解散慰労手当て分配が少なく労働者6千が増額を要求してストライキ。2日、増額獲得。15日、片山潜ら指導者逮捕。
*
1913(大正2)年
石川三四郎、「西洋社会運動史」刊行。
一戸直蔵、「現代之科学」創刊。月刊科学啓蒙誌。
*
1914(大正3)年
鉄道院線、ロシア東清鉄道と朝鮮総督府鉄道・満鉄・大阪商船・ロシア義勇艦隊航路を介して貨物連絡運輸を開始。
*
与謝野晶子、詩歌集「夏より秋へ」(金尾文淵堂)。
*
英保護領の北ナイジェリアと南ナイジェリア、合併統一。ルガード初代北部ナイジェリア保護領高等弁務官、新総督に就任。
*
1915(大正4)年
袁世凱、帝位につく。
*
長崎~上海間に電信海底線開通。日華間和文電報の取扱開始。5月、佐世保~青島間開通。
*
「U25」、イギリス戦艦「フォーミダブル」撃沈。
*
1916(大正5)年
袁世凱、皇帝即位を正式発表。洪憲元年とする。
*
雲南都督府成立。「護国軍政府討袁檄文」
*
漱石(49)、「点頭録」(~1月21日まで)
*
佐々木惣一「立憲非立憲」(「大阪朝日」連載~19日、18回)。
*
スパルタクス団結成。ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトら。戦争の内乱への転化、革命目指す。
*
1917(大正6)年
田川大吉郎「人道上より見たる日本と英国の政変」(「第三帝国」第80号)、発禁。天皇は元老のいいなりと、元老の政権私議を批判。新聞紙法違反として田川を5ヶ月禁錮・罰金100円、石田を2ヶ月の禁錮・罰金90円に処す。弾圧にも屈せず石田らは「第三帝国」を守り続け第1次大戦後に到る。
*
大田實中尉、従七位叙勲。
*
与謝野晶子(39)、評論集「我等何を求むるか」刊行(天弦堂書房)。
*
1918(大正7)年
退役陸軍少佐石光真清(関東都督府陸軍部嘱託)、僧侶安倍道瞑と共に満州里出発。チタ~アレクセーエフ経由、15日、ブラゴウェシチェンスク(露満国境アムール川岸)着。
当時のブラゴウェシチェンスクには中国人7千、日本人350(2/3が娼婦・酌婦)、ギリシャ人150、他イタリア・フランス・トルコ人。反革命勢力のコルチャークはオムスク、トボリスク方面、ホルバト(ハルビンの日本軍が密かに支援)は沿海州、セミョーノフはチタ方面にある。アムール州ではブラゴウェシチェンスクのみがボルシェヴィキ武装部隊の中で孤立。
*
台湾銀行バタビア支店開設。
*
満州における国庫金取扱事務、横浜正金銀行から朝鮮銀行へ移管。
*
警視庁、オートバイ交通専務巡査を配置(赤バイ。36年に白バイへ変更)。
*
大杉栄・伊藤野枝ら、「文明批判」創刊。連続発禁となり2月2号で廃刊。
大杉の戦闘開始宣言。
「あの事件で最も喜んだのは敵だった。そして正直な奴等や不正直な奴等は、或は無意識的に或は意識的に、少なくとも其の結果に於て散に利用された。肉体的に殺されなかった僕を、こんどは精神的に殺して了おうとした。愚鈍な奴等だ。卑怯な奴等だ。しかしよく聞け、憎まれ児は世にはびこる。どこまでもはびこって見せる。死んでもはびこって見せる」。
21日より久板卯之助を、23日より和田久太郎を自宅に同居させる(2月4日、和田は堺利彦に退社を命じられる)。
「大杉栄カ同年末ヨリ再ヒ活動ヲ開始スルヤ同人ノ行動ニ共鳴シ同七年一月二十三日ヨリ大杉方ノ食客トナリ而カモ堺其ノ他ノ同志二之ヲ秘シ置キシヲ堺二於チ感知シ堺ハ同二月四日和田ニ対シ退社ヲ命シタリ」(「「特別要観察人状勢一班」)。
*
紡績、第8次操短実施。
*
ロシア、人民委員会会議、「失業と飢餓」を作り出す「資本主義的破壊者」は労働者として鉱山に送る布告。
*
ロシア、レーニン、グルジア人セルゲイ・オルジョニキーゼをウクライナ担当特別人民委員に任命。
*
イギリス外務次官セシル、珍田駐英大使に日本軍主力とイギリス・アメリカ3ヶ国でウラジオストク派兵提議。珍田大使は日本へ急電。ウラジオへの他国の進出は日本が最も懸念する事柄。
*
to be continued
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1901(明治34)年
慶應義塾大学で「19世紀・20世紀の送迎会」開催。福澤諭吉は病気のため欠席
*
福澤諭吉「痩せ我慢の説」(「時事新報」)。徳富蘇峰と論争。
*
川上音二郎・貞奴一行、神奈川丸で神戸港着。
*
「労働世界」第69号英文欄、高野が天津から北京に移動し商店を開くとの短信。15日、「労働世界」第70号英文欄、高野が現在ドイツ軍におり、用務のため一時帰国し馬関(下関)にいるとの消息あり。
*
イギリス領オーストラリア6植民地、オーストラリア連邦結成。自治権承認。初の内閣首班はエドマンド・バートン。当初より、ジョン・C・ワトソン率いる労働党が政策決定に強い影響力を持つ。
*
1903(明治36)年
山路愛山「独立評論」創刊。
*
長野県諏訪郡の有力製糸業者、職工争奪防止を目的として諏訪製糸同盟会を結成。男女工の登録制度を実施。
*
英国王エドワード7世、デリーで行われた式典でインド皇帝として即位。
*
1904(明治37)年
木下尚江「火の柱」(「毎日新聞」連載、~3月20日)。キリスト教社会主義の立場から非戦論を唱える主人公を描く。
*
近衞篤麿(42)、没。
*
林董駐英公使、訓令により英外相に日露開戦の際の財政上の援助を要請。英は起債保証は不可能と回答。
*
ウルグアイ、バッジェ大統領の政策を不満とする保守派ブランコ党反乱。~9月24日。8ヶ月後鎮圧。後、国内の統一ほぼ達成。労働立法制定・基盤産業国有化進む。
*
1905(明治38)年
旅順陥落。
午前7時30分頃、第9師団右翼第6旅団(一戸兵衛少将)第35連隊第3大隊(増田惟二少佐)第10中隊、盤龍山堡塁前面の虎頭山に進出、望台攻撃。同時刻、第11師団第22旅団第43連隊第2大隊(松田三郎少佐)第5中隊も望台北側散兵壕に進み攻撃開始。両連隊の突撃は頂上前で撃退される。午前11時20分、両連隊は兵力を増強して再度攻撃。これも突破できず。午後2時30分、28センチ砲による砲撃。午後3時頃、再々度攻撃。ロシア兵は退却。午後3時30分、望台を占領。午後4時30分頃、第1師団司令部より第3軍司令部に、水師営南方の前哨点にロシア軍降伏使節(守備隊軍司令官ステッセル将軍の降伏書簡届ける)現れるの報が届く。
*
朝鮮、京釜鉄道草梁・永登浦間開業。釜山~京城間の連絡成る。
*
非常特別税法改正公布。即日施行。第2次非常特別税。地租・営業税・所得税・酒税・砂糖消費税・登録税・取引所税・狩猟免許税・鉱業税・売薬営業税・印紙税及び各種輸入税増徴。小切手印紙税・砂金採取地税や、汽車・電車・汽船の乗客に通行税、織物消費税、繭・米・籾に輸入税、相続税法(4月1日施行)など創設。塩専売法開始(6月1日施行)。これにり7,412万8千円余りを得る(内、地租25.3%、塩専売21.9%、印紙収入14.9%)。
*
臨時軍事費予算7億円追加公布。一時借入金・国庫債券・公庫の総額を4億5,500万円以内とする。
*
鳥取市、「因伯時報」主筆波羅生(原戌吉)、政府の社会主義弾圧を批判。
*
与謝野晶子(27)・山川登美子・増田雅子、「恋衣」(本郷書院)発行。登美子は夫の死により明治37新詩社に返り咲く。評判が良く、2月に再版、10月に3版。
*
啄木、詩「心の声」(「明星」巳年第1号)。特別定価40銭。
*
尾上松之助一座、マキノ省三の西陣・千本座で興行。
*
伊、ベルギー人のアンリ・ウーデンコーフェン、世界で初めて菜食主義者組織結成。
*
1906(明治39)年
小村寿太郎、清国より帰国。
*
3月10日(奉天入場日)を陸軍記念日、5月27日(日本海海戦日)を海軍記念日と決定。
*
足尾銅山で日本鉱山労働組合結成。
*
英、外国人法発効。移民希望者は入国許可前に経済状態・心身健康状態に関する厳しい尋問を受ける。露や中欧からの貧しい移民希望者に大きな打撃。
*
ヘルムート・フォン・モルトケ、独参謀総長就任。
*
1907(明治40)年
福田英子「世界婦人」創刊。半月刊。石川三四郎の助力。婦人問題とともに谷中村問題も取上げる。主な執筆者:安部磯雄・石川三四郎・小野吉勝(有香)・遠藤友四郎・神川松子・堺利彦・幸徳秋水・長加部寅吉・高畠素之・深尾韶・赤羽一(巌穴)・白柳秀湖・内山愚道・大石誠之助・久津見蕨村・西川文子など。二葉亭四迷・小山内薫(1度)も。「新紀元」に袂は分れたキリスト教社会主義者が唯物論社会主義者に再提携し、英子が内村攻撃の急先鋒の幸徳らと接近、また、英子と石川との内縁関係など、内村を刺激。
この頃、英子を巡る婦人たち:堺為子・幸徳千代子・菅野須賀子・菅谷いわ子・西川文子・熊谷千代三夫人・上司小剣夫人・竹内余所次郎夫人ら。
*
1908(明治41)年
「日本平民新聞」、群馬の築比地伸助「革命の歌」など3篇の社会主義の歌応募作発表。
*
幸徳秋水「病間放語」(「高知新聞」)。倒幕運動・自由民権運動の伝統を述べ、「革命は過去のものなり、歴史のものなりと思はば、これは大なるあやまりなり。文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮を保護するの日本、三井と岩崎の日本においても、革命はたしかに活ける問題なり。」と提起。続いて、中国革命の成功を語る。
また、「文芸上における陶庵公と早稲田伯」(「中央公論」新年号)掲載。明治39年2月17日の文芸協会発会式(坪内・島村が大隈を会頭にいだく)、明治40年6月17日西園寺(号「陶庵」)が文士30名を招待して会を開くことを批判(二葉亭・漱石は欠席)。
*
漱石(41)、「坑夫」(1月1日~4月6日)、「夢十夜」(7月25日~8月)、続けて「三四郎」(9月1日~12月29日)、「それから」(明治42年6月27日~10月14日)、「門」(明治43年3月1日~6月12日)のいわゆる「前期三部作」を連載。
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蒲原有明「有明集」。
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高浜虚子「鶏頭」。漱石の序を付し、「風流懺法」「斑鳩物語」などを含む。
*
1909(明治42)年
北原白秋ら、「スバル」創刊(森鴎外命名、発行名義人啄木)。「明星」終刊後、平出修が出資。最初の編集同人、平野万里、吉井勇、石川啄木、木下杢太郎。客員与謝野鉄幹・晶子。発行所住所は平出修法律事務所。啄木(小説)「赤痢」、鷗外(戯曲)「プルムウラ」。~1913年12月、60冊。
*
森田草平「煤煙」(「東京朝日新聞」~5月16日、1910年2月~1913年11月、4巻刊)。事前に漱石から父定二郎へ、草平は事件により中学教師の職を失い、もの書き以外に生きる道がなく、事件を題材に小説を書く許可を求める手紙。母光沢が断りに出かけるが、漱石に押し切られる。新聞は12月1日より小説掲載予告を派手に宣伝。12月中旬、明子は信州から帰郷し草平を訪問、不在のため絶縁の手紙を託す。小説の反響は大きく、草平はスキャンダルを売り物に有名作家となる。小説中の明子の手紙は、約束に反し半分程が手を加えられており、やがて明子は「煤煙」に対する意見や自己の内面を表白する作品を公開し始める。
この年、明子は曙町の実家に戻り、神田美土代町日本禅学堂で中原南天禅老師について参禅、神田正則英語学校で唯一の女生徒として英語を学ぶ。年末には、禅の友人木村政子との交遊から、西宮海清寺で臘八接心を受け、再び見性を許され「全明」の大姉号を受ける。
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山路愛山「足利尊氏」。
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米、映画特許会社設立。仏の2社を含む9社の映画製作会社に特許許可。
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英、1908年8月1日に可決の老齢年金法、発効。
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1910(明治43)年
千駄ヶ谷平民社、正月の屠蘇気分も手伝い、大晦日に来た宮下太吉を交え、幸徳・管野・新村ら、空缶の投擲試験。但し、秋水は気乗り薄く、須賀子も病み上がりで元気なし。午後3時、まとまった相談もできず宮下は退去。入れ違いに古河力作が来訪。宮下は、甲府の山本久七万宅に2泊し、3日午後6時、明科に帰る。
〇古河力作:
明治17年6月14日福井県遠敷郡雲浜村生まれ。明治36年秋、園芸見習いのため上京、下滝野川の康楽円印東熊児方で草花栽培に従事。1908年7月頃より平民社に出入り、1909年10月、天皇暗殺への加担を請われ、日頃の大言壮語の手前もあり賛同の意を表す。
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上田敏「うづまき」(「国民新聞」~3月2日、6月刊)。
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島崎藤村「家」前編(「読売」~5月4日、後編、原題「犠牲」(「中央公論」1911年1月~4月)、1911年11月刊)。
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「スバル」第2年1号発行。発行名義人は啄木から江南文三に代わる。
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種痘法(1909年4月14日公布)、施行。新生児の種痘義務化など。
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ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、テノール歌手エンリコ・カルーゾーを起用しオペラを初めてラジオ放送。
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1911(明治44)年
朝鮮、業務総監部、安明根の逮捕を機に朝鮮黄海道一帯の民族主義者の一斉大検挙(安岳事件・105人事件)。
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政府、「逆徒判決証拠説明書」を在外大使館に送付。英訳を国内英字新聞掲載。
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田村とし「あきらめ」(「大阪朝日新聞」~3月21日)。7月刊。前年「1万号記念文芸募集」で1等当選作。
*
1910年11月12日交付の漁業組合令、施行。1910年3月25日に改正された地租条令、施行。地価税率改正。1910年3月26日交付の電気測定法、施行。1910年4月6日に改正された営業税法、施行。税率増加。漁業組合令、施行。
*
1912(大正元)年
中華民国南京臨時政府成立。南京。大総統孫文。副総統黎元洪、陸軍部長黄興、教育総長蔡元培、秘書長胡漢民。革命派は5人のみ。
*
中華民国、太陽暦の採用決定(1911年12月31日)。この日を中華民国元年1月1日とする。
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日本陸軍500人以上、漢口警備の陸戦隊と交代のため漢口に到着。
*
安田善次郎、保善社(安田財閥中枢の持株会社)を設立。本社東京。資本金1千万円。代表社員安田善次郎・安田善三郎。
*
漱石(45)、「彼岸過迄」。~4月29日。小説執筆を再開。
*
黒田清輝(45)、大晦日の夜に鎌倉に行き、乱橋の貸別荘昔人庵で新年を迎え、滞在。6日小坪に、8日、再び小坪に行き、山路の夕景を写生。翌日も小坪に行き、図を修正。17日一旦帰京
*
啄木(26)、「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた。」「明治四十五年がストライキの中に来たという事は、私の興味を惹かないわけには行かなかった。・・・国民が団結すれば勝ということ、多数は力なりということを知ってくるのは、オオルド・ニッポンの眼からは、無論危険極まることと見えるに違いない」(「日記」)。
19日、「去年のうちは死ぬ事ばかり考へてゐたつけが、此頃は何とかして生きなければならぬと思ふ。」(「日記」)。21日、森田草平に窮状を訴える手紙を書き金策を依頼。22日、森田草平、夏目漱石夫人鏡子からの見舞金10円と征露丸を持参。23日、母カツ、近所の開業医(宮内省侍医)三浦省軒の代診の診察により、結核と判明。江馬修の厚意により訪れた医師柿本庄六の診察結果も同じ。喀血が続き重体。25日以後、三浦省軒の診察を受ける。26日、東京朝日新聞学芸部長杉村広太郎(楚人冠)から、社内有志による義金企ての通知来る。29日、佐藤北江、社内有志17名の見舞金34円40銭と新年宴会酒肴料3円を届けに来宅。30日、夕方俥に乗って神楽坂の相馬屋まで原稿用紙を買いに行き、帰りに本屋でクロポトキン「ロシアの文学その理想と現実」を購入。
*
東京市電ストライキ。前年明治44年8月、東京鉄道会社は東京市に買収。運転手・車掌らの解散慰労手当て分配が少なく労働者6千が増額を要求してストライキ。2日、増額獲得。15日、片山潜ら指導者逮捕。
*
1913(大正2)年
石川三四郎、「西洋社会運動史」刊行。
一戸直蔵、「現代之科学」創刊。月刊科学啓蒙誌。
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1914(大正3)年
鉄道院線、ロシア東清鉄道と朝鮮総督府鉄道・満鉄・大阪商船・ロシア義勇艦隊航路を介して貨物連絡運輸を開始。
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与謝野晶子、詩歌集「夏より秋へ」(金尾文淵堂)。
*
英保護領の北ナイジェリアと南ナイジェリア、合併統一。ルガード初代北部ナイジェリア保護領高等弁務官、新総督に就任。
*
1915(大正4)年
袁世凱、帝位につく。
*
長崎~上海間に電信海底線開通。日華間和文電報の取扱開始。5月、佐世保~青島間開通。
*
「U25」、イギリス戦艦「フォーミダブル」撃沈。
*
1916(大正5)年
袁世凱、皇帝即位を正式発表。洪憲元年とする。
*
雲南都督府成立。「護国軍政府討袁檄文」
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漱石(49)、「点頭録」(~1月21日まで)
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佐々木惣一「立憲非立憲」(「大阪朝日」連載~19日、18回)。
*
スパルタクス団結成。ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトら。戦争の内乱への転化、革命目指す。
*
1917(大正6)年
田川大吉郎「人道上より見たる日本と英国の政変」(「第三帝国」第80号)、発禁。天皇は元老のいいなりと、元老の政権私議を批判。新聞紙法違反として田川を5ヶ月禁錮・罰金100円、石田を2ヶ月の禁錮・罰金90円に処す。弾圧にも屈せず石田らは「第三帝国」を守り続け第1次大戦後に到る。
*
大田實中尉、従七位叙勲。
*
与謝野晶子(39)、評論集「我等何を求むるか」刊行(天弦堂書房)。
*
1918(大正7)年
退役陸軍少佐石光真清(関東都督府陸軍部嘱託)、僧侶安倍道瞑と共に満州里出発。チタ~アレクセーエフ経由、15日、ブラゴウェシチェンスク(露満国境アムール川岸)着。
当時のブラゴウェシチェンスクには中国人7千、日本人350(2/3が娼婦・酌婦)、ギリシャ人150、他イタリア・フランス・トルコ人。反革命勢力のコルチャークはオムスク、トボリスク方面、ホルバト(ハルビンの日本軍が密かに支援)は沿海州、セミョーノフはチタ方面にある。アムール州ではブラゴウェシチェンスクのみがボルシェヴィキ武装部隊の中で孤立。
*
台湾銀行バタビア支店開設。
*
満州における国庫金取扱事務、横浜正金銀行から朝鮮銀行へ移管。
*
警視庁、オートバイ交通専務巡査を配置(赤バイ。36年に白バイへ変更)。
*
大杉栄・伊藤野枝ら、「文明批判」創刊。連続発禁となり2月2号で廃刊。
大杉の戦闘開始宣言。
「あの事件で最も喜んだのは敵だった。そして正直な奴等や不正直な奴等は、或は無意識的に或は意識的に、少なくとも其の結果に於て散に利用された。肉体的に殺されなかった僕を、こんどは精神的に殺して了おうとした。愚鈍な奴等だ。卑怯な奴等だ。しかしよく聞け、憎まれ児は世にはびこる。どこまでもはびこって見せる。死んでもはびこって見せる」。
21日より久板卯之助を、23日より和田久太郎を自宅に同居させる(2月4日、和田は堺利彦に退社を命じられる)。
「大杉栄カ同年末ヨリ再ヒ活動ヲ開始スルヤ同人ノ行動ニ共鳴シ同七年一月二十三日ヨリ大杉方ノ食客トナリ而カモ堺其ノ他ノ同志二之ヲ秘シ置キシヲ堺二於チ感知シ堺ハ同二月四日和田ニ対シ退社ヲ命シタリ」(「「特別要観察人状勢一班」)。
*
紡績、第8次操短実施。
*
ロシア、人民委員会会議、「失業と飢餓」を作り出す「資本主義的破壊者」は労働者として鉱山に送る布告。
*
ロシア、レーニン、グルジア人セルゲイ・オルジョニキーゼをウクライナ担当特別人民委員に任命。
*
イギリス外務次官セシル、珍田駐英大使に日本軍主力とイギリス・アメリカ3ヶ国でウラジオストク派兵提議。珍田大使は日本へ急電。ウラジオへの他国の進出は日本が最も懸念する事柄。
*
to be continued
「元日」物語(5)
「黙翁年表」の元日分ピックアップ。あと100年分で終わる。
-----------------------------------
1848年
イタリア、オーストリア支配下ロンバルト・ヴェーネト王国、ミラノ、一斉禁煙運動。3日、市民と墺軍衝突。死者5、負傷59。
*
ニューヨークの亡命者グループ、キューバ人評議会結成。ガスパル・ベタンクール・シスネロス、ホセ・アニセト・イスナガら中心、マダン総裁。「真実」発刊、「5万の”アメリカ人”が白人救出のためにキューバに上陸してくる」と宣伝。奴隷制擁護と併合主義の論陣を張る。
*
1854(嘉永7)年
水戸藩主徳川慶篤、あらかじめ米艦の再来を藩士に告げて戒め、冗費節約・武備厳修を徹底させる。
*
1857年
クララ・シューマン(36)、家計の為にコンサートピアニストとしての演奏活動再開。この日はライプツィッヒ・ゲヴァントハウスでの演奏。
*
1858(安政5)年
堀田正睦、一橋慶喜に斉昭の暴言につき申入れ。2日、慶喜、堀田正睦の懇願により小石川邸に行き、前月29日の斉昭の勘定奉行川路聖謨・同永井尚志への暴言を諌める。4日、川路・永井・岩瀬、一橋邸訪問。慶喜、斉昭の堀田宛詫び状を使者川路・永井に託す。慶喜、川路聖謨に能装束を与う。
*
1859(安政6)年
高杉晋作(21)、従兄弟南亀五郎に書状を送り30歳まで妻帯しないと宣言。
*
1860(安政7)年
この日~3月末、久坂玄瑞、再び日記をつけはじめる(「江月斎日乗」)。
*
パリ市域、20区に拡大再編。
*
1861年
米、チャールストン、サムター砦への連邦補給船、砲撃され追い返される。
*
1862(文久2)年
午前7時、遣欧使節、英国軍艦「オ-デン」で長崎を出帆。
*
1863(文久3)年
坂本龍馬(29)、勝の命で、千葉重太郎・近藤長次郎・他1名と大坂へ出立。「龍馬、昶次郎、十太郎(千葉)外一人を大坂へ到らしめ京師に帰す」(海舟日記)。
*
1864(文久4)年
川上音二郎、誕生。
*
1865(元治2)年
西郷吉之助、広島より小倉に到着。4日、三条らと5卿移転を議論。
同日、徳川慶勝(第1次征長総督)、広島の陣を撤収、帰途につく。
*
1866(慶応2)年
坂本龍馬(32)、長府藩主の内命により印藤肇を介して下関福永専助宅で三吉慎蔵と会見、主客鼎座徹宵懇談。2日、三吉慎蔵と引き続き面談、5日迄逗留。10日、三吉慎蔵と共に船で京都へ向け下関発。西郷・木戸間の話合い結果確認の為。この頃、高杉晋作から送別の漢詩を贈られる。
*
マルクス(48)、「資本論」浄書・文体手入れ開始。16日、中央委員会会議で自分の代りにロンゲをベルギー担当書記に推し採択される。22日、ポーランド亡命者団体と国際労働者協会とが開催したポーランド革命祝賀会で演説。30日~3月上旬、ねぷとが沢山でき重症。寝たまま「資本論」の仕事。前年までは全3巻を完成させ出版する意向であったが、エンゲルスの勧めで第1巻の浄書が済み次第、印刷に付すことに決める。
*
1867(慶応3)年
伊東甲子太郎・永倉新八・斉藤一ら、島原の角屋で酒宴。4日、帰営、謹慎を申し渡される。
*
1868(明治元)年
徳川慶喜、大坂で、朝廷の決定も諸国の暴動も薩摩藩奸臣の仕業で、彼らを誅戮したいとの「討薩表」を起草、強硬派の京都進撃を許す。大目付滝川具挙、「討薩の表」を持ち先鋒と共に大坂から北上開始。
*
討薩表。
「臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。
罪状書
一、大事件は衆議を尽すと仰出され候処、九日突然に非常の御改革を口実に致 し、幼帝を侮り奉り、諸般の御所置私論を主張候事。
一、主上御幼冲の折柄、先帝御依託あらせられ候摂政殿下を廃し参内を止め候事。 一、私意を以て、宮・堂上方を恣に黜陟せしむる事。
一、九門其の外御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に迫り候条、 朝廷を憚からざる大不敬の事。
一、家来共、浮浪の徒を語合い、屋敷へ屯集し、江戸市中押込み強盗いたし、 酒井左衛門尉人数屯所え発砲・乱妨し、其の他野州・相州処々焼討却盗に及 び候は証跡分明にこれ有り候事」(「続徳川実記」)。
*
兵庫沖、榎本艦隊(「開陽」「蟠竜」「翔鶴」「富士山」「順動丸」5隻)、薩摩汽船(「平運」「春日丸」)を砲撃、平運丸損傷。
*
1869(明治2)年
観音崎の日本最初の燈明台(燈台の呼称は明治5年)、完成点灯。
*
1870(明治3)年
長州藩吉田・船木で一揆。12日、長州藩熊毛郡岩田村で一揆。13日、州藩大森県浜田で一揆。
*
マルクス、ジュネーブのバクーニン派「エガリテ」紙が総務委員会を攻撃したのに対し、総務委員会特別会議でジュネーブのラテン系スイス人連合委員会に宛てて回答書草案を提出。採択。8日まで草案に手を入れ、16日、国際労働者協会各支部に送付。
*
1871(明治4)年
山川健二郎、アメリカ留学へ出発、横浜港。
*
ドイツ帝国(第2帝政)発足。プロイセン中核の連邦国家「ドイツ帝国」成立。ヴェルサイユ宮殿鏡の間、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝即位。
*
ドイツ帝国憲法:
北ドイツ連邦を代表するプロイセン王と南ドイツ4ヶ国君主の同盟という形をとり、内容は1867年成立の北ドイツ連邦憲法の延長。北ドイツ連邦憲法もそれを構成する諸国君主及び3都市市政府の同盟という形をとる。そこで連邦首長と云われていた者がここでは皇帝となり、連邦がライヒと呼ばれるようになる(但し帝国議会の名称は北ドイツ連邦の時から用いられている)。新帝国は25の国家(王国4、大公国6、公国5、侯国7、自由市3)と直轄地エルザス・ロートリンゲンより成る連邦で、各国政府代表者から成る連邦参議院と全国民の直接普通選挙による帝国議会がある。
*
ドイツ帝国の統一主義と連邦主義との矛盾は、連邦内の1国であるプロイセンが、面積・人口において2/3を占める超大国であることにある。プロイセン王=ドイツ皇帝は憲法に定められているが、皇帝の任命する帝国宰相=プロイセン首相との規定はない。しかし実際には短い期間の例外を除き、帝国宰相=プロイセン首相であり、しかも帝国には内閣制度がなく形の上では宰相の独裁であるので、ドイツの政治がプロイセンによるドイツ征服の観を呈するのは当然。そしてプロイセンは依然三級選挙法の下にユンカー支配が存続している国である。ビスマルク失脚後、ドイツ帝国の矛盾が顕著になり、いわゆる「プロイセン=ドイツ問題」「プロイセンのドイツへの解消」がドイツの良心的知識人の最大の関心事となる。
*
アイルランド国教会廃止
*
仏、パリ、全20区共和主義中央委員会、全20区代表団という名に変える。
*
1873(明治6)年
日本、太陽暦実施
*
ブダ、ペシュト合併。ブダペスト、ハンガリー側首都となる
*
ゴッホ弟テオ、セント伯父の紹介によりグーピル商会ブリュッセル支店に就職。
*
1877年
エンゲルス「反デューリング論」、「フォルヴェルツ」紙(ドイツ社会民主党機関紙)に連載。
*
1879年
ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」初演。ライプニッツ・ゲバントハウス。ヨハヒム演奏。
*
1881(明治14)年
仏、オーギュスト・ブランキ(76)、没。
*
1883(明治16)年
鳩山一郎、東京に誕生。
*
1885(明治18)年
清国北洋副大臣呉大澂、随員40・護衛兵250で漢城入京。朝鮮政府に譲歩を説く。
*
1888年
チャイコフスキー、ライプツィッヒでブラームス、グリークと知合う。
*
1890年
ドイツ公使西園寺公望(40)、リューマチを再発し、医師の勧めで南フランスのニースに転地療養中(小林菊子宛の西園寺公望の手紙)。
*
1891年
(光緒16年11月21日)醇親王(光緒帝の実父)、没。后党・帝党のパイプ役。
*
1893(明治26)年
川上音二郎、単身渡仏。
*
1896(明治29)年
衣笠貞之助、誕生。
*
1897(明治30)年
尾崎紅葉「金色夜叉」(「読売新聞」連載)。前年7月、巌谷小波が川田綾子に求婚し、長兄が小波が文士であるという理由で拒絶したこと。明治25年秋~27年秋、同じく小波が「京都日出新聞」勤務期間中に、なじみの芝紅葉館の女中須摩子を博文館社主大橋佐平の息子新太郎が金で自由にしたエピソードなどがモチーフ。
*
1898(明治31)年
福澤諭吉「福澤全集」発刊。~5月13日、5巻。
*
徳冨蘆花(29)、「湘南歳除」(「国民新聞」)掲載。逗子滞在中。以来自然をスケッチした文を多く寄稿し、自然派詩人として目されるようになる。
*
ルイジアナ州、「祖父条項」新憲法採択。黒人公民権剥奪目的。'67年1月1日現在、父・祖父が選挙権を持っていた人だけに終身選挙権登録許可。
*
1899(明治32)年
「労働世界」に社会主義欄。片山と高野の対立。
*
to be continued to 1900 onwards soon
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1848年
イタリア、オーストリア支配下ロンバルト・ヴェーネト王国、ミラノ、一斉禁煙運動。3日、市民と墺軍衝突。死者5、負傷59。
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ニューヨークの亡命者グループ、キューバ人評議会結成。ガスパル・ベタンクール・シスネロス、ホセ・アニセト・イスナガら中心、マダン総裁。「真実」発刊、「5万の”アメリカ人”が白人救出のためにキューバに上陸してくる」と宣伝。奴隷制擁護と併合主義の論陣を張る。
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1854(嘉永7)年
水戸藩主徳川慶篤、あらかじめ米艦の再来を藩士に告げて戒め、冗費節約・武備厳修を徹底させる。
*
1857年
クララ・シューマン(36)、家計の為にコンサートピアニストとしての演奏活動再開。この日はライプツィッヒ・ゲヴァントハウスでの演奏。
*
1858(安政5)年
堀田正睦、一橋慶喜に斉昭の暴言につき申入れ。2日、慶喜、堀田正睦の懇願により小石川邸に行き、前月29日の斉昭の勘定奉行川路聖謨・同永井尚志への暴言を諌める。4日、川路・永井・岩瀬、一橋邸訪問。慶喜、斉昭の堀田宛詫び状を使者川路・永井に託す。慶喜、川路聖謨に能装束を与う。
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1859(安政6)年
高杉晋作(21)、従兄弟南亀五郎に書状を送り30歳まで妻帯しないと宣言。
*
1860(安政7)年
この日~3月末、久坂玄瑞、再び日記をつけはじめる(「江月斎日乗」)。
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パリ市域、20区に拡大再編。
*
1861年
米、チャールストン、サムター砦への連邦補給船、砲撃され追い返される。
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1862(文久2)年
午前7時、遣欧使節、英国軍艦「オ-デン」で長崎を出帆。
*
1863(文久3)年
坂本龍馬(29)、勝の命で、千葉重太郎・近藤長次郎・他1名と大坂へ出立。「龍馬、昶次郎、十太郎(千葉)外一人を大坂へ到らしめ京師に帰す」(海舟日記)。
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1864(文久4)年
川上音二郎、誕生。
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1865(元治2)年
西郷吉之助、広島より小倉に到着。4日、三条らと5卿移転を議論。
同日、徳川慶勝(第1次征長総督)、広島の陣を撤収、帰途につく。
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1866(慶応2)年
坂本龍馬(32)、長府藩主の内命により印藤肇を介して下関福永専助宅で三吉慎蔵と会見、主客鼎座徹宵懇談。2日、三吉慎蔵と引き続き面談、5日迄逗留。10日、三吉慎蔵と共に船で京都へ向け下関発。西郷・木戸間の話合い結果確認の為。この頃、高杉晋作から送別の漢詩を贈られる。
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マルクス(48)、「資本論」浄書・文体手入れ開始。16日、中央委員会会議で自分の代りにロンゲをベルギー担当書記に推し採択される。22日、ポーランド亡命者団体と国際労働者協会とが開催したポーランド革命祝賀会で演説。30日~3月上旬、ねぷとが沢山でき重症。寝たまま「資本論」の仕事。前年までは全3巻を完成させ出版する意向であったが、エンゲルスの勧めで第1巻の浄書が済み次第、印刷に付すことに決める。
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1867(慶応3)年
伊東甲子太郎・永倉新八・斉藤一ら、島原の角屋で酒宴。4日、帰営、謹慎を申し渡される。
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1868(明治元)年
徳川慶喜、大坂で、朝廷の決定も諸国の暴動も薩摩藩奸臣の仕業で、彼らを誅戮したいとの「討薩表」を起草、強硬派の京都進撃を許す。大目付滝川具挙、「討薩の表」を持ち先鋒と共に大坂から北上開始。
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討薩表。
「臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。
罪状書
一、大事件は衆議を尽すと仰出され候処、九日突然に非常の御改革を口実に致 し、幼帝を侮り奉り、諸般の御所置私論を主張候事。
一、主上御幼冲の折柄、先帝御依託あらせられ候摂政殿下を廃し参内を止め候事。 一、私意を以て、宮・堂上方を恣に黜陟せしむる事。
一、九門其の外御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に迫り候条、 朝廷を憚からざる大不敬の事。
一、家来共、浮浪の徒を語合い、屋敷へ屯集し、江戸市中押込み強盗いたし、 酒井左衛門尉人数屯所え発砲・乱妨し、其の他野州・相州処々焼討却盗に及 び候は証跡分明にこれ有り候事」(「続徳川実記」)。
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兵庫沖、榎本艦隊(「開陽」「蟠竜」「翔鶴」「富士山」「順動丸」5隻)、薩摩汽船(「平運」「春日丸」)を砲撃、平運丸損傷。
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1869(明治2)年
観音崎の日本最初の燈明台(燈台の呼称は明治5年)、完成点灯。
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1870(明治3)年
長州藩吉田・船木で一揆。12日、長州藩熊毛郡岩田村で一揆。13日、州藩大森県浜田で一揆。
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マルクス、ジュネーブのバクーニン派「エガリテ」紙が総務委員会を攻撃したのに対し、総務委員会特別会議でジュネーブのラテン系スイス人連合委員会に宛てて回答書草案を提出。採択。8日まで草案に手を入れ、16日、国際労働者協会各支部に送付。
*
1871(明治4)年
山川健二郎、アメリカ留学へ出発、横浜港。
*
ドイツ帝国(第2帝政)発足。プロイセン中核の連邦国家「ドイツ帝国」成立。ヴェルサイユ宮殿鏡の間、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝即位。
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ドイツ帝国憲法:
北ドイツ連邦を代表するプロイセン王と南ドイツ4ヶ国君主の同盟という形をとり、内容は1867年成立の北ドイツ連邦憲法の延長。北ドイツ連邦憲法もそれを構成する諸国君主及び3都市市政府の同盟という形をとる。そこで連邦首長と云われていた者がここでは皇帝となり、連邦がライヒと呼ばれるようになる(但し帝国議会の名称は北ドイツ連邦の時から用いられている)。新帝国は25の国家(王国4、大公国6、公国5、侯国7、自由市3)と直轄地エルザス・ロートリンゲンより成る連邦で、各国政府代表者から成る連邦参議院と全国民の直接普通選挙による帝国議会がある。
*
ドイツ帝国の統一主義と連邦主義との矛盾は、連邦内の1国であるプロイセンが、面積・人口において2/3を占める超大国であることにある。プロイセン王=ドイツ皇帝は憲法に定められているが、皇帝の任命する帝国宰相=プロイセン首相との規定はない。しかし実際には短い期間の例外を除き、帝国宰相=プロイセン首相であり、しかも帝国には内閣制度がなく形の上では宰相の独裁であるので、ドイツの政治がプロイセンによるドイツ征服の観を呈するのは当然。そしてプロイセンは依然三級選挙法の下にユンカー支配が存続している国である。ビスマルク失脚後、ドイツ帝国の矛盾が顕著になり、いわゆる「プロイセン=ドイツ問題」「プロイセンのドイツへの解消」がドイツの良心的知識人の最大の関心事となる。
*
アイルランド国教会廃止
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仏、パリ、全20区共和主義中央委員会、全20区代表団という名に変える。
*
1873(明治6)年
日本、太陽暦実施
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ブダ、ペシュト合併。ブダペスト、ハンガリー側首都となる
*
ゴッホ弟テオ、セント伯父の紹介によりグーピル商会ブリュッセル支店に就職。
*
1877年
エンゲルス「反デューリング論」、「フォルヴェルツ」紙(ドイツ社会民主党機関紙)に連載。
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1879年
ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」初演。ライプニッツ・ゲバントハウス。ヨハヒム演奏。
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1881(明治14)年
仏、オーギュスト・ブランキ(76)、没。
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1883(明治16)年
鳩山一郎、東京に誕生。
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1885(明治18)年
清国北洋副大臣呉大澂、随員40・護衛兵250で漢城入京。朝鮮政府に譲歩を説く。
*
1888年
チャイコフスキー、ライプツィッヒでブラームス、グリークと知合う。
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1890年
ドイツ公使西園寺公望(40)、リューマチを再発し、医師の勧めで南フランスのニースに転地療養中(小林菊子宛の西園寺公望の手紙)。
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1891年
(光緒16年11月21日)醇親王(光緒帝の実父)、没。后党・帝党のパイプ役。
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1893(明治26)年
川上音二郎、単身渡仏。
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1896(明治29)年
衣笠貞之助、誕生。
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1897(明治30)年
尾崎紅葉「金色夜叉」(「読売新聞」連載)。前年7月、巌谷小波が川田綾子に求婚し、長兄が小波が文士であるという理由で拒絶したこと。明治25年秋~27年秋、同じく小波が「京都日出新聞」勤務期間中に、なじみの芝紅葉館の女中須摩子を博文館社主大橋佐平の息子新太郎が金で自由にしたエピソードなどがモチーフ。
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1898(明治31)年
福澤諭吉「福澤全集」発刊。~5月13日、5巻。
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徳冨蘆花(29)、「湘南歳除」(「国民新聞」)掲載。逗子滞在中。以来自然をスケッチした文を多く寄稿し、自然派詩人として目されるようになる。
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ルイジアナ州、「祖父条項」新憲法採択。黒人公民権剥奪目的。'67年1月1日現在、父・祖父が選挙権を持っていた人だけに終身選挙権登録許可。
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1899(明治32)年
「労働世界」に社会主義欄。片山と高野の対立。
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to be continued to 1900 onwards soon
2009年1月9日金曜日
「元日」物語(4)
「黙翁年表」より元日の出来事をピックアップ。
-----------------------------------
*
1725年
バッハ(40)、「イエスよ、いま讃美を受けたまえ」(BWV41)初演。
*
1726年
バッハ(41)、「主なる神よ、われら汝をほめ讃う」(BWV16)初演。
*
1729年
バッハ、カンタータ「神よ、汝の名のごとく、汝の栄光もあり」(BWV171)初演。
*
1732年
ラティスボナ帝国議会。カール6世娘マリア・テレジア(15)がオーストリアを継ぐと定めた国事詔書承認。
*
1764年
モーツアルト(8)、ヴェルサイユ宮殿晩餐会に招待。ルイ15世謁見。多くの貴族や音楽家たちと知り合う。8日、パリに戻る。ド・テッセ伯夫人の為の作品2の第2曲「ソナタ ト長調」(K9)を作曲。
*
1766年
ルイ・アレクサンドル・ベルティエ(13、後のナポレオンの元帥)、王立工兵学校に入学。
*
1777年
仏、初めての日刊新聞ジュルナル・ド・パリ創刊。
*
1779年
ナポレオン兄弟、 オータンのコレージュに入学。
*
1780年
プロイセン、アルノルト訴訟事件。フリードリヒ大王は大権行使、関係判事罷免・禁固1年、アルノルトの損害賠償勅令。
*
1782年
ヨハン・クリスティアン・バッハ、ロンドンで没。バッハの死は「音楽界にとっての損失」(1782/4/1付、モーツアルト、父への手紙)。
*
1791年
仏、マラー、20歳下のシモーヌ・エヴラールと事実婚(入籍せず)。
*
1793年
仏、国民公会、国防委員会の創設(24名、公安委員会の前身)。多人数と公開討論の為、大騒ぎするだけで、この委員会に従属する内閣は何も決定できず、勝利で奢る将軍連は次第に従わなくなる。
同日、デュムーリエ、パリ滞在。~26日、様々な陰謀めぐらす。ジロンド派は支持。
*
1794年
仏、寛大派プールドン・ド・ロワーズ、ブーショット副官ドービニを告発。7日、プールドン・ド・ロワーズ、大臣がエベールの新聞に出資したとの理由により、公会に対し、委員会の事前許可なく支出命令を出す権限を大臣から取り上げる命令を出させる。しかし、公安委員会は、この命令を破り、従来通り大臣の命令に従い財務委員が支払うよう命令。
*
1796年
仏、ライン戦線マンハイム戦役、双方の攻撃は悪天候のため成果なく、12月19日、クレアファイトから冬季休戦が提案。疲労した両軍は96年1月1日から休戦に入る。
*
1801年
イタリア天文学者ジョゼッペ・パッツィ(55)、小惑星「ケレス」発見。初の小惑星発見。
*
イギリス連合王国の艦船に使用するユニオン・フラグに、アイルランドのセント・パトリック・クロスが加えられ、現在のユニオン・ジャックの原型ができる。
英、ネルソン提督、青色艦隊中将に昇進。
*
ナポレオン、バイエルン王国としてヴィッテルスバッハ家マクシミリアン・ヨーゼフ公をバイエルン王マクシミリアン1世とする。
*
1804年
ハイチ、イスパニョーラ島黒人、フランスからハイチ共和国として独立を宣言。初代大統領トゥサン・ハウヴェルチュールの副将軍ジャン・ジャック・ドサリーヌ。
*
1806年
プレスブルクの和、批准書交換。選帝侯国バイエルンとヴェルテンベルク、王国となる。
*
1807年
ナポレオン、ワルシャワに戻る。ワルシャワの王宮でヴァレフスカ伯爵夫人との出会い。
*
1808年
アメリカ、奴隷貿易を禁止。黒人人口のこれ以上の増加を抑えるのが狙い。その後も南部を中心に 密貿易が続く。
*
1810年
マックォーリ、オーストラリア、ニューサウスウェールズ植民地総督就任。
*
1811年
仏、パリ警察、アストロス神父宛の教皇教書押収。
*
1814年
ブリュッヒャー将軍のプロイセン軍、ライン河渡河。フランス軍7万撤退。対仏同盟は、自然国境ではなく1792年国境しか認めない条件を出し、ナポレオンは交渉打切り、進軍準備。ジョゼフを帝国総司令官兼パリ管区司令官に。無数の書類を廃棄。非嫡出子に生活の手当て。
*
1815年
仏、ルイ16世・王妃の遺骨をマドレーヌ寺院からサン・ドニ王家墓地へ移す葬列。
*
1818年
チリ独立宣言(スペインから独立)。初代大統領オヒギンズ、就任。
*
1820年
スペイン【リエーゴの反乱】セビーリャ県カディス近郊の基地カベサス・デ・サン・フアンに集結したラファエル・デル・リエーゴ大佐(35)率いる大隊(新大陸遠征軍)1500、反乱。背景には軍兵士の劣悪な待遇。1812年憲法の施行を要求。反乱は全軍に広がり、各地の自由主義者も呼応。護憲革命。
*
1822年
ベートーヴェン、グラーツのシュタイヤーマルク音楽協会から名誉会員に推挙。13日、「ピアノソナタ ハ短調」(作品111)、完成。
*
1831年
ウィリアム・ガリソン(26)、ボストンで奴隷解放機関誌「解放者(リベレーター)」発行。奴隷解放の旗手となる。
*
1834年
ドイツ関税同盟発足。ドイツ連邦に属する39領邦のうち28カ国参加。関税撤廃による国内産業のための市場拡張。プロイセン盟主の関税圏の形成
*
ウクライナ/ベルラーシ/リトアニア、ロシア帝国西部諸県の学校にロシア語を授業用語として採用。
*
1837年
米、チェロキーのリッジ一家(富裕層)ら、西へ移住開始。
*
1843年
1~16日、マルクス(25)、「ライプツィグル・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙の禁止に関してプロイセン検閲制度批判。「ライン新聞」への検閲強化。
*
1844(天保15)年
斎藤一(山口次郎)、江戸に誕生。
*
to be continued to 1845 onwards
-----------------------------------
*
1725年
バッハ(40)、「イエスよ、いま讃美を受けたまえ」(BWV41)初演。
*
1726年
バッハ(41)、「主なる神よ、われら汝をほめ讃う」(BWV16)初演。
*
1729年
バッハ、カンタータ「神よ、汝の名のごとく、汝の栄光もあり」(BWV171)初演。
*
1732年
ラティスボナ帝国議会。カール6世娘マリア・テレジア(15)がオーストリアを継ぐと定めた国事詔書承認。
*
1764年
モーツアルト(8)、ヴェルサイユ宮殿晩餐会に招待。ルイ15世謁見。多くの貴族や音楽家たちと知り合う。8日、パリに戻る。ド・テッセ伯夫人の為の作品2の第2曲「ソナタ ト長調」(K9)を作曲。
*
1766年
ルイ・アレクサンドル・ベルティエ(13、後のナポレオンの元帥)、王立工兵学校に入学。
*
1777年
仏、初めての日刊新聞ジュルナル・ド・パリ創刊。
*
1779年
ナポレオン兄弟、 オータンのコレージュに入学。
*
1780年
プロイセン、アルノルト訴訟事件。フリードリヒ大王は大権行使、関係判事罷免・禁固1年、アルノルトの損害賠償勅令。
*
1782年
ヨハン・クリスティアン・バッハ、ロンドンで没。バッハの死は「音楽界にとっての損失」(1782/4/1付、モーツアルト、父への手紙)。
*
1791年
仏、マラー、20歳下のシモーヌ・エヴラールと事実婚(入籍せず)。
*
1793年
仏、国民公会、国防委員会の創設(24名、公安委員会の前身)。多人数と公開討論の為、大騒ぎするだけで、この委員会に従属する内閣は何も決定できず、勝利で奢る将軍連は次第に従わなくなる。
同日、デュムーリエ、パリ滞在。~26日、様々な陰謀めぐらす。ジロンド派は支持。
*
1794年
仏、寛大派プールドン・ド・ロワーズ、ブーショット副官ドービニを告発。7日、プールドン・ド・ロワーズ、大臣がエベールの新聞に出資したとの理由により、公会に対し、委員会の事前許可なく支出命令を出す権限を大臣から取り上げる命令を出させる。しかし、公安委員会は、この命令を破り、従来通り大臣の命令に従い財務委員が支払うよう命令。
*
1796年
仏、ライン戦線マンハイム戦役、双方の攻撃は悪天候のため成果なく、12月19日、クレアファイトから冬季休戦が提案。疲労した両軍は96年1月1日から休戦に入る。
*
1801年
イタリア天文学者ジョゼッペ・パッツィ(55)、小惑星「ケレス」発見。初の小惑星発見。
*
イギリス連合王国の艦船に使用するユニオン・フラグに、アイルランドのセント・パトリック・クロスが加えられ、現在のユニオン・ジャックの原型ができる。
英、ネルソン提督、青色艦隊中将に昇進。
*
ナポレオン、バイエルン王国としてヴィッテルスバッハ家マクシミリアン・ヨーゼフ公をバイエルン王マクシミリアン1世とする。
*
1804年
ハイチ、イスパニョーラ島黒人、フランスからハイチ共和国として独立を宣言。初代大統領トゥサン・ハウヴェルチュールの副将軍ジャン・ジャック・ドサリーヌ。
*
1806年
プレスブルクの和、批准書交換。選帝侯国バイエルンとヴェルテンベルク、王国となる。
*
1807年
ナポレオン、ワルシャワに戻る。ワルシャワの王宮でヴァレフスカ伯爵夫人との出会い。
*
1808年
アメリカ、奴隷貿易を禁止。黒人人口のこれ以上の増加を抑えるのが狙い。その後も南部を中心に 密貿易が続く。
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1810年
マックォーリ、オーストラリア、ニューサウスウェールズ植民地総督就任。
*
1811年
仏、パリ警察、アストロス神父宛の教皇教書押収。
*
1814年
ブリュッヒャー将軍のプロイセン軍、ライン河渡河。フランス軍7万撤退。対仏同盟は、自然国境ではなく1792年国境しか認めない条件を出し、ナポレオンは交渉打切り、進軍準備。ジョゼフを帝国総司令官兼パリ管区司令官に。無数の書類を廃棄。非嫡出子に生活の手当て。
*
1815年
仏、ルイ16世・王妃の遺骨をマドレーヌ寺院からサン・ドニ王家墓地へ移す葬列。
*
1818年
チリ独立宣言(スペインから独立)。初代大統領オヒギンズ、就任。
*
1820年
スペイン【リエーゴの反乱】セビーリャ県カディス近郊の基地カベサス・デ・サン・フアンに集結したラファエル・デル・リエーゴ大佐(35)率いる大隊(新大陸遠征軍)1500、反乱。背景には軍兵士の劣悪な待遇。1812年憲法の施行を要求。反乱は全軍に広がり、各地の自由主義者も呼応。護憲革命。
*
1822年
ベートーヴェン、グラーツのシュタイヤーマルク音楽協会から名誉会員に推挙。13日、「ピアノソナタ ハ短調」(作品111)、完成。
*
1831年
ウィリアム・ガリソン(26)、ボストンで奴隷解放機関誌「解放者(リベレーター)」発行。奴隷解放の旗手となる。
*
1834年
ドイツ関税同盟発足。ドイツ連邦に属する39領邦のうち28カ国参加。関税撤廃による国内産業のための市場拡張。プロイセン盟主の関税圏の形成
*
ウクライナ/ベルラーシ/リトアニア、ロシア帝国西部諸県の学校にロシア語を授業用語として採用。
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1837年
米、チェロキーのリッジ一家(富裕層)ら、西へ移住開始。
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1843年
1~16日、マルクス(25)、「ライプツィグル・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙の禁止に関してプロイセン検閲制度批判。「ライン新聞」への検閲強化。
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1844(天保15)年
斎藤一(山口次郎)、江戸に誕生。
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to be continued to 1845 onwards
2009年1月5日月曜日
京都のいしぶみ 聚楽第
天正14(1586)年豊臣秀吉(1536~98)が大内裏旧跡の内野に構築した城で、翌年完成。北は元誓願寺通、東は堀川通、南は下立売通、西は千本通を外郭とし、内郭には本丸、北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれたと推定される。文禄4(1595)年、秀吉は豊臣秀次(1568~95)を謀反の疑いで自害させ、秀次居所の聚楽第も破却。
*
①は、上京区中立売通裏門西入南側にある、「本丸西濠跡」
*
②は、上京区浄福寺通出水下る東入南側(松林寺前)にある、「南外濠跡」。ここは、内裏の東限の建春門跡でもあるそうです。
*
③は、上京区松屋町通出水上る東側(松永稲荷前)にある、聚楽城の濠に架かる「鵲(かささぎ)橋跡」。
*
④は、シャレです。清酒「聚楽第」。
*
正月にひいた風邪が完治せず、今日は仕事を休んだ。
昨年末、実際の暦と連動させ「南京戦」を進める積りが、果たせず。年明け、「元日物語」なるものを始めた為に、また、まわり道。
*
「南京戦」のあとは、戦略空襲(無差別爆撃)の手本となった重慶空襲に続けるつもりです。
*
前に1回だけ出た「治承4年4月、内乱の予兆」は、「治承4年紀」として進めようと考えています。「吾妻鏡」と「明月記」「玉葉」などを混ぜながら・・・。
*
信長ものは、最初に本能寺をやりましたが、「信長公記」ならぬ「信長私記」として再出発を果たそうかと思案中です。
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人相。
顔に責任を持つことができるかどうか疑問のあるところではありますが、私の知っている「タロウ」君は、蝶よ花よと育てられ、何の人生的苦労も知らないヒトなんですが、この頃、ますます人相が悪くなってきて心配です。
「元日」物語(3)
1571(元亀2)年
武田信玄3万7千、三島集結。駿河興国寺を奇襲、失敗。3日、駿河深沢城(御殿場市)攻略も失敗、帰陣。10日、北條氏政、小田原を出陣し深沢城を後詰め。16日、深沢城攻略。信玄、矢文をもって開城を促し、北條綱成、深沢城を開城。信玄は、金堀衆を動員して城内への坑道を掘り進める。
*
1573(元亀4)年
村上義清(73)、旧領信濃に戻ることなく越後根知城で病歿。
*
1574(天正2)年
信長、岐阜城で諸将の参賀を受ける。祝賀の後、馬廻衆の酒宴で、朝倉義景、浅井久政・長政父子の首を漆で固めて金泥などで彩色したものを飾り酒の肴にする。
*
1575(天正3)年
毛利輝元・小早川隆景、三村元親の将三村正政を備中国吉城に攻め、この日落とす。2日、小早川隆景、備中成羽に進出。
*
1578(天正6)年
安土城で元日の茶会。信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁12人が招かれる。茶頭は松井友閑。茶会後、諸大名・諸将の出仕があり、出仕者に自分の座所を見物させ、雑煮と唐物の菓子を振舞う。4日、前年冬に信忠へ下された名物道具の披露会、万見仙千代邸。武井夕庵・松井友閑・林秀貞・滝川一益・長谷川与次・市橋長利・丹羽長秀・羽柴秀吉・長谷川宗仁9名。市橋長利が芙蓉の絵を贈られる。
*
1581(天正9)年
信長、安土城北の松原町の西に湖岸へ面して馬場を造営。奉行菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一、元日より普請。
*
1582(天正10)年
全国の大名・小名、安土城に出仕。惣見寺に100文づつ持参させる。信忠も出席。
*
1583(天正11)年
秀吉、姫路城に入る。
*
1584(天正12)年
紀伊根来・雑賀一揆、和泉国岸和田進出。秀吉部将中村一氏・小西行長、和泉の海岸沿いに一揆攻撃。
*
1585(天正13)年
秀吉、有馬温泉で半月過ごす。19日、有馬温泉で石川数正・利休・宗及を招き茶会。
*
1586(天正14)年
佐野宗綱、攻めた長男顕長の彦馬城で顕長配下に討たれる。11月、佐野氏は北条氏に降伏。氏政弟氏忠が入部。
*
宗綱横死後、佐野家では佐竹派(叔父天徳寺宝衍ら)・北条派(大貫・竹沢・津布久氏ら)で暗闘。経緯は不明ながら、北条氏忠を迎えることになり、天徳寺は京都に出て秀吉の傍に仕えることになる。後、佐野に戻る。
*
1593(文禄2)年
朝鮮侵略。明国軍務提督李如松4万3千、平壌北方10里余の安州着。朝鮮領議政柳成竜と会見。3日、粛川着。5日、朝鮮軍8千の来襲うけ平壌包囲。日本軍1万5千。
*
1594(文禄3)年
秀吉が大坂城で、関白秀次が聚楽第で、それぞれ諸大名の年賀を受ける。
*
1596(文禄5)年
諸大名、元旦の出仕が行われず伏見において越年。
*
1597(慶長2)年
秀吉、伏見城より大坂城に移る。諸将に再度朝鮮出兵を命ずる。
*
1599(慶長4)年
伏見城で前田利家、秀頼を抱き諸将から拝賀の礼を受ける。
*
1600(慶長5)年
豊臣秀頼、大坂城中で諸大名の参賀を受け、ついで西の丸に赴いて家康に年賀を述べる。
この頃、他の大老はすべて本国に帰り、五奉行のうち三成と浅野長政が失脚しているめ、事実上、家康の独裁。
*
1601(慶長6)年
家康(60)、発病のため諸大名の参賀を延期。15日、諸大名の参賀を受ける。29日、秀頼と共に大坂城で公家衆・門跡らの参賀を受ける。
この月、家康、東海道伝馬制を制定。
*
1602(慶長7)年
家康(61)、秀忠と共に江戸城で諸士の参賀を受ける。6日、従一位に叙任。19日、上洛のため江戸をたつ。
*
1612(慶長17)年
結城忠直(18)、駿府へ名代を遣わし年頭の御礼。本多正純披露。
*
1613(慶長18)年
結城忠直(19)、駿府城に出仕。年頭御礼。
*
1615(慶長20)年
(大坂冬の陣)東軍諸将、二条城と岡山で家康・秀忠に年賀。
*
1616(元和2)年
松平忠直(22)、年頭御礼で江戸城に登城。席次は水戸家の次、加賀前田家の前。
*
1618(元和4)年
幕府、江戸城大奥に、男子禁制や夕刻六つの門限などの法度を定める。
*
1632(寛永9)年
大御所徳川秀忠(54)、家光(29)を迎え、御座の間で年頭の儀式を簡略に済ます。
24日、秀忠(54)、没。
*
家光親政。
弟忠長、熊本加藤忠広の改易(その跡へ細川忠利が入部)、竹中重義・黒田忠之の江戸喚問、大目付の設置等にみられる大名統制幕閣の強化。ついで1633(寛永10)年、鎖国断行。
*
1638(寛永15)年
第3回原城総攻撃。上使板倉重昌、総攻撃を開始。指揮権は貫徹せず、各藩が交互に先手を争い、後詰めは動かず、重昌自身が突撃して戦死。*
*
1651(慶安4)年
家光(48)、病気のため参賀を受けず。19日、江戸城に初代中村勘三郎を招き、歌舞伎を観劇。
*
1720(享保5)年
中御門天皇の女御の近衛尚子(19)、昭仁親王(桜町天皇)を生む。20日、産後の経過が思わしくなく没。
*
バッハ(35)、「いとしき太陽の光よ、汝を讃えん」(BWVAnh.6)初演。22日、「フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集」記入開始。
*
to be continued to 1725 onwards
武田信玄3万7千、三島集結。駿河興国寺を奇襲、失敗。3日、駿河深沢城(御殿場市)攻略も失敗、帰陣。10日、北條氏政、小田原を出陣し深沢城を後詰め。16日、深沢城攻略。信玄、矢文をもって開城を促し、北條綱成、深沢城を開城。信玄は、金堀衆を動員して城内への坑道を掘り進める。
*
1573(元亀4)年
村上義清(73)、旧領信濃に戻ることなく越後根知城で病歿。
*
1574(天正2)年
信長、岐阜城で諸将の参賀を受ける。祝賀の後、馬廻衆の酒宴で、朝倉義景、浅井久政・長政父子の首を漆で固めて金泥などで彩色したものを飾り酒の肴にする。
*
1575(天正3)年
毛利輝元・小早川隆景、三村元親の将三村正政を備中国吉城に攻め、この日落とす。2日、小早川隆景、備中成羽に進出。
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1578(天正6)年
安土城で元日の茶会。信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁12人が招かれる。茶頭は松井友閑。茶会後、諸大名・諸将の出仕があり、出仕者に自分の座所を見物させ、雑煮と唐物の菓子を振舞う。4日、前年冬に信忠へ下された名物道具の披露会、万見仙千代邸。武井夕庵・松井友閑・林秀貞・滝川一益・長谷川与次・市橋長利・丹羽長秀・羽柴秀吉・長谷川宗仁9名。市橋長利が芙蓉の絵を贈られる。
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1581(天正9)年
信長、安土城北の松原町の西に湖岸へ面して馬場を造営。奉行菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一、元日より普請。
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1582(天正10)年
全国の大名・小名、安土城に出仕。惣見寺に100文づつ持参させる。信忠も出席。
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1583(天正11)年
秀吉、姫路城に入る。
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1584(天正12)年
紀伊根来・雑賀一揆、和泉国岸和田進出。秀吉部将中村一氏・小西行長、和泉の海岸沿いに一揆攻撃。
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1585(天正13)年
秀吉、有馬温泉で半月過ごす。19日、有馬温泉で石川数正・利休・宗及を招き茶会。
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1586(天正14)年
佐野宗綱、攻めた長男顕長の彦馬城で顕長配下に討たれる。11月、佐野氏は北条氏に降伏。氏政弟氏忠が入部。
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宗綱横死後、佐野家では佐竹派(叔父天徳寺宝衍ら)・北条派(大貫・竹沢・津布久氏ら)で暗闘。経緯は不明ながら、北条氏忠を迎えることになり、天徳寺は京都に出て秀吉の傍に仕えることになる。後、佐野に戻る。
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1593(文禄2)年
朝鮮侵略。明国軍務提督李如松4万3千、平壌北方10里余の安州着。朝鮮領議政柳成竜と会見。3日、粛川着。5日、朝鮮軍8千の来襲うけ平壌包囲。日本軍1万5千。
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1594(文禄3)年
秀吉が大坂城で、関白秀次が聚楽第で、それぞれ諸大名の年賀を受ける。
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1596(文禄5)年
諸大名、元旦の出仕が行われず伏見において越年。
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1597(慶長2)年
秀吉、伏見城より大坂城に移る。諸将に再度朝鮮出兵を命ずる。
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1599(慶長4)年
伏見城で前田利家、秀頼を抱き諸将から拝賀の礼を受ける。
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1600(慶長5)年
豊臣秀頼、大坂城中で諸大名の参賀を受け、ついで西の丸に赴いて家康に年賀を述べる。
この頃、他の大老はすべて本国に帰り、五奉行のうち三成と浅野長政が失脚しているめ、事実上、家康の独裁。
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1601(慶長6)年
家康(60)、発病のため諸大名の参賀を延期。15日、諸大名の参賀を受ける。29日、秀頼と共に大坂城で公家衆・門跡らの参賀を受ける。
この月、家康、東海道伝馬制を制定。
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1602(慶長7)年
家康(61)、秀忠と共に江戸城で諸士の参賀を受ける。6日、従一位に叙任。19日、上洛のため江戸をたつ。
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1612(慶長17)年
結城忠直(18)、駿府へ名代を遣わし年頭の御礼。本多正純披露。
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1613(慶長18)年
結城忠直(19)、駿府城に出仕。年頭御礼。
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1615(慶長20)年
(大坂冬の陣)東軍諸将、二条城と岡山で家康・秀忠に年賀。
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1616(元和2)年
松平忠直(22)、年頭御礼で江戸城に登城。席次は水戸家の次、加賀前田家の前。
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1618(元和4)年
幕府、江戸城大奥に、男子禁制や夕刻六つの門限などの法度を定める。
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1632(寛永9)年
大御所徳川秀忠(54)、家光(29)を迎え、御座の間で年頭の儀式を簡略に済ます。
24日、秀忠(54)、没。
*
家光親政。
弟忠長、熊本加藤忠広の改易(その跡へ細川忠利が入部)、竹中重義・黒田忠之の江戸喚問、大目付の設置等にみられる大名統制幕閣の強化。ついで1633(寛永10)年、鎖国断行。
*
1638(寛永15)年
第3回原城総攻撃。上使板倉重昌、総攻撃を開始。指揮権は貫徹せず、各藩が交互に先手を争い、後詰めは動かず、重昌自身が突撃して戦死。*
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1651(慶安4)年
家光(48)、病気のため参賀を受けず。19日、江戸城に初代中村勘三郎を招き、歌舞伎を観劇。
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1720(享保5)年
中御門天皇の女御の近衛尚子(19)、昭仁親王(桜町天皇)を生む。20日、産後の経過が思わしくなく没。
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バッハ(35)、「いとしき太陽の光よ、汝を讃えん」(BWVAnh.6)初演。22日、「フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集」記入開始。
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to be continued to 1725 onwards
「元日」物語(2)
予想通りというか、退屈な内容になってしまった。・・・が、始めた以上は、終わりまでやることにする。
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1337(建武4)年
足利尊氏の新田義貞攻撃。大軍2万を編成、金ヶ崎城攻撃と守護斯波高経支援へと向かわせる。先導は高師泰・今川頼貞・小笠原貞宗・塩冶高貞・仁木頼章ら。諸国から集結した幕府方の軍は城下を埋め尽くす。幕府方の軍勢には、島津頼久率いる薩摩の国人本田資兼・莫袮重貞ら、村上信貞に従軍して信濃・越後と転戦し北陸道を西上した市河親宗・経助ら、塩冶高貞と共に敦賀入りした出雲の国人諏訪部信恵ら。城は完全に孤立。
*
包囲網。
①斯波高経:北陸道の軍勢5千余、蕪木(甲楽城)。
②仁木頼章:丹波・美作軍勢1千余、近江塩津。
③今川頼貞:但馬・若狭軍勢700、小浜。
④荒河詮頼:丹後軍勢800余、疋田。
⑤細川頼春:四国軍勢2万余、東近江。
⑥高師泰:美濃・尾張・遠江軍勢6千余、荒血中山(愛地中山)。
⑦小笠原貞宗:信濃軍勢5千余、今庄新道。
⑧塩冶高貞:出雲軍勢3千余・兵船500艘、敦賀湾。
*
朝倉氏、初めて越前に入国。
但馬朝倉庄の代官朝倉広景(初代越前朝倉氏)、越前に入国し斯波高経に従う。「太平記」で、新田義貞率いる南朝軍と足羽七城攻防戦で、北朝方越前守護職斯波高経を支える重臣として描かれる黒丸入道覚性が朝倉広景と言われる。その後、朝倉氏は勢力を伸ばし、拠点を黒丸から北の庄、そして一乗谷に移して行く。
*
1351(観応2)年
斯波高経、将軍義詮から離れ、京都を出て八幡(京都府八幡市)の直義の陣に加わる。
*
千葉氏9代千葉貞胤(61)、京都において病没。嫡男・一胤、家督相続。
*
1370年
エドワード黒太子宰相ジョン・チャンドス、ポワトゥー北端ショーヴィニの戦いで戦死。
*
1380年
カルロ・ゼーノ(45)率いる艦隊、ヴェネツィアに帰着。キオッジャ包囲網なる。
(ヴェネツィアのジェノヴァ攻撃)
*
1394(応永1)年
一休禅師、誕生。
*
1468(応仁2)年
元日夜半、細川勝元のゲリラ部隊、西軍本陣(西陣)を攻撃。士気を鼓舞する程度。
*
1486(文明18)年
諸国守護家の動揺。
前出雲守護代尼子経久、守護代塩冶掃部介を滅ぼし守護京極から富田城を奪回。
*
1492年
夜、多数の人質がキリスト教軍に引き渡され、キリスト教部隊がグラナダに突入。
翌2日、アルハンブラ宮殿開城(レコンキスタ終了)。イスラム・ナスル朝ボアブディル降伏、開城、入場式。
ムーア人と平和条約締結。
ムーア人は、信仰・服装・教育の自由を約束され、独自の法廷を持ち、追加課税を免除。⇒結局、同化政策は失敗。1525年末の総追放令となる。しかし、ムスリムは反乱し、1568~1570の第2次グラナダ戦争となる。
コロンブス、国王の行列に加わり入城。艦隊3隻をコロンブスに与える指示が出るが、コロンブスが多くの要求を出したため全てが水泡に帰する。アラゴン王国経理官ドン・ルイス・サンタヘルの支持。イサベル女王はフェルナンド王の同意も得てコロンブスの航海を行うことに決めた。女王の急使がコロンブスを追いかけ、ピノス・プエンテの村で追いつく。
*
1515年
ルイ12世(53)、没(位1498~)。25日、ヴァロワ王家(アングレーム朝)フランソワ1世(20)、即位(位~1547)。ブロワ城のフランソワ1世の翼面、着工(ルネサンス様式)。
*
1536(天文5)年
日吉丸(豊臣秀吉)、誕生(公卿補任、太閤素性記、甫庵太閤記による)。
*
1537年
パリ、スコットランド王ジェームズ5世、マドレーヌ (フランソワ1世長女)と結婚。フランソワ1世、マリー・ド・ブルボンを推薦するが、ジェームズ5世はリヨン郊外で水浴中のマドレーヌ(アンリ2世妹)を見初め結婚相手変更。マドレーヌの小姓が詩人ピエール・ド・ロンサール。マドレーヌは、1537年7月7日(スコットランド帰国の数ヶ月後)、結核により没。(1538年6月12日ジェームズ5世、ギーズ公娘マリー・ド・ロレーヌと再婚。1542年12月8日マリー、メアリー・スチュアートを出産(1542~1587))。
*
1538(天文7)年
島津貴久、薩摩統一。
島津貴久、加世田城の戦いに勝利(前年大晦日に夜襲、1月1日未明落城)。薩摩を統一。戦国大名島津家の基礎を固める。
*
1546(天文15)年
最上義光、出羽に誕生(異説1550年)。
*
1550(天文19)年
津軽為信、陸奥に誕生(異説1月5日)。
*
1551(天文20)年
神谷宗湛、筑前に誕生。
*
1553年
神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世、メッツ攻略断念、包囲解除。譲位決意。
*
1556(弘治2)年
芥川城で火災。松永久秀や義興の陣所などが焼ける。11日、久秀、芥川城引き上げ。
*
1563(永禄6)年
松永久秀、多聞山城で茶会。客は興福寺成福院・曲直瀬道三・松屋久政・堺宗可・竹内秀勝。
*
1564(永禄7)年
北條氏康、江戸衆太田・恒岡両氏に離反した太田康資の家臣を葛西城に入れるよう命ず。
*
1565(永禄8)年
イエズス会宣教師ビレラとフロイス、幕府を訪れて将軍義輝に新年を祝う。
*
1566(永禄9)年
尼子義久、老臣宇山久信父子を富田城中に殺害。尼子軍動揺す。
*
to be continued to 1570 onwards
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1337(建武4)年
足利尊氏の新田義貞攻撃。大軍2万を編成、金ヶ崎城攻撃と守護斯波高経支援へと向かわせる。先導は高師泰・今川頼貞・小笠原貞宗・塩冶高貞・仁木頼章ら。諸国から集結した幕府方の軍は城下を埋め尽くす。幕府方の軍勢には、島津頼久率いる薩摩の国人本田資兼・莫袮重貞ら、村上信貞に従軍して信濃・越後と転戦し北陸道を西上した市河親宗・経助ら、塩冶高貞と共に敦賀入りした出雲の国人諏訪部信恵ら。城は完全に孤立。
*
包囲網。
①斯波高経:北陸道の軍勢5千余、蕪木(甲楽城)。
②仁木頼章:丹波・美作軍勢1千余、近江塩津。
③今川頼貞:但馬・若狭軍勢700、小浜。
④荒河詮頼:丹後軍勢800余、疋田。
⑤細川頼春:四国軍勢2万余、東近江。
⑥高師泰:美濃・尾張・遠江軍勢6千余、荒血中山(愛地中山)。
⑦小笠原貞宗:信濃軍勢5千余、今庄新道。
⑧塩冶高貞:出雲軍勢3千余・兵船500艘、敦賀湾。
*
朝倉氏、初めて越前に入国。
但馬朝倉庄の代官朝倉広景(初代越前朝倉氏)、越前に入国し斯波高経に従う。「太平記」で、新田義貞率いる南朝軍と足羽七城攻防戦で、北朝方越前守護職斯波高経を支える重臣として描かれる黒丸入道覚性が朝倉広景と言われる。その後、朝倉氏は勢力を伸ばし、拠点を黒丸から北の庄、そして一乗谷に移して行く。
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1351(観応2)年
斯波高経、将軍義詮から離れ、京都を出て八幡(京都府八幡市)の直義の陣に加わる。
*
千葉氏9代千葉貞胤(61)、京都において病没。嫡男・一胤、家督相続。
*
1370年
エドワード黒太子宰相ジョン・チャンドス、ポワトゥー北端ショーヴィニの戦いで戦死。
*
1380年
カルロ・ゼーノ(45)率いる艦隊、ヴェネツィアに帰着。キオッジャ包囲網なる。
(ヴェネツィアのジェノヴァ攻撃)
*
1394(応永1)年
一休禅師、誕生。
*
1468(応仁2)年
元日夜半、細川勝元のゲリラ部隊、西軍本陣(西陣)を攻撃。士気を鼓舞する程度。
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1486(文明18)年
諸国守護家の動揺。
前出雲守護代尼子経久、守護代塩冶掃部介を滅ぼし守護京極から富田城を奪回。
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1492年
夜、多数の人質がキリスト教軍に引き渡され、キリスト教部隊がグラナダに突入。
翌2日、アルハンブラ宮殿開城(レコンキスタ終了)。イスラム・ナスル朝ボアブディル降伏、開城、入場式。
ムーア人と平和条約締結。
ムーア人は、信仰・服装・教育の自由を約束され、独自の法廷を持ち、追加課税を免除。⇒結局、同化政策は失敗。1525年末の総追放令となる。しかし、ムスリムは反乱し、1568~1570の第2次グラナダ戦争となる。
コロンブス、国王の行列に加わり入城。艦隊3隻をコロンブスに与える指示が出るが、コロンブスが多くの要求を出したため全てが水泡に帰する。アラゴン王国経理官ドン・ルイス・サンタヘルの支持。イサベル女王はフェルナンド王の同意も得てコロンブスの航海を行うことに決めた。女王の急使がコロンブスを追いかけ、ピノス・プエンテの村で追いつく。
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1515年
ルイ12世(53)、没(位1498~)。25日、ヴァロワ王家(アングレーム朝)フランソワ1世(20)、即位(位~1547)。ブロワ城のフランソワ1世の翼面、着工(ルネサンス様式)。
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1536(天文5)年
日吉丸(豊臣秀吉)、誕生(公卿補任、太閤素性記、甫庵太閤記による)。
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1537年
パリ、スコットランド王ジェームズ5世、マドレーヌ (フランソワ1世長女)と結婚。フランソワ1世、マリー・ド・ブルボンを推薦するが、ジェームズ5世はリヨン郊外で水浴中のマドレーヌ(アンリ2世妹)を見初め結婚相手変更。マドレーヌの小姓が詩人ピエール・ド・ロンサール。マドレーヌは、1537年7月7日(スコットランド帰国の数ヶ月後)、結核により没。(1538年6月12日ジェームズ5世、ギーズ公娘マリー・ド・ロレーヌと再婚。1542年12月8日マリー、メアリー・スチュアートを出産(1542~1587))。
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1538(天文7)年
島津貴久、薩摩統一。
島津貴久、加世田城の戦いに勝利(前年大晦日に夜襲、1月1日未明落城)。薩摩を統一。戦国大名島津家の基礎を固める。
*
1546(天文15)年
最上義光、出羽に誕生(異説1550年)。
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1550(天文19)年
津軽為信、陸奥に誕生(異説1月5日)。
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1551(天文20)年
神谷宗湛、筑前に誕生。
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1553年
神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世、メッツ攻略断念、包囲解除。譲位決意。
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1556(弘治2)年
芥川城で火災。松永久秀や義興の陣所などが焼ける。11日、久秀、芥川城引き上げ。
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1563(永禄6)年
松永久秀、多聞山城で茶会。客は興福寺成福院・曲直瀬道三・松屋久政・堺宗可・竹内秀勝。
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1564(永禄7)年
北條氏康、江戸衆太田・恒岡両氏に離反した太田康資の家臣を葛西城に入れるよう命ず。
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1565(永禄8)年
イエズス会宣教師ビレラとフロイス、幕府を訪れて将軍義輝に新年を祝う。
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1566(永禄9)年
尼子義久、老臣宇山久信父子を富田城中に殺害。尼子軍動揺す。
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to be continued to 1570 onwards
2009年1月4日日曜日
「元日」物語(1)
黙翁年表から、元日の出来事のみをピックアップ
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1113(天永4)年
鳥羽天皇(11)、元服。
*
1129(大治4)年
崇徳天皇(11)、元服。
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1182(養和2)年
「卯の刻、武衛鶴岡宮に御参り、神馬一疋を奉らる。佐野の太郎忠家これを引く。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1185(元暦2)年
源範頼、赤間関到着。渡海しようとするが船・兵糧なく諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
*
1187(文治3)年
「二品鶴岡宮に御参り、その儀例の如し。御台所並びに若公同じく参り給う」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1188(文治4)年
鎌倉、佐野基綱邸より出火、数十軒被災(「吾妻鏡」同日条)。
*
1191(建久2)年
「千葉の介常胤椀飯を献る。その儀殊に刷う。これ御昇進の故と。・・・御劔は千葉の介常胤、御弓箭は新介胤正、御行騰沓は二郎師常、砂金は三郎胤盛、鷹羽(櫃に納む)は六郎大夫胤頼。」(「吾妻鏡」同日条)。「御椀飯(三浦の介義澄沙汰す)。三浦の介義澄御劔を持参す。御弓箭は岡崎の四郎義實、御行騰は和田の三郎宗實、砂金は三浦左衛門の尉義連、鷲羽は比企右衛門の尉能員。」(「吾妻鏡」同2日条)。「小山右衛門の尉朝政椀飯を献る。御劔は下河邊庄司行平、御弓箭は小山の五郎宗政、御行騰沓は同七郎朝光、鷲羽は下河邊の四郎政能、砂金は最末に朝政自らこれを捧持す。」(「吾妻鏡」同3日条)。「宇都宮左衛門の尉椀飯を献る。御酒宴の間、即ち堪能者を召し弓始め有り。一番 下河邊庄司行平 榛谷の四郎重朝 二番 和田左衛門の尉義盛 藤澤の次郎清親」(「吾妻鏡」同5日条)。
*
椀飯は御家人が御所で将軍に御馳走を振るまうこと。「おうばんぶるまい」の語源。この年までは、元日になかったのかもしれない。幕府内の序列がよくわかるので、1~5日までを記した。
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1193(建久4)年
「将軍家鶴岡八幡宮に御参り。還御の後椀飯有り。千葉の介常胤これを沙汰す。源氏並びに江間殿及び御家人等庭上に候ず。時刻に将軍家出御す。上総の介義兼座を起ち参進して御簾を上ぐ。相模の守惟義御劔を持参す。八田右衛門の尉知家は御調度。梶原左衛門の尉景季御行騰を持参す。千葉の大夫胤頼砂金を役す。千葉の介常胤は鷲の羽。次いで御馬五疋を引き進す。常胤が子息三人・孫子二人これを引く。所謂師常・胤信・胤道・胤秀等なり。また今日人々の座敷の次第を定められ、御自筆の式目を下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1194(建久5)年
頼朝、鶴岡参詣の後、椀飯。足利義兼、御征箭、弓馬以下を進ぜる。里見義成、御釼を持つ(「吾妻鏡」)。義兼は頼朝の「御門葉」(頼朝が親族と認めた源氏)として頼朝の御家人として高い位置におり、 将軍への随行などの序列では常に最上位。
*
1195(建久6)年
足利義兼、頼朝に椀飯を献じる。2日「千葉の介常胤椀飯を進す。」。3日「小山左衛門の尉朝光椀飯なり。」(「吾妻鏡」)
*
1200(正治2)年
「北條殿椀飯を献らる。」。2日「椀飯、千葉の介常胤。」。3日「椀飯、三浦の介義澄が沙汰なり。」。4日「兵庫の頭廣元朝臣御椀飯。」。5日「椀飯、八田左衛門の尉知家が沙汰なり。」。6日「相模の守惟義朝臣御椀飯なり。」。7日「小山左衛門の尉朝政椀飯なり。」。8日「椀飯、結城の七郎朝光これを沙汰す。」。13日「椀飯、土肥の彌太郎沙汰なり。」。15日「佐々木左衛門の尉定綱(在京)椀飯を進す。」。(「吾妻鏡」同日条)
*
この年の正月の垸飯(わうばん)では、独裁者が没した動揺を反映して11名となり、首位が新将軍頼家の外祖父時政(頼朝時代には千葉・足利・三浦・小山・宇都宮ら東国豪族領主層で、時政はない)。北条氏の抬頭が、「将軍の外戚たる地位を殆ど唯一のより所として」、頼朝没後表面化した「将軍独裁制支持者と東国御家人との反目抗争」の「調停者」となるで実現。
*
1205(元久2)年
「遠州椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」。3日「千葉の介椀飯を献る。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1211(承元5)年
・「相州椀飯を進せらる。」。2日「前の大膳大夫廣元朝臣椀飯を沙汰し進す。」。3日「椀飯、小山左衛門の尉朝政これを沙汰す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1212(建暦2)年
「相州椀飯を進せらる。」。2日「椀飯、前の大膳大夫廣元朝臣沙汰す。」。3日「椀飯、小山左衛門の尉朝政これを進す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1213(建暦3)年
「巳の刻地震・・・還御の後椀飯の儀を刷わる。廣元朝臣これを経営す。」。2日「相州椀飯を献らる。」。3日「武州椀飯を沙汰し進せらる。」。4日「椀飯、和田左衛門の尉義盛これを沙汰す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1214(建暦2)年
「鎌倉右府将軍家に正月朔日大名とも参たりけるに、三浦介義村もとより作て大侍の座上に候けり。其後千葉介胤綱まひりたりける。いまだ若物にて侍けるに、おほくの人を分すにて座上せめたる義村が猶上に為てけり。義村しるへくもおもいて、いきとをりたる気色にて、下総犬はふしとをしらぬそとよと云たりけるに、胤綱すこし意気色らしてとりあへす、三浦犬は友をくらふ也といひたりけり。輪田左衛門か合戦の時のことをおもひていへるなり。ゆゝしくとりあへすはいへりける。」(「古今著聞集」)。
*
1219(建保7)年
将軍実朝の館での御家人参集。千葉胤綱(12)、三浦義村に対して、和田合戦のときに従兄弟和田義盛に味方するといい北条義時に寝返ったことを皮肉る。
*
1222(承久4)年
「奥州例に任せ椀飯を献らる。」。足利義氏、椀飯に於いて御剣役となる。2日「椀飯(足利前の武州これを進す)。」。3日「椀飯(前の大膳大夫入道覺阿沙汰す)。」。7日「椀飯(結城左衛門の尉朝光これを進す)。」。8日「椀飯(中條右衛門の尉家長これを進す)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1223(貞応2)年
「椀飯有り(奥州御沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1224(貞応3)年
「前の奥州椀飯を献らる。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1225(元仁2)年
「相州椀飯等を献らる。御剱役人駿河の前司義村と。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1226(嘉禄2)年
「新造御所の椀飯、武州沙汰し進せしめ給う。相州以下布衣を着し西侍に侯す。」。2日「椀飯、越後の守朝時これを沙汰す。」。3日「椀飯、駿河の前司義村これを進す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1227(嘉禄3)年
「椀飯(武州御沙汰)。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。戌の刻田楽の辻子東西一町余り焼亡す。」。3日「椀飯(三浦駿河の前司これを進す)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1228(安貞2)年
「今日椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州御沙汰)。」。3日「椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
この年~仁治元(1240)年迄、正月の垸飯(わうばん)の序列、首位時房・2位泰時・3位朝時で変化なし。執権政治安定期。合議制ではあるが、北条氏による高位独占体制である。
*
1229(安貞3)年
「今日椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州御沙汰)。」。3日「今日椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1233(貞永2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1234(天福2)年
・「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1235(文暦2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1236(嘉禎2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1237(嘉禎3)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「今日の椀飯、左京兆の御分たりと雖も、御軽服に依って、孫子彌四郎殿これを沙汰せらる。」。泰氏(22)、御剱役となる。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1238(嘉禎4)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「椀飯(左京兆御沙汰)。」。3日「椀飯(遠江の守沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1239(暦仁2)年
「椀飯(匠作御沙汰)例の如し。」。2日「椀飯(前の武州御沙汰)。」。3日「椀飯(遠江の守沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1240(暦仁3)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「椀飯(前の武州御沙汰)。」。3日「今日椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1241(仁治2)年」
「椀飯(前の武州御沙汰)。」。2日「椀飯、左馬の頭義氏朝臣沙汰。」。3日「椀飯(遠江の前司朝時沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1243(仁治4)年
「椀飯(足利左馬入道沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1244(寛元2)年
「椀飯(遠江入道沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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遠江入道:「朝時法師(遠江入道と号す。故泰時朝臣舎弟、相模守重時舎兄)」
*
同日、将軍頼経の発願で、久遠寿量院で隆弁が如意輪法を修す。16日に月食が起こるというので、隆弁は明王院の北斗堂に参籠、祈祷を凝らす。16日は朝から快晴、月食が始る頃、雲が湧き小雨が降り出し、晴れ上った満月。月食が見えなかったのは、隆弁の祈祷の功と考え、頼経は自筆賀状・鞍置の名馬・剣を隆弁に贈る。
*
1245(寛元3)年
「今日の椀飯(武州沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1246(寛元4)年
「椀飯、武州の御沙汰なり。夜に入りこれを行わる。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1247(寛元5)年
「椀飯、左親衛御沙汰。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1248(宝治2)年
「椀飯(左親衛御沙汰)例の如し。」。2日「椀飯(相州御沙汰)」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1250(建長2)年
「椀飯(相州御沙汰)」。2日「椀飯(足利左馬の頭入道沙汰)」。3日「椀飯(奥州御沙汰)」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1251(建長3)年
「椀飯、相州御沙汰。」。2日「椀飯、奥州御沙汰。」。3日「椀飯、左馬の頭入道正義沙汰。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1252(建長4)年
「椀飯、相州御沙汰。」。2日「椀飯、奥州御沙汰。」。3日「椀飯、左馬の頭入道沙汰有り。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1253(建長5)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(入道左馬の頭義氏朝臣沙汰)。」。3日「椀飯(奥州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1254(建長6)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯、左馬の頭入道沙汰。」。3日「椀飯(奥州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1256(建長8)年
「椀飯(相州御沙汰)の儀有り。」。2日「椀飯(奥州沙汰)。」。3日「椀飯(足利の三郎利氏沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
3日に足利頼氏(17)が、将軍への椀飯を沙汰。正月3が日の椀飯は、御家人筆頭格の者が沙汰することになっており、 安貞2(1228)年以降、北条氏以外では、足利義氏・利氏(頼氏)のみ。これ以降、頼氏の椀飯沙汰はなく、椀飯沙汰は北条氏が独占。
*
1257(建長9)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(左近大夫入道沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1258(正嘉2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「今日の椀飯奥州禅門の沙汰。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1260(正元2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1261(文応2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1263(弘長3)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。」。3日「椀飯(武州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1265(文永2)年
「椀飯(左典厩御沙汰)を行わる。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。」。3日「椀飯(越後入道圓勝沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
*
1266(文永3)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(左京兆御沙汰)。」。3日「椀飯(陸奥の孫四郎義宗沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1321(元応3)年
北畠顕家、従五位下に叙される。
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to be continued to 1334 onwards
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1113(天永4)年
鳥羽天皇(11)、元服。
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1129(大治4)年
崇徳天皇(11)、元服。
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1182(養和2)年
「卯の刻、武衛鶴岡宮に御参り、神馬一疋を奉らる。佐野の太郎忠家これを引く。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
1185(元暦2)年
源範頼、赤間関到着。渡海しようとするが船・兵糧なく諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
*
1187(文治3)年
「二品鶴岡宮に御参り、その儀例の如し。御台所並びに若公同じく参り給う」(「吾妻鏡」同日条)。
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1188(文治4)年
鎌倉、佐野基綱邸より出火、数十軒被災(「吾妻鏡」同日条)。
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1191(建久2)年
「千葉の介常胤椀飯を献る。その儀殊に刷う。これ御昇進の故と。・・・御劔は千葉の介常胤、御弓箭は新介胤正、御行騰沓は二郎師常、砂金は三郎胤盛、鷹羽(櫃に納む)は六郎大夫胤頼。」(「吾妻鏡」同日条)。「御椀飯(三浦の介義澄沙汰す)。三浦の介義澄御劔を持参す。御弓箭は岡崎の四郎義實、御行騰は和田の三郎宗實、砂金は三浦左衛門の尉義連、鷲羽は比企右衛門の尉能員。」(「吾妻鏡」同2日条)。「小山右衛門の尉朝政椀飯を献る。御劔は下河邊庄司行平、御弓箭は小山の五郎宗政、御行騰沓は同七郎朝光、鷲羽は下河邊の四郎政能、砂金は最末に朝政自らこれを捧持す。」(「吾妻鏡」同3日条)。「宇都宮左衛門の尉椀飯を献る。御酒宴の間、即ち堪能者を召し弓始め有り。一番 下河邊庄司行平 榛谷の四郎重朝 二番 和田左衛門の尉義盛 藤澤の次郎清親」(「吾妻鏡」同5日条)。
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椀飯は御家人が御所で将軍に御馳走を振るまうこと。「おうばんぶるまい」の語源。この年までは、元日になかったのかもしれない。幕府内の序列がよくわかるので、1~5日までを記した。
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1193(建久4)年
「将軍家鶴岡八幡宮に御参り。還御の後椀飯有り。千葉の介常胤これを沙汰す。源氏並びに江間殿及び御家人等庭上に候ず。時刻に将軍家出御す。上総の介義兼座を起ち参進して御簾を上ぐ。相模の守惟義御劔を持参す。八田右衛門の尉知家は御調度。梶原左衛門の尉景季御行騰を持参す。千葉の大夫胤頼砂金を役す。千葉の介常胤は鷲の羽。次いで御馬五疋を引き進す。常胤が子息三人・孫子二人これを引く。所謂師常・胤信・胤道・胤秀等なり。また今日人々の座敷の次第を定められ、御自筆の式目を下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1194(建久5)年
頼朝、鶴岡参詣の後、椀飯。足利義兼、御征箭、弓馬以下を進ぜる。里見義成、御釼を持つ(「吾妻鏡」)。義兼は頼朝の「御門葉」(頼朝が親族と認めた源氏)として頼朝の御家人として高い位置におり、 将軍への随行などの序列では常に最上位。
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1195(建久6)年
足利義兼、頼朝に椀飯を献じる。2日「千葉の介常胤椀飯を進す。」。3日「小山左衛門の尉朝光椀飯なり。」(「吾妻鏡」)
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1200(正治2)年
「北條殿椀飯を献らる。」。2日「椀飯、千葉の介常胤。」。3日「椀飯、三浦の介義澄が沙汰なり。」。4日「兵庫の頭廣元朝臣御椀飯。」。5日「椀飯、八田左衛門の尉知家が沙汰なり。」。6日「相模の守惟義朝臣御椀飯なり。」。7日「小山左衛門の尉朝政椀飯なり。」。8日「椀飯、結城の七郎朝光これを沙汰す。」。13日「椀飯、土肥の彌太郎沙汰なり。」。15日「佐々木左衛門の尉定綱(在京)椀飯を進す。」。(「吾妻鏡」同日条)
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この年の正月の垸飯(わうばん)では、独裁者が没した動揺を反映して11名となり、首位が新将軍頼家の外祖父時政(頼朝時代には千葉・足利・三浦・小山・宇都宮ら東国豪族領主層で、時政はない)。北条氏の抬頭が、「将軍の外戚たる地位を殆ど唯一のより所として」、頼朝没後表面化した「将軍独裁制支持者と東国御家人との反目抗争」の「調停者」となるで実現。
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1205(元久2)年
「遠州椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」。3日「千葉の介椀飯を献る。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1211(承元5)年
・「相州椀飯を進せらる。」。2日「前の大膳大夫廣元朝臣椀飯を沙汰し進す。」。3日「椀飯、小山左衛門の尉朝政これを沙汰す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1212(建暦2)年
「相州椀飯を進せらる。」。2日「椀飯、前の大膳大夫廣元朝臣沙汰す。」。3日「椀飯、小山左衛門の尉朝政これを進す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1213(建暦3)年
「巳の刻地震・・・還御の後椀飯の儀を刷わる。廣元朝臣これを経営す。」。2日「相州椀飯を献らる。」。3日「武州椀飯を沙汰し進せらる。」。4日「椀飯、和田左衛門の尉義盛これを沙汰す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1214(建暦2)年
「鎌倉右府将軍家に正月朔日大名とも参たりけるに、三浦介義村もとより作て大侍の座上に候けり。其後千葉介胤綱まひりたりける。いまだ若物にて侍けるに、おほくの人を分すにて座上せめたる義村が猶上に為てけり。義村しるへくもおもいて、いきとをりたる気色にて、下総犬はふしとをしらぬそとよと云たりけるに、胤綱すこし意気色らしてとりあへす、三浦犬は友をくらふ也といひたりけり。輪田左衛門か合戦の時のことをおもひていへるなり。ゆゝしくとりあへすはいへりける。」(「古今著聞集」)。
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1219(建保7)年
将軍実朝の館での御家人参集。千葉胤綱(12)、三浦義村に対して、和田合戦のときに従兄弟和田義盛に味方するといい北条義時に寝返ったことを皮肉る。
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1222(承久4)年
「奥州例に任せ椀飯を献らる。」。足利義氏、椀飯に於いて御剣役となる。2日「椀飯(足利前の武州これを進す)。」。3日「椀飯(前の大膳大夫入道覺阿沙汰す)。」。7日「椀飯(結城左衛門の尉朝光これを進す)。」。8日「椀飯(中條右衛門の尉家長これを進す)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1223(貞応2)年
「椀飯有り(奥州御沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1224(貞応3)年
「前の奥州椀飯を献らる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1225(元仁2)年
「相州椀飯等を献らる。御剱役人駿河の前司義村と。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1226(嘉禄2)年
「新造御所の椀飯、武州沙汰し進せしめ給う。相州以下布衣を着し西侍に侯す。」。2日「椀飯、越後の守朝時これを沙汰す。」。3日「椀飯、駿河の前司義村これを進す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1227(嘉禄3)年
「椀飯(武州御沙汰)。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。戌の刻田楽の辻子東西一町余り焼亡す。」。3日「椀飯(三浦駿河の前司これを進す)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1228(安貞2)年
「今日椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州御沙汰)。」。3日「椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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この年~仁治元(1240)年迄、正月の垸飯(わうばん)の序列、首位時房・2位泰時・3位朝時で変化なし。執権政治安定期。合議制ではあるが、北条氏による高位独占体制である。
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1229(安貞3)年
「今日椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州御沙汰)。」。3日「今日椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1233(貞永2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1234(天福2)年
・「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1235(文暦2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1236(嘉禎2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1237(嘉禎3)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「今日の椀飯、左京兆の御分たりと雖も、御軽服に依って、孫子彌四郎殿これを沙汰せらる。」。泰氏(22)、御剱役となる。(「吾妻鏡」同日条)。
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1238(嘉禎4)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「椀飯(左京兆御沙汰)。」。3日「椀飯(遠江の守沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1239(暦仁2)年
「椀飯(匠作御沙汰)例の如し。」。2日「椀飯(前の武州御沙汰)。」。3日「椀飯(遠江の守沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1240(暦仁3)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「椀飯(前の武州御沙汰)。」。3日「今日椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1241(仁治2)年」
「椀飯(前の武州御沙汰)。」。2日「椀飯、左馬の頭義氏朝臣沙汰。」。3日「椀飯(遠江の前司朝時沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1243(仁治4)年
「椀飯(足利左馬入道沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1244(寛元2)年
「椀飯(遠江入道沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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遠江入道:「朝時法師(遠江入道と号す。故泰時朝臣舎弟、相模守重時舎兄)」
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同日、将軍頼経の発願で、久遠寿量院で隆弁が如意輪法を修す。16日に月食が起こるというので、隆弁は明王院の北斗堂に参籠、祈祷を凝らす。16日は朝から快晴、月食が始る頃、雲が湧き小雨が降り出し、晴れ上った満月。月食が見えなかったのは、隆弁の祈祷の功と考え、頼経は自筆賀状・鞍置の名馬・剣を隆弁に贈る。
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1245(寛元3)年
「今日の椀飯(武州沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1246(寛元4)年
「椀飯、武州の御沙汰なり。夜に入りこれを行わる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1247(寛元5)年
「椀飯、左親衛御沙汰。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1248(宝治2)年
「椀飯(左親衛御沙汰)例の如し。」。2日「椀飯(相州御沙汰)」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1250(建長2)年
「椀飯(相州御沙汰)」。2日「椀飯(足利左馬の頭入道沙汰)」。3日「椀飯(奥州御沙汰)」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1251(建長3)年
「椀飯、相州御沙汰。」。2日「椀飯、奥州御沙汰。」。3日「椀飯、左馬の頭入道正義沙汰。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1252(建長4)年
「椀飯、相州御沙汰。」。2日「椀飯、奥州御沙汰。」。3日「椀飯、左馬の頭入道沙汰有り。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1253(建長5)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(入道左馬の頭義氏朝臣沙汰)。」。3日「椀飯(奥州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1254(建長6)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯、左馬の頭入道沙汰。」。3日「椀飯(奥州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1256(建長8)年
「椀飯(相州御沙汰)の儀有り。」。2日「椀飯(奥州沙汰)。」。3日「椀飯(足利の三郎利氏沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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3日に足利頼氏(17)が、将軍への椀飯を沙汰。正月3が日の椀飯は、御家人筆頭格の者が沙汰することになっており、 安貞2(1228)年以降、北条氏以外では、足利義氏・利氏(頼氏)のみ。これ以降、頼氏の椀飯沙汰はなく、椀飯沙汰は北条氏が独占。
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1257(建長9)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(左近大夫入道沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1258(正嘉2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「今日の椀飯奥州禅門の沙汰。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1260(正元2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1261(文応2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1263(弘長3)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。」。3日「椀飯(武州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1265(文永2)年
「椀飯(左典厩御沙汰)を行わる。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。」。3日「椀飯(越後入道圓勝沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1266(文永3)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(左京兆御沙汰)。」。3日「椀飯(陸奥の孫四郎義宗沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1321(元応3)年
北畠顕家、従五位下に叙される。
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to be continued to 1334 onwards
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