2023年5月31日水曜日

〈藤原定家の時代377〉建仁3(1203)年5月19日~29日 頼朝の異母弟の阿野全成(51)、謀反の疑いで捕らえられる 常陸に配流 下野で殺害 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(5/20~24) 太白(金星)が昼見えたとの記録(「明月記」)    

 


〈藤原定家の時代376〉建仁3(1203)年4月1日~5月18日 定家、「新古今」の撰歌作業を終える 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(5/10~14) 水無瀬殿当座六首歌会 より続く

建仁3(1203)年

5月19日

・源頼朝の異母弟の阿野全成(51)、謀反の疑いで捕らえられる。

源義朝の7男、頼朝の弟、義経の兄、幼名を今若丸。源頼朝挙兵、その下に加わり活躍、その功績により駿河国(静岡県)阿野庄を与えらる。鎌倉幕府成立後も頼朝の下で働くが、頼朝没後、北条氏と対立。

頼家は、全成の妻阿波局(時政の娘、政子の妹、実朝の乳母)も逮捕しようとするが、政子の頑強な拒絶により果たせず。

25日、頼家により常陸に配流。

6月23日、下野で殺害。

阿野全成の長男は時元(隆元)は、源実朝の暗殺後、阿野庄で挙兵。失敗して時元は自殺、阿野庄を失う。

頼家排斥を目指す北条氏の策謀に対する頼家の先制攻撃。

「子の刻、阿野法橋全成(幕下将軍御舎弟)謀叛の聞こえ有るに依って、御所中に召し籠めらる。武田の五郎信光これを生虜る。即ち宇都宮四郎兵衛の尉に預けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

20日「将軍家比企の四郎を以て尼御台所に申されて云く、法橋全成叛逆を企てるに依って生虜る所なり。彼の妾阿波の局殿内に官仕するか。早く召し給え。子細を尋ね問うべきこと有りと。然る如き事、女性に知らしむべからざるか。随って全成去る二月比駿州に下向するの後、音信を通ぜず。更に疑う所無きの由御返事を申され、これを出し進せられずと。」。(「吾妻鏡」同日条)。

25日「申の刻、阿野法橋全成常陸の国に配す。」。(「吾妻鏡」同日条)。

6月23日「八田知家仰せを奉り、下野の国に於いて阿野法橋全成を誅す。」。(「吾妻鏡」同日条)。

7月25日「相模権の守の使者京都より到着す。申して云く、去る十六日在京の御家人等を催し遣わし、東山延年寺に於いて播磨公頼全(全成法橋息)を窺い、これを誅戮せしむと。」。(「吾妻鏡」同日条)。

5月20日

定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~24日

5月21日

・巳の時に参上。出でおわしまして後退出す。片野に出でおわします。人々競いて参ず。申の時、京を出づ。大渡りの辺りにて大雨。秉燭以後、冷泉に帰る。(『明月記』)

5月22日

・日出づる後、騎馬して京を出づ。巳の時、宿所に入る。すなわち参上す。出でおわします。(『明月記』)

5月24日

・巳の時に参上す。午の時に出でおわします。遊女退下するの後に、退出す。船に乗り、京に帰る。鳥羽に於て日没。東の河原より宜秋門院に参ず。亥の時、冷泉に帰る。(『明月記』)

5月25日

・今日、後鳥羽院、還りおわします。出で行かず。(『明月記』)

5月26日

・頼家、狩猟のために伊豆に向かう。(「吾妻鏡」)

5月26日

・定家、法勝寺八万四千基塔供養につき、百基を内裏に進上する。

良経より召しあり、巳の時に三条坊門に参じ、御供して、院に参ず。午終に神泉苑御幸。良経退出。女房参ぜざるにより、日﨟し陪膳。今日、塔百基、内裏に進む。宜秋門院には、五十基。夕に退下。(『明月記』)

5月27日

・法勝寺に於て、八万四千基の塔供養。御幸供奉の良経に、御供す。(『明月記』)

5月28日

・院に参ず。神泉苑に御幸。出でおわします後に、退出す。良経の許に参じ、夕に退出。(『明月記』)

5月29日

・良経の許に参じ、御供して、院に参ず。御幸の後、未の時に御退出。日入るの程に退下す。

この三ヶ日、星昼見ゆ。これ、太白天を経るという。(『明月記』)。

太白(金星)が昼見えた記録。


つづく

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