2008年12月6日土曜日

3年前の東京散策とKY君の追憶









写真は、上から
  ①根津神社
  ②樋口一葉の菊坂旧宅跡(本郷4丁目)
  ③④不忍池と池辺り
撮影日付は、丁度3年前の2005/12/03(多分土曜日)
 この日、会社に同期入社した4人で、お茶の水~湯島(聖堂、天神)~上野辺り~本郷辺りを歩いて、まだ(飲むまでに)時間があったので、後楽園~秋葉原をぶらついて、神田で飲みました。
 この4人のうち、K.Y君は、この3ヶ月後の2006/06/25に肺がんで亡くなりました。
 発病(正確には発見?)から2年近くなって、それまで治療入院・退院、手術入院・退院を繰り返してはいましたが、僕たちと会うときは特にそうなんでしょうが、いたって元気でした。また、その間、マレーシアに旅行、現地駐在者が止めろと忠告するほどのバックパッカー的旅行を敢行・・・。「死」を思わせるような感じは、全くなかった。
 逗子~鎌倉方面散歩、衣笠城址散歩なども一緒でした。
 それまでは、県立がんセンタでの治療だったのが、2月にメールが来た時は、「あと数ヶ月、病院も変えられた」旨のメールがありました。急いで日程の調整をして、お見舞いに行く予定のその前日に、亡くなった旨の連絡がありました。

2008年12月4日木曜日

昭和12(1937)年12月13日 南京(5) 「もう間に合わない」 南京城内残敵掃蕩の実相

■昭和12(1937)年12月南京(5) 「もう間に合わない」(ゴヤ「戦争の惨禍」19)
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12月13日南京
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・江岸に沿って南京に向う第13師団山田支隊(山田梅二少将)、12日鎮江出発。この日、鳥龍山砲台占領。14日、幕府台砲台占領。
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・第10軍国崎支隊、揚子江北岸を北進し、南京対岸の浦口占領。中国軍の退路を遮断。
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・午前0時、集成騎兵隊・攻城重砲兵隊第2大隊、中国退却軍と激突。仙鶴門付近。
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・午前0時30分過ぎ、南京城南の砲声・銃声は途絶え、南京は異常な静寂の中に陥る。
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・午前3時10分、第16師団歩20連隊四方中隊、最後の中山門無血占領。
この頃迄には、各城門でも守兵は退却、夜明けとともに、城壁を包囲する各部隊は前後して手近な城門や城壁の破壊個所から進入、城内掃蕩に移る。
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・午前6時、第16師団佐々木支隊(歩38連隊基幹)は下関に向かう追撃命令を受け、配属された独立軽装甲車第8中隊を先頭に急進、一部兵力(第1中隊)で南京城北側の和平門・中央門を占領、城内敗残兵の逃げ道を塞ぐ。午後1時40分頃、先頭隊が目指す下関に突入、「渡江中ノ敵五、六千ニ徹底的大損害ヲ与エテ之ヲ江岸及江中ニ殲滅」(歩38連隊戦闘詳報)する。
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・午前6時、第6師団歩45連隊第3大隊(小原重孝少佐)左側支中隊(第2中隊長大薗庄蔵大尉以下250)、南京城西側を下関に向かい北進中、南下する第74軍と遭遇、4時間の激闘でほぼ全滅させる。中国軍戦死2377。翌日、佐々木支隊と合流。
兵力は日本軍が10対1以下の劣勢。大薗中隊長は、「敵は城内からの脱出兵だ、戦意は失っているから、落ちついてやれ」(浜崎富蔵日記13日)と督励、中国軍は「二三七七人」(赤星昴「江南の春遠」)の死体を残し、残兵は揚子江に飛びこんだり、貯木用の筏で逃げようとして掃射され四散。支隊も大薗大尉以下戦死16、負傷36。
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高橋義彦中尉(独立山砲兵2連隊付)の証言。
 「砲兵は全部零距離射撃の連続で・・・遂に白兵乱闘の状況となった。当初は軍官学校生徒が第一波で、さすがに勇敢で我々を手こずらせたが、第五波、六波ごろからはやや弱くなった。九時頃からの突撃部隊はへッピリ腰の民兵で、その半数は督戦隊である彼等の味方から殺されていた。江岸の膝を没する泥濘地帯も、死体が枕木を敷きつめたように埋められ、その上を跳び或は這いずり廻って白兵戦が続いた」(「偕行」シリーズ(6))。
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・朝、第3師団歩兵68連隊の先遣隊、光華門と中華門の中間にある武定門から城内に入る。第3師団主力は第二線兵団として後方を追及中。
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・朝、第10軍第114師団(宇都宮)歩127旅団歩102連隊先頭に中華門から進入し、城内掃蕩
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・am8.第16師団中島師団長に下関突入命ぜられた歩33連隊、天文台占領、下関途上、江上の敗残兵全滅させる
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・午前8時30分、第10軍司令官柳川平助中将、残敵「殲滅」を下命
 「丁集団(第10軍)命令(丁集作命甲号外) 十二月十三日午前八時三十分 
 一、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす 
 一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す」
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・朝、「残敵掃蕩」開始。
 上海派遣軍第9師団第6旅団長秋山義兌少将、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」において、青壮年は全て便衣兵とみなす旨指示
 「一、遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す 
  一、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」
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・午前、第16師団(左翼担当)歩兵第19旅団(草場辰巳少将)歩20連隊、中山門に一番乗り。夕方まで掃蕩。殆ど抵抗無く「この日は一発も射たなかった」(森英生中尉)ほど。
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・午前、上海派遣軍第9師団(金沢、南京城東・東南側攻撃担当)、無抵抗で城内進入。中山門とその南側から歩35連隊と歩7連隊、光華門と通済門から歩36連隊と歩19連隊が入り、城内東南部を掃蕩。敗残兵の抵抗は微弱。夕方、掃蕩を打切り各所の建物で宿営。
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 13日午前10時に下達された歩兵第6旅団(秋山義兌少将、歩7、35連隊基幹)の「南京城内ノ掃蕩要領」「掃蕩実施ニ関スル注意事項」。
 外国権益への無断立入禁止、文化財・老幼婦女子の保護、掠奪・放失火の厳禁など項目と、「遁走スル敵ハ、大部分ガ便衣ニ化セルモノト判断サレルノデ、ソノ疑ヒアル者ハ悉ク検挙シ、適宜ノ位置ニ監禁スル」、「青壮年ハスべテ敗残兵又ハ便衣兵トミナシ、スべテコレヲ逮捕監禁セヨ」と指示。捕虜を認めないとの方面軍方針に沿えば、「監禁」は「処刑」の椀曲な表現と解釈される可能性がある。
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・【無抵抗で南京入城】午後、.金沢第9師団。~12月24日迄、断続的に掃蕩活動続ける。
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 12月7日付示達の「南京城攻略要領」では、城内掃蕩兵力は各師団から歩兵1個連隊基幹に制限し、主力は城外に集結する方針になっている。しかし、第9師団の場合は、13日に4個連隊全部が進入、第10軍の2個師団も半分以上が入城したらしい。第16師団は、15日に中島師団長を先頭に全員が中山門から入城式を実施、主力はそのまま居すわる。城外に宿営した部隊からも、連絡や見物の名目で相当数の兵士が入り込み、城内の兵力は7万以上となり、宿舎の奪いあいや占領前と変らぬ補給難が発生。
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 中山寧人中支部方面軍参謀の東京裁判での証言。
 「第一級軍隊の大部分は何時の間にか城内に入ったのであります・・・(その原因は)城壁の抵抗を排除した余勢にひきずられたこと、城外の兵営や学校などは中国軍又は中国人によって破壊され又は焼かれて日本軍の宿営が出来なかったこと、城外は水が欠乏していて、あっても飲料にならなかった」。
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 極端に少ない軍紀取締りに当るべき憲兵
東京裁判の日高信六郎証言。12月17日現在の城内憲兵は僅か14人で、数日中に40名の補助憲兵を得られる筈とある。この14人は上海派遣軍所属の憲兵(横由昌隆少佐)と推定され、第10軍も憲兵長上砂勝七中佐が「二十万の大軍に憲兵百人足らず」(上砂「憲兵三十一年)と書いており、南京占鱗直後では、城内の正規の意兵は、両軍合せて30名を越えないと推測できる。
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 第9師団の報告。
 「城内の掃蕩に当り七千余の敗残兵を殲滅せり」と述べ、南京攻撃戦における損害を、友軍死者460・負傷1156、敵軍の死体4500・他に城内掃蕩数約7千と数えている(戦闘での4500よりはるかに多い7千を敗残兵として殺害)。
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・午後、第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)、長江下流から南岸沿いを進撃し、鳥龍山砲台(南京17~18km)占領。幕府山に向う。14日、幕府山で捕虜1万4千余獲得。15日、南京より「処分」指示。16日~「処分」。
 「(13日) 例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す」(「山田栴二日記」)。
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・午後、海軍第1掃海隊、揚子江上を敗走中の中国船艇・筏を掃蕩。「微減せるもの約一万」。
 「烏龍山水道より南京下関まで(十二月十三日) 一三二三前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞線を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、微減せるもの約一万に達し・・・一五三〇頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子州付近まで進出し、掃海策を揚収す・・・終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり。」(「南京遡江作戦経過概要」)
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 海軍軍医泰山弘道大佐は、「上海戦従軍日誌」に、「下関に追い詰められ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第十一戦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万人に達せりという」と書く。
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・午後1時40分頃、第16師団佐々木支隊(歩38連隊基幹)の先頭隊(独立軽装甲車第8中隊)、目指す下関に突入、「渡江中ノ敵五、六千ニ徹底的大損害ヲ与エテ之ヲ江岸及江中ニ殲滅」(歩38連隊戦闘詳報)する。
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・午後2時頃、「残敵掃蕩作戦」に従事した第16師団第30旅団長佐々木到一少将、和平門に到達し、城内の状況を記す。
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 「この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。
 ・・・午後二時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。」(「佐々木到一少将私記」)
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・午後2時頃、第6師団の最左翼を北上した歩23連隊第3大隊(河喜多富士喜少佐)、漢中路付近で、請願書を持参した国際難民区委員会ラーべ委員長、フィッチら3人と出会う。
 難民保護と武装解除した便衣兵を捕虜として収容されたいとの請願。委員会の記録によると、日本軍の隊長は翌日来るはずの特務機関に交渉せよ、と答え、軍司令部への取りつぎを断わったという。   *
 「熊本兵団戦史」は、「大隊長は宣教師と協議し、その集団の外周を兵をもって警戒し、外部との交通を遮断して避難民を安全に保護した」と述べるが、フィッチの日記では、「日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二〇人を殺した」という。
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・午後2時30分、第16師団歩兵第33連隊、「江上の敵を猛射することニ時間、殲滅せし敵二千を下らざる・・・」(「南京付近戦闘詳報」)。
 佐々木支隊に1時間遅れて、支隊復帰の歩33連隊主力が下関に突入。歩33は苦戦ののち前日夕方、紫金山第1峰を攻略、その戦功で感状を貰い、12日夜は付近で露営。第16師団中島師団長は、佐々木支隊の遅れを心配し、歩33にも下関突入を命じる。13日8時、歩33は天文台占領後、1個中隊を太平門に残し、主力は敗残兵を倒しながら下関へ向かい、江岸に集まったり、小舟や筏で逃れようと*
 江上にひしめく敗残兵の対し、1万5千発の小銃、機関銃火を注ぎほぼ全滅させたという。
 「午後二時三十分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。」「遺棄死体五五〇〇(タダシ敗戦兵ノ処断ヲ含ム)」「停虜、将校一四、下士官兵三〇八二、計三〇九六(俘虜ハ処断ス)」(「南京付近戦闘詳報」)。
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 「直ちに河岸に至り、散の舟逃ぐるをわが重機にて猛射す。面白きことこの上なし。又大隊砲の舟に命中、ものすごし。やがて我軍艦八隻も来り、思はず万歳を叫ぶ。敗残兵多数殺す。」(第2大隊機関銃中隊西田健上等兵の日記)。           、
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 第13師団歩兵第26旅団歩兵第58連隊第1大隊吉田庚。(下関での捕虜殺害なので第16師団と推測できる)。
 「(12月13日頃のこと)二、三日中に原隊へ連絡に行きし上等兵の帰着を待って南京を出発することとす。準備も完了している気安さから噂に聞く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名提上に整列させ、半数は揚子江に面 して半数は裏向きとして、前向き十名は桟橋に駆足行進、濁流に投身せしむるのである。強行溺死の処置であるが、生還せんとするものまたは逃げんとせし者は、数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。終ると、残る裏向き十名が前向けに替わり、終れば提脚部から二十名整列、これを繰返すのである。鮮血河流を紅とす。嗚呼惨たる哉、巳むを得ざる処置なる哉。江上に浮上する我が駆逐艦上より二、三発飛弾水面 につき刺す。流弾的をはずるれば友軍に危害を招く恐れあり。桟橋上と提上の歩兵が怒号して中止せよと叫ぶ。漸く止みたり。海軍の面 白半分の行動である。上流に向かって堤防を行く。川面側の提下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し、逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。 」(「軍馬の思い出 一輜重兵の手記」)。
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 飛行第8大隊付き陸軍航空兵軍曹井手純二。(下関での捕虜殺害なので第16師団と推測できる)。
 「鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。江岸まで二〇〇メートルもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面 から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。
 ・・・さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、死体を水面 にけり落としているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落としていた。
 ・・・その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、”何ですか”と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からさサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。」(投稿「私が目撃した南京の惨劇」(増刊「歴史と人物」1984年12月号))。
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・第16師団団長中島今朝吾中将のこの日付け日記の「捕虜掃蕩」という項目に記述。投降兵・敗残兵を捕虜として収容せず、殺害するのは師団方針。この日、第16師団だけで2万3千の敗残兵を処理、うち歩30旅団(佐々木到一少将)だけで1万5千を処理。
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 「本日正午高山剣士来着す 捕虜七名あり直に試斬を為さしむ 時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸ふたつを見込斬りたり・・・だいたい捕虜はせぬ方針なれは、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群集となれはこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三日夕はトラックの大活動を要したり。
 ・・・後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、大平門における守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり、なお続々投降しきたる。この七、八千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ処(箇処)に誘きて処理する予定なり。」(中島師団長の日記)。
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 歩38連隊副官児玉義堆大尉の証言。
 「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として〝支部兵の降伏を受け入れるな。処置せよ″と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた・・・参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず・・・」(「借行」シリーズ(5))。
 この師団副官は官本四郎大尉であり、宮本副官は13日に捕虜1万が出と報告すると、参謀長が即座に「捕虜はつくらん」と指示したと遺稿に記す(「轍跡」)。
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・午後4時、第16師団、国民政府庁舎に日章旗掲げる。公式の南京陥落。
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・午後5時30分~7時30分、第10軍第114師団歩127旅団(秋山充三郎少将)歩66連隊第1大隊、12日夜、中華門~光華門の城壁南で、助命すると約束して投降させ獲得した捕虜1500を処刑。「歩66連隊事件」。
 同大隊の戦闘詳報。
 「(二月一二日午後七時ごろ)最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 (一二日夜)捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二〇名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
 (一三日午後二時)連隊長より左の命令を受く。旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方態は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。・・・
 午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路宮地南方谷地、第三中隊は路宮地西南方凹地、第四中隊は路宮地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
 ・・・各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。」
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・pm7.第6師団歩45連隊、下関へ進軍中、中国軍第縦隊を攻撃全滅
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・支那方面軍艦隊参謀長杉山少将、米アジア艦隊司令官ヤール大将に陳謝
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・難民区国際委員会委員長ラーベがアメリカ人委員共にと日本軍総司令部に向う途中で目撃したもの。
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 「われわれは、たくさんの中国の民間人の屍体を見ました。いくつかの遺体を調べた結果、私は彼らが至近距離、おそらく逃走中に背後から射殺されたことが確認されました」と書く。沿道に見たのは、さながら「うさぎ狩り」のように逃げるところを射殺された民間人の死体。「私はさらに、われわれが走った範囲では市街にはごく僅かな損傷しかないことを確認しました。撤退する中国軍はごく僅かな損害しか加えlなかったのでした。われわれは、この事実に満足し、しっかりと記憶に留めました」と記す(「南京書件・ラーベ報告書」)。
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 南京城東南部は、避難する手段・条件の無い貧しい階層の人々が残り住む住宅密集地で、そこへ敗残兵が逃げこんでいると想定した日本軍は、幾つかの部隊を投入し徹底した掃蕩作戦を行なう。
 第9師団歩兵第19連隊(敦賀)は、「午前一〇時光華門より城内に進入し、東南部を掃蕩して、通済門西側地区に兵力を集結し、爾後の行動を準備した」と記す(「敦賀連隊史」)。
 第114師団歩兵第150連隊(松本)は、雨花門・武定門から白鷺州地区一帯を担当、「城内は家屋稠密しあり、掃蕩に時間を要せり」と記録(「歩兵第五十連隊史(歩兵第一五〇連隊史を含む)」)。
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13日・この日の新聞報道。
 「南京城内の敵総崩れ、南側城壁を全部占領、残敵掃蕩、凄壮を極む、皇軍の戦果益々拡大」(「東京日日」)。
「南京・南側全城壁に日章旗翻る、潮の如く城内へ殺到、凄絶・暗夜の大市街戦、敵の二個師全滅、凄愴!〝最後の姿〞」(「東京朝日」)。
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13日・「東京朝日」(13日付)社説「占領地窮民の救済」。
 「戦地を視察して帰った人々の異口同音に語る重要話題の一つは、北支と上海付近とに論なく、我軍の占領地域内における支那住民の驚くべき困窮状態である。水害や干魅の災いを受け、餓死するもの幾万なるを知らずという所もあり、その上、疫病、匪賊、内乱の犠牲となって倒れるもの等、年々幾十百万の多きに達し・・・。今目前飢餓に追れる窮民数百万人の救済については新政権の樹立を待つまでもなく、日本としても即刻着手すべき緊急問題といわねばならぬ」
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13日・萩原朔太郎「南京陥落を祝ふ詩」(東京朝日新聞)
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13日・広田外相、米大使グルーに陳謝/駐米斎藤博大使、米国務長官ハルに陳謝
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13日・末次信正予備役海軍大将(参議)、内務大臣就任
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13日・米、ニューヨーク、デューイ委員会、トロツキーを無罪とする評決。
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to be continued

2008年12月3日水曜日

明治17(1884)年4月、5月 秩父(4)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 村上泰治、新井愧三郎らと国事探偵(スパイ容疑)照山俊三殺害 群馬事件 武相困民党、露木卯三郎殺害事件(一色騒動) 秩父自由党、井上伝蔵らの入党発表


横井小楠殉節地
撮影:2008/01/02
所在地:中京区寺町丸太町下る東側
横井小楠:熊本藩出身。朱子学を学ぶが開国論者となる。福井藩(松平春嶽)に招かれ改革を指導。明治新政府の参与として出仕。明治2(1869)年正月5日、御所参賀の帰途、十津川郷士らによりこの地で暗殺される。61歳。
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横井小楠遭難地
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■明治17(1884)年秩父(4)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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4月
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-・案外堂小室信介「興亜綺談夢恋恋」(「自由新聞」)。
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-・自由党幹部、政府に対し対清戦争により韓国を勢力下に入れるよう進言。
 この文脈の中で、自由党員中江兆民・杉田定一は、樽井藤吉・和泉邦彦と協力して上海に東洋学館を設立(8月)。上海に渡航した樽井・和泉は参謀本部将校と福建省福州で暴動を計画。参謀本部命令で中止。この頃、自由党は「内治優先論」放棄。
*
-・与謝野晶子(6)、宿院小学校(尋常科4年制)入学。同窓に曽我道家五郎。この頃、男の子のような姿をさせられる。
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 学習した教科は修身・読書・作文・習字・算術・体操。1日5~6時間、1週間30~36時間。作文は「絶佳の文」と評価され、算術の成績も良い。安西冬衛「桜の実」(昭和21年11月)「沙界挽歌」中「駿河屋」で、晶子の甥鳳祥孝(4代目)が晶子の「小学校卒業免状」の「書留」を見せてもらったとあり、「国語国文学」(昭和25年1号)で新聞進一が引用、「作文八十二点。読方九十六点。修身百点」で、席次は「二百五十八人」中「八十二席」であったという。
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4月2日
・この日付「自由新聞」、農村の土地喪失の有様を報じる。
□「能州七尾町は、・・・去月中公売となるべき戸数は殆んど二百に及びたりと云ふ。左すれば、七尾町全戸数の凡そ九分の一は公売の処分を受る者なりとぞ。
又た薩州よりの報に、鹿児島近傍にて家屋敷は抵当に入れ、田地は債主に取上られ、進退維に谷まりし貧民共は、遠く去って大隅郡田代郷山の口村に移住し、荒蕪の地を耕して纔(わず)かに此の日を過ごし居るもの、昨年末七十余戸に及びたりと云ふ。」。
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4月4日
・山本五十六、誕生。
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4月8日
・佐久北相木村から内務省に宛て「地租軽減の請願建白書」提出。総代高見沢薫(自由党員)。
 この頃の北相木村の自由党員は他に戸長井出為吉(25)のみ。井出為吉、4月21日付け辞表提出。
* 
□「・・・農民ノ窮乏何ニ由テ此ニ至ル乎、蓋シ一ニシテ足ラザルナリト雖モ、其大ナル者ヲ拳グレバ即チ曰ク協議費、曰ク土木費、曰ク公儲費、曰ク学校費、曰ク何、曰ク何ト、農民ノ応ニ負担スベキ出費日ニ月ニ増加シ、之ニ租税ヲ加フレバ終ニ得ル処以テ失フ処ヲ償ツテ足ラズ。入ル所モツテ出ス所ヲ充ス能ハザルニ至ル・・・」。
* 
 1年前に戸長となった井出為吉には3年余の東京遊学で得た知識があり、理念と現実の乖離とそれの統一への模索の中で、徐々に行動への意思を醸し始める。彼の遺したものの中には「天誅党主意書」「岡山県南備作三国有志人民ヨリ国会開設ノ儀建言書」などがある。
*
4月13日
・東京、宮部襄宅で新井愧三郎ら、スパイ容疑の照山俊三(上州自由党長坂八郎の部下)殺害計画。16日、村上泰治(17)、新井愧三郎らにスパイ容疑の照山俊三殺害依頼される。
自由党の「麒麟児」村上泰治、秩父事件を引起す変化の胎動を掴みきれずテロに走る。
*
4月15日
・植木枝盛(28)、東海北陸遊説(東海道西下、京都・大阪・福井・金沢・高岡・輪島・富山・糸魚川・直江津・長野・小諸・高崎)。~7月16日。途中まで片岡健吉と同行。目的は党資金募集。この年3月の春季大会までに目標10万円のところ1万円しか集らなかったため。20日、田原で川澄徳次らと、25日、名古屋で村松愛蔵らと会う。
*
4月16日
・村野常右衛門、御岳山の帰途に五日市町に内山末太郎を訪問。石阪昌孝の伝言として、内山末太郎・深沢権八の多摩講学会への尽力を依頼。
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4月17日
・下日野沢村、村上泰治、新井愧三郎らと国事探偵(スパイ容疑)照山俊三殺害。6月30日、村上泰治、東京で逮捕。
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[経緯] 
 上州自由党長坂八郎の部下の闘士照山俊三は、自由党本部に出入し、各地の演説会に大井憲太郎・宮部襄と同行しているが、いつともなく、その言動が疑惑を生み、反対党か権力側スパイと疑われる。
明治17年4月、新井愧三郎は照山暗殺計画をたて、宮部・長坂の承認をとり、たまたま上京して芝の宮部の家を訪れた村上泰治に実行を依頼。
17日、泰治は照山を誘い上野駅から一番列車に乗り、午後4時頃、重木の自宅に到着。前後して新井愧三郎、同村の岩井、緑野郡三波川村の南が来合わせ、4人で酒宴。泰治は、途中で岩井を別室にまねき、宮部・新井からの照山殺害指示を伝え、岩井・南の協力を依頼。岩井は席に帰り、照山に対し、この辺は探偵の目が厳しく、集会条例違反のあなたがいてはまずいと照山を誘い出す。
下日野沢から本庄駅への道を行き郡境を越したところに上州の鬼石への道が分かれ、少し行ったと杉ノ峠で、夜2時頃、岩井が照山を短銃で背後から心臓を撃ち、南は仕込杖で頭部を斬り、口を割き、鼻をそぎ、顔皮を剥ぐ。密偵に対する伝統的処刑法ともいうが、裁判では身元不明にする目的と断定される。2人は死体を片づけ、泰治に手紙を貰い、翌日、東京の宮部の家に行く。
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4月20日
・第7回神奈川県懇親会。上野公園内八百膳で開催。
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4月20日
・矢野龍渓(33)、横浜港出航、ヨーロッパ外遊。19年8月18日アメリカを回って横浜港帰着。
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4月24日
・石阪昌孝、五日市の馬場勘左衛門・深沢権八に書簡。板垣総理の青梅近傍出張を通知。地元党員の懇請を受けての訪問。
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5月
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--・矢野龍渓「演説文章 組立法」。
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-・宮崎夢柳「鮮血の花」、デュマ「ジョセフ・バルサモ」続編(「自由新聞」)。
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-・「自由新聞」幹事星亨、これのみに満足せず、絵入新聞「自由燈」を発刊。小室案外堂「自由艶舌女文章」(「自由燈」)。
 党員以外の一般大衆用の広報紙。政治をわかりやすく説明し、一般庶民や婦人の啓蒙に努める。
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-・シェークスピア、坪内逍遙(25)訳「該撤奇談自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)」(東洋館)。文学士坪内雄蔵の名、序文に逍遥遊人の号を用いる
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-・後楽館に法学館を開設
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5月6日
・植木枝盛の北陸遊説。6日武生に着、~10日。11日鯖江、12~16日福井、17日芦原、18日金津を出発。
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5月7日
・区町村会法改正。区戸長・県令の権限強化戸長の公選を官選に変更
 自由民権運動激化・松方デフレ深刻化の状況下、上意下達(国政委任事務の遂行)徹底を図るため3新法体制を改正、戸長役場管轄区域拡大、戸長官選、区町村会法改正などの諸達を発す。 
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5月7日
・九州改進党・福岡大会。2,500人が会場を埋める盛況(この日付「福岡日日新聞」)。
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5月8日
・米、トルーマン、誕生。
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5月11日
・宮崎夢柳、政治小説「鮮血の花」(「自由燈」連載)。
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5月12日
・チェコ、スメタナ(60)、没。プラハの精神病院。
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5月15日
・群馬事件
 上州自由党湯浅理兵(北甘楽郡内匠村戸長)・小林安兵衛(一ノ宮光明院住職)ら、妙義山陣場ガ原農民大集会。予定の数が集結せず僅か34~35名。引上げ途中、菅原村指導者東間代吉・神宮茂十郎らと合流。
 翌朝未明、菅原村グループの主張により、近くの岡部為作の生産会社(金融類似会社)焼打ち。逮捕者52。主犯小林13年・湯浅12年徒刑判決。
 当時菅原村全戸167戸中111戸が高利貸しに土地を奪われ取立てに追われ山野に潜伏という状況。湯浅らは博徒の親分山田平十郎に加勢を求める。
 上州自由党宮部襄・長坂八郎らはこの事件には関与せず。事件の最中、大井憲太郎は常備員の辞表提出。
地方農民の貧窮化が地方党員の激化をもたらし関東一斉蜂起論さえ現れる中、自由党本部左派グループは、統一指導せず
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□[事件の経緯]
 前年1883(明治16)年末より、茨城県下館地方~群馬県甘楽地方~埼玉県秩父地方で、大井憲太郎、宮部襄、杉田定一らの関東遊説が契機となり、「関東決死隊」と称する急進的自由党員500余の間に、反政府活動計画が生じ始める。また、明治16年12月~17年5月、群馬県下の北甘楽郡、南勢多郡、東群馬郡、緑野郡などの村々で多くの負債農民騒擾。北甘楽・東西群馬郡農民は負債据置・年賦返済と減租を求めて集会。前橋の西南部・南勢多郡約10ヶ村農民数百名の集会など。
* 
 一ノ宮光明院住職小林安兵衛と北甘楽郡内匠村戸長湯浅理兵ら数名の没落小豪農の自由党員が武装決起を計画。
「小坂村、妙義町、松井田町等ノ土民ヲ煽動シ、地租軽減請願ヲ名トシ妙義山中ノ岳大黒天堂ニ数百名ヲ召集シ、現政府ヲ攻撃シ演説ヲ為シ或ハ政府顚覆ノ密議ヲ為シ或ハ日夜砲術ノ練習ヲ為ス等、撃挙ノ画策ニ腐心セリ」(富岡警察署史料)。
 また、この年1月の太政官布告「賭博犯処分規則」による「博徒大刈込」を怒る博徒の親分山田平十郎(城之助)に加勢を求め、山田の動員力を借りて碓氷郡の困窮農民を結集させようと考える。幹部の三浦桃之助や湯浅らは山田平十部から「猟銃四百挺、刀剣二百本ばかり」整ったとの連絡をうけ、碓氷郡の山田の居村を訪ねたり、連日部落集会に参加し決起を促す演説を行う。15日、小林・湯浅ら指導部は打も合せ通り集合地妙義山麓陣場ガ原に赴くと、期待の碓氷勢500余は延期を求めて集合せず、南甘楽郡や武州秩父方面にオルグに行っている三浦からの連絡もなく、連合勢力結集に失敗した為、「僅力近傍ノ人数三拾四五名妙義山下ニ集」まっただけとなる(湯浅理兵答弁書。「凡ソ百名程」との証言もある。群馬事件「予審終結決定原本」)。
* 
 小林らは已む無く20日まで延期を決定し、引き揚げる途中、菅原村の指導者東間代吉や神宮茂十郎らが集合しているとの連絡があり、決起した近村人民30余が集まる菅原村に赴く。菅原村では全村167戸中111戸の農民が土地を高利貸に奪われ、尚取立てに追われ、山野に潜伏し長く家に戻らないという惨状。彼らは到底20日まで待てず、まず近くの岡部為作の生産会社(金融類似会社)を襲撃し金穀を取り戻そうと決起。東間代吉を先頭に、近村人民を駆り出し、100余が焼打ちを行い大桁山に引き揚げる。
* 
 この焼打ちの主導権は、自由党員から負債民に移っている点で、群馬事件は困民党蜂起の先駆けと云われる。小林安兵衛ら指導部の自由党員が、政府転覆の革命行動を主張するのに対し、負債民は生活要求を先行させる。
*
5月15日
・武相困民党の騒擾過程の第1段階
(明治16年10月頃~17年6月頃)のピーク。
露木卯三郎殺害事件(一色騒動)。相州南部負債農民(淘綾郡山下村児島直二郎ら10名)、相州一色村高利貸露木卯三郎殺害。捕縛。大磯駅。周辺一帯は恐怖状態に陥る。
* 
 武相困民党騒擾の策源地大住郡は、神奈川県下で小作地率63%(県平均43%)という小作地帯で、貧農が多く、その貧困故に質屋金融が栄える。明治15年以来の大不況(米価は14年の石11.17円から15年には9.26円に、17年には5.40円に下落。公租公課は逆に増加)の痛手は、この地域の貧農を襲う。破滅を逃れようとする農民と、不況を利用して益々土地・貨幣を集積しょうとする地主=商人資本(高利貸)との間に死闘が展開。
* 
露木の収奪方法(明治17年9月に書かれたと推定される「須長文書」中の一文より)。
 農民Aが10円の借用を申し入れると、証書面は金10円となるが、利子手数料2割が引き落とされ実際の受取りは8円となる(2分切、切金貸)。期限は大体4ヶ月で、1月に借りると4月20日には督促され、すぐ返済しても元利10円66銭6厘(利子66銭6厘)を払わねばならない。
1日でも遅れれば証書書換を納得させられ、証書面は12円79銭2厘(2分切・月しばり)となる。
書換せず支払遅滞すれば訴訟され、召喚状をうけ使丁賃を加算され、1日金1円につき5厘ないし8厘の日歩を加えて請求される。
召喚に応じなければ法規によって裁判所から罰金を言渡され、更に出頭納金しないときは連借入に同様手段で請求する。
* 
 露木卯三郎の負債圏は4郷100ヶ村にわたり、明治17年現在の債権額残高(5月事件により5割近く棒引した残)だけで5万円という(「東京横浜毎日新聞」明治17年12月7日)。
* 
伊豆の借金党の評判が広がり、小田原付近の峠や山林に不穏な負債民たちの姿が出没。
 3月16日夜遅く、土屋村字七国峠(露木の居村一色村を足元に見下ろす180m程の丘)に数百の貧民(大住郡井ノロ村外数ヶ村、足柄上郡赤田村外数ヶ村の人民)が集合し露木への態度を協議。小田原署内藤功警部は巡査2名を連れて3里の夜道を急ぐ。「集合人数凡そ百名頗る囂々(ごうごう)たり」と記す。
 29日夜、吉際村外7ヶ村の人民数十人が戸田村の金貸小塩八郎右衛門に対し不穏の形勢。内藤警部は大住郡大神村に行き、指導者大神村石井八重八ら3名に説諭をくわえて解散させる。
 4月7日、高座郡吉岡村でも100名程の人民が集合して露木の負債対策を協議、国分警察分署長に解散させられ(露木の負債圏が高座郡にも及ぶ。この吉岡村付近の人民はその後数10ヶ村連合して吉岡組なる小型困民党を結成)。
 露木卯三郎は大磯駅の旅人宿川崎伊三郎方で従者露木幸助と共に殺害される。首謀者は淘綾郡山下村小島直二郎ら10名ですぐに捕縛。
「此等の負債事件は紛糾久しきに渉るを以て、殺害の事直に遠近に伝聞し、村民の動揺一方ならず」。
一色村で暴徒が押し寄せ放火あるペしとの流言に、家財道具を担ぎ右往左往する者、「実に其の騒擾言ふべからず。警部巡査百方尽力其の驚者を安んじ其逃者を止め、暴言者を捕縛し、連累者を審査し、全く沈静村民安堵に至りたるは同十九日」である。
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5月18日
・この日付と20日付け「朝日新聞」の清国の状況に関する論評。
「清廷に人なく、清人に気力なく、この仏国の凌辱に遭ひながら恬として之を甘受するの極、一に此に至るやの嘆声を発せしむる」。清国がしばしば外国の屈辱を被り、土地を奪われ、償金を取られ、「清国の為甚だ悲まざるを得ざる所」とする。
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5月18日
・秩父の自由党。井上伝蔵(31)・新井吉太郎・田村竹蔵・田村喜蔵・竹内吉五郎・新井寅五郎・柳原類吉ら11名、入党発表。20日、新井国蔵ら2名、入党発表。
 自由党が貧農層の入党「認知」するほどの情勢変化(自由党自壊の始まり)。また、村上泰治が照山殺害後、地下に潜行中でも、高岸ら3月入党組が活発に活動を展開していたと考えられる。
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5月21日
・秩父自由党幹事村上泰治(18)、照山峻三殺害事件の重要被疑者として自宅で警官に襲撃されるが逃亡。
妻ハンが、逮捕に来た警官隊の前に立ちはだかり、庖丁を振りまわして抵抗、その間に泰治(18、16年4月6日入党)は新井蒔蔵(22、17年3月23日入党)と家の上端から裏山へ逃げ、途中から別行動をとって東京へ潜入。蒔蔵は、知人の多い群馬県多胡郡日野村へ逃れる。
泰治の逃亡幇助で逮捕された加藤善蔵(43)は、間もなく釈放、秩父蜂起には不参加。19歳の息子は参加して重禁錮刑となる。
「・・・日ノ沢泰治と云う者、杉の峠で高崎士族を殺した組にて先日巡査二十人斗(バカ)り召捕りに行く、其の女房庖丁を持て騒ぎ、巡査に面を伐られ、其の間に亭主は迯(ニゲ)去りたりと云う、此の者は自由党の頭組なり・・・」(木公堂日記」6月2日)。
「・・・下日野沢重木に村上泰治(旧自由党員)と云う者ありしが、本年一月比(ゴロ)何か嫌疑の廉ありて捕縛の為め警官廿四、五名が同人宅へ出張されしを、早くも其と察し同家に居合した新井牧蔵(旧自由党員、正しくは蒔蔵)と共に逃亡して黒沢善吉(旧自由党員、正しくは加藤善蔵)一名縛に就きしが、其の後村上は東京にて縛せられたり・・・」(「絵入朝野新聞」11月21日付「埼玉暴動余聞」)。
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5月25日
・長浜~大垣間の鉄道が開通。
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5月27日
・大住郡矢名村(秦野市)弘法山に44ヶ村300名余、集合、無利息35年賦の要求をかかげて周辺の金貸会社へ強談。1週間以上にわたり弘法山を根拠地にした運動続く。
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下旬・愛甲郡・大住郡農民数百人、集結。共伸社など高利貸業者から利下げなど譲歩勝取る。大規模な大衆行動がおこり、地域社会の動揺が大きくなるなか、金貸側は困民党の要求に配慮を示して3年賦程度の妥協を提示。6月11日、馬入村(平塚市外)江陽銀行社長杉山某宅に脅迫状。警察・戸長が債主・負債主を呼び示談。利子低減、支払延期が認められるが、負債主95名で金額は5,500円(1人当たり58円の零細借入れ=生計補助的借入れ)。
 第1段階でのこの地域の農民騒擾は分散的
債主の支配権に比べ、負債者側農民側は村・郡を越えた組織にならず。後の武相困民党にも 大住郡農民は結集せず。
* 
 愛甲郡申依知村・下依知村、大住郡笠久保村付近の農民数100が連判状を作って結束し、善波峠や弘法山に乗合。
大住郡の人民は、近くの尾尻村(現、南秦野)共伸社社長梅原修平宅に、「願の筋聞届呉れ候はずば、何程堅固防禦をなすと雖ども吃度焼討候間、其段承諾せよ」「つつがなき命はきのふ共伸社 あすは露木の友となる身ぞ」と貼紙して脅す。
露木事件の恐怖から立直る余裕のない債主層はこれによって譲歩を余儀なくされる。梅原にもテロを加えるとの風評が立ち、小田原警察署は指導者数名を逮捕。共伸社など付近の高利貸業者は、次々に利子引下げ、年賦払いの要求に応じていく。
* 

エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」完成。マルクス遺稿中の米民族学者ルイス・H・モーガン「古代社会」の摘要を利用して執筆。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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to be continued

2008年12月2日火曜日

晩秋の私の通勤路


















写真は、私の通勤路。一番下以外は、本日(2008/12/02)の朝7時40分頃。一番下は、11/30の午後3時半頃。いずれも、最寄駅の少し手前、自宅から10分位のところ。
*
 やること一杯あるのに、江口渙「わが文学半生記」を読んでいます。まだ「正」の方。学生時代にも、「正続」とも読みましたが、少し前のエントリに広津和郎「年月のあしおと」のことを書いたもんで、この江口さんの本を思い出して読み直してます。前にも書きましたが、高見順「昭和文学盛衰史」を入れて、この3冊は好きですね。
 江口さんの「正」を読み直してみて思うんだけど、対象をみる気持の優しさが心地よい気がします。昔は、アナキスト時代の「続」のほうがハチャメチャで面白かったのですが、今は、漱石、芥川、菊地寛、高村光太郎、有島武郎について語る語り口やまなざしの優しさが非常に心地よいです。
 今回は、「続」に続いて、「作家同盟」時代の回顧録まで続けて読んじゃおうかと思ってます(これは未だ読んだことがない)。「続」のあと、松下竜一「久さん伝」(和田久太郎の鎮魂の伝記)などにも手が出そうで、暗い趣味(年表作り)がおろそかになるかもしれません。
 「正」には、菊地寛と佐野文夫の同性愛関係の詳述あり。
 芥川が小説ファンということで通い続ける上野の清凌亭の可憐な女中さんが、後の佐多稲子さんとのエピソードもあり。
selamat malam(マレー語でgood nightです)

2008年12月1日月曜日

秋の横浜に関する4コマ









秋の横浜(2008/11/22時点)の写真、古新聞にならないうちに。
 上から、
 ①港の見える丘公園(港が見えない)
 ②山下公園入口
 ③中華街
 ④近代街路樹発祥地(・・・マジ!?。うん、慶応3年です。)
   他に、「クリーニング発祥地」なんかもありました。もとの外国人居留地に。
 see you next time

2008年11月30日日曜日

昭和12(1937)年12月12日 南京(4) 「もう助かる道はない」 南京防衛軍崩壊 バネー号、レディ・バード号事件 長江の大惨劇


写真は横浜みなとみらい。
撮影2008/11/28。
この日、会社の同期会があったので出かけた。
ワインをしこたま戴きました。翌日、えらい水っぽいワイン飲まされた・・・とかなんとか、家人に話して、そこまでしゃべってから、ひょっとしてあれがヌーボー・・・?、などと思い当った次第。今となっては、確認のしようがないが。
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翌日(つまり昨日)、家族で飲み会。
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今週から忘年会ウィークに突入。
*
*
ヘボン、岸田吟香、明治学院、東亜同文学院、因縁ばなし
 先回エントリで山下公園近くのヘボン邸跡のことを書いた。昨日、松本克平「日本新劇史」をぱらぱら見ていていて、偶然、ヘボンと岸田吟香の話を見つけた。この話、どこかで?、と考えたら、丸山昇「上海物語 国際都市上海と日中文化人」(講談社学術文庫)にも同じ話が出ていた。幸い、この本が手元近くにあったので確認できた。そうしたら、少し前のエントリ「英一番館」のところで触れたジャーディン・マセソン商会の上海進出の話もあった。
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1667 上海物語 国際都市上海と日中文化人 (学術文庫)

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 少しながくなりますがご紹介。
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 岸田吟香というのは岸田劉生の父。「吟香は本名銀次郎と言い、美作国久米郡の酒醸家に生れ漢学を修めた。元治元年四月眼病にかかり、横浜に来ていたヘボン式ローマ字の創始者であり医者であり伝道者であったヘボン博士の治療を受けて快癒した。その間へボンを助けて我が国で最初の和英対訳辞典である『和英語林集成』の編纂に着手した。そして辞書の印刷校正のためへボン博士と共に二回上海に渡った。 慶応三年四月『和英語林集成』は刊行された。この辞書の見出しの日本語はすべてへボソ式ローマ字になっておりへボンの独創的なものであった。
 また吟香には外にウエブスター辞典に則った実用英語のための『和訳英語連珠』もあるという。ヘボンは吟香のこの労苦に報いるために「目薬精銘水」の処方箋を伝授したと伝えられている。吟香はまた元治元年六月、日本で最初の邦字新聞「海外新聞」を発行する。さらに慶応四年(明治元年)四月--明治三年三月まで「横浜新報もしほ草」を発行する。その後石油採掘・製氷などの事業に失敗して明治六年「日報社」(後の毎日新聞)に入社、・・・。東日記者を退いてからは楽善堂の経営と対支事業に没頭し多くの著述と翻訳をし、また東亜同文会を設立する。一方、支那の科挙の試験のために携帯に便利な支那諸子百家の書物の縮刷版を仕上げて、年平均十五、六万冊を売捌いた。上海を中心に北京、天津、漢江、重慶、福州、漢城に支店を設けた。楽善堂はいわゆる支那浪人の寄り処であった。大陸進出を夢見た支那浪人たちはここを足場にして日清戦争には大いに活躍したのであった。明治三十八年六月七日、銀座二丁目の本邸において七十三歳で死去した(昭和三十年十二月号、昭和女子大学光葉会発行「学苑」所載の牛丸綾子筆「岸田吟香」による)。」(松本克平 前掲書)。
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 上記文中にあるように、吟香は東亜同文会を設立し、東亜同文学院創設にも関わっています。一方、ヘボンは明治学院の最初の総理となります。
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 「ジャーディン・マセソン商会(Jardine, Matheson & Co.Ltd.) は、一七八二年、広州に設立された小さな貿易会社で、一八三二年の改組後、ウィリァム・ジャーディン、ジェイムス・マセソンの名をとって以来、この名を用いた。当初はおもにアヘン・茶の貿易で利益を上げ、アへン戦争前、林則徐が広州で没収したアへン二万箱中七〇〇〇箱がこの商会の所有だったという。一八四三年上海開港直後上海支店を設け、その後、中国各地に進出、また各業種にその手を拡げ、・・・一大コンツェルンを形成した」(丸山昇 前掲書)。
 こんな会社ですから、日本の開国に際しても一番乗りで進出する訳ですよね。
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■昭和12(1937)年12月南京(4) 「もう助かる道はない」(ゴヤ「戦争の惨禍」15)
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12月12日南京
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・第13師団山田支隊(山田梅二少将)、鎮江出発。
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□「(12日) 総出にて物資徴発なり、然るに午後一・〇〇頃突然歩兵第65連隊と山砲兵第三大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣しあり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず 併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり」(「山田栴二日記」)。
*
・この日、朝~昼、南京城四方を完全に包囲し包囲殲滅戦の陣容を完成。
午後~夜間、「南京城一番乗り」を競い、膨大な死者を出しながら壮絶な突撃戦を敢行。
*
・夜明け、かつてない激烈な日本軍の攻撃開始。
日本軍機は、中国軍陣地を爆撃、南京城壁を包囲するかたちで陣地を据える日本軍の砲列は、城壁・城内に向けて猛烈な砲火を浴びせる。
*
・早朝、唐生智南京防衛軍司令長官、幕僚を集め撤退命令作成。翌13日の日の出前に各部隊一斉に日本軍の包囲を突破するという内容。
 唐は城内北東部玄武湖を望む高台にある百子亭の官邸に少数の幕僚を集め撤退命令作成を相談。唐は病弱の体への懸念から司令長官部を自分の官邸におき、参謀長と副司令長官2人を執務させ、副参謀長以下、司令長官部の幕僚・職員の殆どは挹江門近くの中山北路にある鉄道部地下室に移転させ、電話で作戦指導。しかし、司令部が2~3km離れ2ヶ所に分散していた事は、迅速な戦況判断や機敏な作戦指導を不可能にする。
*
・第6師団(熊本)・第114師団(宇都宮)が、南京城南の中華門外の重要拠点雨花台陣地を猛攻、正午迄に同陣地を占領。
第6師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、城内にも砲弾を撃ちこむ。南京中心街に砲弾が落ち、各所に火の手があがる。
第2師団(善通寺)が雨花台北端に進出し、中華門~東の雨花門の城壁を集中攻撃。
*
・この3日間、第16師団(京都、中島師団長)佐々木支隊(佐々木到一)が紫金山北山麓陣地を、同師団主力が南山麓陣地を攻撃。
南京城の東の紫金山の西南山麓は、太平門~中山門間の城壁に繋がっており、同山麓の陣地は、南京城内を懐に抱く最重要な防衛拠点で、南京防衛軍の最精鋭の教導総隊(桂永清)が守備。
この日、第16師団が、紫金山第2峰陣地を失陥させ、重砲により中山門とその南の城壁を集中攻撃、中山門の城壁が数m決壊。
*
第16師団佐々木支隊、大平山陣地を奪取し、12日、紫金山北麓の隘路口を突破、城壁に迫る。
* 
・第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)は、長江南岸に沿って南京城の東(長江下流)にある烏龍山砲台を猛攻。
*
・雨花台を占領した第6師団、長江南岸に沿って南京城の西(長江上流)の上新河鎮~江東門、下関の広大な湿地帯で戦闘、城内突入目指し中華門~水西門に攻撃を集中。
*
・国崎支隊(国崎登少将)は、長江北岸を津浦(天津~浦ロ)鉄道のターミナル駅浦口の占領目指し進撃、午後、江浦県城を占領、渡河して撤退しようとする中国軍の激減作戦を準備。
*
・支那方面艦隊は川と空から包囲殲滅を目指し、遡江部隊が烏龍山砲台下流に進撃。
第1空襲部隊第12航空隊・第13航空隊は、中国軍が汽船で南京を脱出中との報をえて、中国部隊の退路遮断・殲滅のため長江のジャンク・汽船の爆撃にむかい、アメリカ砲艦「バナイ号」とアメリカのタンカーを、中国兵を護送中と「誤認」して撃沈。
*
バネー号事件とレディ・バード事件
殆ど時を同じくして、陸軍が蕪湖で英艦「レディ・バード」号を砲撃。14日、米英に陳謝。
 海軍は、責任者第2聨合航空隊司令官三竝貞三少将を更迭。
陸軍は、責任者野戦重砲兵第13連隊長橋本欣五郎大佐を処分せず。
*
・午前11時、唐生智南京防衛軍司令長官、南京難民区国際委員会ラーベ委員長に日本軍との3日間の停戦協定斡旋依頼、不首尾。
 ラーベが日本と同盟国ドイツ人でナチス党員であることを見こんでのこと。福昌ホテル管理人シュベルリングが、中支那方面軍司令官松井石根大将に休戦条件を伝える軍使の役を申しでる。ラーベらは日本大使館宛の電報を準備し、唐生智司令長官の正式文書を待つが、唐の書簡が到来せず、ラーべらの停戦協定交渉計画は潰れる。
*
・正午過ぎ、第6師団歩47連隊、中華門西方城壁突破。最初の突入。
夕方~夜、各隊は数ヶ所の破壊口から城壁に上り占領。
 その他、中山門南側城壁にも破壊ロができ、日本軍は今にも城壁を占領する戦況にあり、雨花門でも城内に退却しようとした中国軍を追撃して一部の部隊が城壁内に侵入。
*
・午後2時、第10軍第114師団(宇都宮)歩127旅団歩102連隊、雨花台に日章旗あげる。
退却した中国兵は中華門から城内へ逃げ込み、門を閉じ、逃げ遅れた敗残兵は、門外に散在する部落に立て籠もり抵抗。歩66連隊第1大隊が突入し3時間近い白兵戦の後、中国兵は白旗を掲げて降伏。1354人。
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・午後4時30分頃、南京防衛軍の崩壊始る
*
城内を南の中華門~北の挹江門を縦断する中山北路にいたアメリカ人記者A・T・スティールの記述。
 「数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、・前線に向かってのろのろと戻りはじめた。だが盛り返したのは束の間であった。三〇分以内に中国軍の士気は瓦解し、全軍が潰走することになった。もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(挹江門)に向かって群をなして街路を通り抜けていった。
・・・午後四時半頃、崩壊がやってきた。はじめは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時(午後五時頃)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手櫓弾や軍服が散乱した。」(「シカゴ・デイリー・ニュ-ズ」1938年2月3日)。
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・午後5時、唐生智南京防衛軍司令長官、高級指導官会議招集、撤退命令下達。混乱のため不徹底。唐は官邸に火をつけ脱出に移る。
 唐は正午に鉄道部地下室の司令長官部に高級指揮官会議を招集、撤退命令を正式決定し、午後3時に南京防衛軍全軍に撤退命令と作戦下命する予定でいたが、指揮系統の動揺・混乱により開催不可能になり、日没時の午後5時にようやく開会。それも中山北路に面する鉄道部付近は、敗走・退却兵による混乱のため、百子亭の唐官邸に変更。防衛軍崩壊が始っている状況での会議招集は不徹底なものとなり、城壁外の複廓陣地で戦闘中の部隊を直接指揮する軍長・師長は会議出席は不可能。それでも防衛軍最後の高級幕僚・指揮官会議を開いた唐は、撤退命令書を出席の軍長・師長に下達し、午後5時に解散。既に城内外の指揮・連絡系統が切断し、混乱状況となり、防衛軍部隊の崩壊・潰走始っており、全部隊に撤退命令を伝えられないものが多い。
 
 実行不可能な撤退作戦。
 作戦は、司令長官部直属部隊・第36師・憲兵部隊が午後6時より下関から渡江、その他全部隊は夜11時に各方面で一斉に包囲を正面突破して撤退、最終的に安徽省南端に集結するというもので、前夜であれば実行可能性があったが、既に防衛軍前線が崩壊始め、殆どの部隊が下関へ潰走を始めている段階では、敵軍正面突破は不可能。更に唐は、撤退計画強行の為に、撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第36師に他部隊の挹江門からの撤退を阻止するように命じる。
司令長官部が先に撤退する作戦は、南京防衛軍にパニック的崩壊をもたらす。鉄道部地下室の司令長官部が5時以前に撤退行動を開始している為、午後3時以降、各部隊からの無線連絡も通じず、前線部隊に動揺・混乱を与え、潰走に拍車をかける事になる。
*
・午後6時、第10軍司令官柳川平助、軍主力投入指示。国崎支隊に浦口占領、残敵殲滅指令。
 翌日の掃蕩行動について「丁集作命甲号外」発令。
「一、敵ハ南京城内ニ於テ頑強ニ抵抗ヲ続ケツツアリ 
二、集団ハ南京城内ノ敵ヲ殲滅セントス 
三、丁集作命甲第五十六号第九項ノ制限ヲ解ク 
四、各兵団ハ城内ニ対シ、砲撃ハ固ヨリ有ラユル手段ヲ尽シ敢ヲ激減スべシ 之ガ為要スレバ城内ヲ焼却シ特ニ敗敵ノ欺瞞行為ニ乗ゼラレザルヲ要ス 
五、集団ノ掃蕩区域ハ共和門-公園路-中正街-中正路-漢中路ノ線(含ム)以南トシ、以北ハ上海派遣軍ノ担任トス」。
 「二」の「丁集作命・・・」は、各師団の城内進入兵力を各1個連隊だけとし、主力は城外待機の指示であるが、その制限を解いて、軍主力を投入し、火攻めにしても残兵掃蕩せよ、というもの。城外西方を下関に向けて北上した歩45連隊を除き、ほぼ全軍が城内侵入。上海派遣軍との地境も無視され、歩23連隊一部は、下関近くまで北上。
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・午後8時、唐司令官一行は漸く下関の海軍艦艇専用埠頭に到着し、司令部幹部が揃うのを待って、午後9時近く、江寧要塞司令部が確保した最後の小汽船で浦口埠頭へ渡り撤退(浦口は、翌日には国崎支隊が占領)。
敗残兵・市民の大群集は、板片などで渡河する状況。
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・9時過ぎ、市街戦を準備していた陸軍装甲兵団戦車隊が挹江門に撤退してくる。同隊には撤退命令が伝えられず、司令長官部が殻なのを知って撤退。これに対し第36師の城門守備兵が唐の命令通り阻止行動に出た為、戦車隊はこれを強行突破。戦車に続いて、それまで通過阻止されていた兵士・避難民の大群がどっと挹江門から脱出。これ以前は、第36師が実力で阻止しており、門内には同士討ちによる死体の山ができていた(アメリカ大使館にいたスティール記者が目撃)。
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・10時過ぎ、長江沿岸は敗走兵・避難民の大群で、下関埠頭を中心に南(上流)は三汊河から北(下流)は煤炭港辺りまで、数kmにわたり埋めつくされる。
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長江の大惨劇
 下関で渡江できない事がわかった退却部隊約1万が、長江南岸を上流方向に進んだところを、上新河鎮で第6師団の騎兵連隊に遭遇して戦闘、約千名が殺され追い返される。城壁西側の湿地帯を通って南方へ退却しようとした潰走兵は、第6師団歩兵第45連隊に退路を遮断される。
長江を背に、南は南京城内を日本軍が追撃中、西の退路は遮断、東からは第16師団が進撃中で、追いつめられた群衆には、長江を渡る以外には日本軍の殺戮から逃れる道がなく、自殺的な渡江が始る。何千、何万という群衆が、長江の流れに身を乗り入れ、水に呑まれ、あるいは寒さで体力を使い果たし力尽きて沈んでいく。
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・上海派遣軍司令部、湯水鎮に移る。「十二月十二日 朝九・三〇出発湯水鎮軍司令部……に移る。」(「飯島守日記」)。
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・この日夜~13日朝、城内各部隊は数方向に突出を試みる。
脱出路を求めて右往左往する敗残兵と混戦
。多くが捕虜となる。
 水西門の北西に集結した第74軍(第51、58師)は長江沿いに南西進するが、日の出前、退路遮断のため北上してきた第6師団歩45連隊と衝突、激闘の後殆ど全滅、一部が雙閘鎮付近から渡江脱出。
第66軍(第159、160師)・第83軍(第154、156師)主力は、太平門から東方へ向かい、第16、9師団の間隙を縫って湯水鎮、句容方面へ脱出、途中で日本軍に痛撃され四散、師団参謀長2人と憲兵副司令が戦死、指定の寧国に辿り着いたのは僅かという。
第2軍団(第41、48師)は、烏龍山に迫る第13師団と、帰港中の日本海軍艦艇の眼前をすり抜けて13日朝7時までに舟で対岸に脱出。
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 この種の紛戦で最大のものは、13日午前0時~夜明け、仙鶴門付近で起きた集成騎兵隊(第3、9、101各騎兵連隊より集成)及び攻城重砲兵第2大隊と中国軍退却集団5千~1万の衝突。この中国軍は、12日夕方から太平門を経て東方へ脱出途中の第159師などで、突破退却が優先し、仲間の死体を乗り越えて東進したという。
「騎兵第三連隊史」の加藤正吉証言によると、夜明けに数えた中国兵の死体は3千余という(日本軍損害200人)。乱戦に生き残った中国兵は、翌日~翌々日、逃げ場を求めながら残敵掃蕩に出動した日本軍と衝突し、大部分が捕虜になったと推定される。
 その他、12日夜、湯水鎮の上海派遣軍司令部が敗残兵集団に襲撃され、衛兵が乱戦のすえ撃退。また、13日午前8時頃、紫金山麓の興街村の第16師団佐々木支隊司令部も敗残兵集団に襲撃される。
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満州重工業開発(持株会社)設立。鮎川義介の日本産業(日産)本社移転・社名変更。「満業」。
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 東京税務監督部長池田勇人が、満鉄附属地内なら日本の行政権が適用され、附属地内で日本法人として登記できると鮎川に教える。この日の設立後、満鉄附属地は清州国領土に編入される。
 予算膨張に対応する為、政府は馬場鍈一が蔵相時代に創出した増税を採択、蔵相が結城豊太郎から賀屋興宣となっても、税金を払った子会社から配当を受けた親会社はその配当に課税されるという「二重課税」は残る。この為、コンツェルンの方式をとる鮎川「日産」は17%の課税になっている。それが「満業」を出発させる事で、課税率は6%に低減、また6分配当が政府に保証され、配当制限なしの特典も付される。日産株は高騰。鮎川は、この状態を作ったのは、石原莞爾・青木一男・岸信介・星野直樹・賀屋興宣・柴山兼四郎・片倉衷・鈴木栄治・浅原健三・高橋柳太という。
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to be coninued

2008年11月27日木曜日

昭和12(1937)年12月10日 南京(3) 「理由があろうとなかろうと」 南京総攻撃


横浜、山下公園外の大通り。
撮影2008/11/22。
この道をもう少し進むと通りの向い(右側)にヘボン邸跡の碑があります。
 ヘボンは1815年3月生まれ、ニューヨークなどで医者を開業していたが、プロテスタント長老教会の日本伝道に応募、1859(安政6)年10月来日。大村益次郎らに英語を教えるが、1861(文久元)年春、神奈川で診療所を開き、翌年11月、神奈川からこの記念碑のある横浜居留地39番地に移り、本格的に施療事業を行います。
 山下公園側(海側)から見れば、先日掲載した「英一番館」が居留地の右端、ヘボン邸は左端にあたります。
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 1863年10月、ヘボン夫人クララは日本最初の男女共学の英学塾を開き、高橋是清、林董、星亨らがここで学びます。
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 あたりはギンナンの匂いがそこはかともなく漂ってました。しかし、目をこらして見てもたまに1個2個が見付かる程で、既に収穫後のようでした。通行人が無暗に採ると「なんとか権」の侵害になるんでしょうね。もっとも、これを拾っても持ち歩きは出来ませんけどね。
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 昔、転勤地の中でギンナンが近くで採れる所に居たことがあり、よく家族で採りに出かけましたが、毎年採っている方のショバ荒しをしていたのではないかと、今更ながら思い当たるところです。
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■昭和12(1937)年12月南京(3) 「理由があろうとなかろうと」(ゴヤ「戦争の惨禍」2)
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12月10日南京
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・外国人ジャーナリスト、外交官、南京退去。11日夕方、残るジャーナリスト数人も米砲艦「バネー号」で脱出。最後に残る外国人ジャーナリストは、ニューヨーク・タイムズ記者ティルマン・ダーディン、シカゴ・デイリー・ニューズのスチール、ロイター通信スミス、AP通信マクダニエル、バラマウソト映画ニュースのメンケンの5人のみ。15日、日本軍の要請で退去。
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・【南京総攻撃
 中支那方面軍参謀副長武藤章大佐・参謀中山寧人少佐、通訳官を伴い中山門~句容街道で午後1時まで投降勧告「回答」を待つが、中国側軍使は来ず。午後1時、松井司令官、蘇州の方面軍司令部において南京総攻撃命令。
「上海派遣軍ならびに第一〇軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし」(中方作命第34号)。
 夕方、第9師団歩36連隊(脇坂部隊)の1大隊、光華門突入し、全滅にちかい損害を出しながら城壁瓦礫に日章旗を掲げる。
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[攻囲状況]
 南京城は北と西側に揚子江を控えこの方向からは攻めにくいが、東と南から押せば、城内守備隊は袋のネズミとなり、唯一の脱出口は北郊の下関波止場から舟で対岸の浦口に渡るか、上流へ逃れるルートしかない。江上の艦船は制空権を握る日本海軍航空隊の爆撃に晒され、河用砲艦主体の海軍第11戦隊(近藤英次郎少将)が、中国側が敷設した機雷原を掃海しつつ南京に接近。
 脱出ルートを塞ぐため、第13師団主力を鎮江占領後、揚子江北岸に転進させ、六合に向わせ、第5師団国崎支隊を南京南西部の太平付近から揚子江を渡河し浦口へ向かわせる。第10軍第18師団は、10日、上流の蕪湖を占領。蟻のはい出る隙もない包囲陣である。
 主攻正面の東と南側からは上海派遣軍(北から第13師団山田支隊、第16師団、第9師団)の主力と第10軍(第114師団、第6師団)主力が密接に連係し南京城へ迫る。
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・第16師団、正門中山門を扼す紫金山攻撃、第114師団、南側中華門で激戦
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・第10軍第18師団、揚子江上流蕪湖占領
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・第10軍主力(第6、114師団基幹)、雨花台を猛攻。この中で、第6師団歩45連隊、下関へ北上するよう命じられる。
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・この日付け第13師団山田支隊(歩兵第104旅団)山田栴二少将の日記(「山田栴二日記」)。
 
□「(10日) 連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少なからず 師団命令を昼頃丁度来合はせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る 鎮江は遣唐使節阿倍仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台などは足許にも寄れず 」。
□「(11日) 沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す 山と江とに挟まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ」。
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・午後7時、投降勧告拒否の南京防衛軍司令長官唐生智、陣地死守を命令。
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□「本軍は複廓陣地において南京固守最後の戦闘に突入した。各部隊は陣地と存亡を共にする決心で、死守に尽力せよ」と下命、指令なく陣地を放棄・撤退した者は厳罰に処すと伝える。更に各軍が確保する全ての船舶は運輸司令部が接収・管理するように命じ、勝手な拘留を禁じる。宋希濂の第36師に命じ長江沿岸を厳重に警備させ、司令長官部の許可がなければ、いかなる部隊の渡江も厳禁。憲兵・警察に対し、「隊伍を離脱した兵隊が制止をきかないで渡江しようとした場合は、武力で阻止せよ」と命じる。
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・山西省臨時政府準備委員会発足、初代委員長に曽紀綱が就任。同時に太原市政公署(市長 白文恵)、陽曲県公署(県知事 伯璋)を設置、閻政権時の各県村長の身分を追認
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・「皇軍、最後の投降勧告、きょう正午迄に回答要求、諄々南京敵将を諭す」
「敵の回答遂に来らず、皇軍・断乎攻略の火蓋、南京落城の運命迫る」(「東京朝日」)。
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・モスクワ、国崎定洞、銃殺。ソ連秘密警察(NKVD)に「日本のスパイ」の嫌疑を受け、37年8月4日逮捕。在モスクワ日本共産党代表山本懸蔵の密告によるもの。
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12月11日
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・第10軍主力(第6、114師団基幹)、雨花台の堅陣を抜く。翌日、南京城南側城壁に迫る。
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・第5師団国崎支隊(国崎登少将)、慈湖鎮付近で長江渡河、鳥江鎮を占領し、北岸を南京方面へ東進。12日午後1時、江浦県城侵攻。
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 国崎支隊2千余は、鳥江鎮から南京戦区に突入、国民党軍と銃火を交え浦口を目指す。江浦県城占領までに約30余の農民・難民が殺害され、県城~浦ロの沿道農民・漁民44が死傷。大小の発動艇よりなる水上部隊約100が西江口(小港)を襲撃、農民・行商人・子供30余を殺害、商船100余隻を砲撃・破壊・焼却。民船捜索中に発見された婦女10数名が輪姦される(「江浦県誌」、「江浦抗日蜂火」)。
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・正午、蒋介石からの撤退命令が南京防衛軍司令官唐生智に届く。
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 第3戦区(上海・南京戦区)副司令長官顧祝同(司令長官は蒋介石)が電話で唐に伝え、同夜中の撤退命令実行を要請。唐は、南京死守を厳命してあり、急な撤退命令は混乱を招くだけで、遅くとも明日夜には撤退、渡江できるようにすると回答。夜には正式に蒋からの撤退命令が電報で届く。
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・蘇州の司令部の松井方面軍司令官は、11日の戦況を概観して、「軍は右より第十六、第九、第百十四、第六師団を以て今朝より南京城の攻撃を開始す。城兵の抵抗相当強靭にして、我砲兵の進出未だ及はざるため、此攻撃に、二、三日を要する見込み」と記す。そこへ第9師団歩兵第36連隊が光華門占領との報告が届く。
南京陥落の報を待ち兼ねていたマスコミは、「脇坂連隊、南京に一番乗り」と報じ、内地では早くも祝賀行列が始まる騒ぎになる

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工兵隊が爆破した破孔から1個大隊が城門の一角に取りくが、守備兵に逆包囲され一歩も動けず、伊藤大隊長は戦死、師団主力から孤立した十数名の生き残り兵が13日まで死守し続けるというのが実相。
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・上海派遣軍の慰安所設置準備。
 この日の上海派遣軍参謀長飯沼守の日記「慰安施設の件方面軍より書類来り実施を取計ふ」。
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・日本、誤報に基づき、「南京攻略祝賀騒ぎ」。12日にも。
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新聞報道。
 「皇軍勇躍南京へ入城/敵首都城頭に歴史的日章旗/各城門を確保・残敵掃蕩/猛烈なる市街戦を展開」(「東京日日」)、
「南京城頭燦たり日章旗/感激の十日、首都を占領/光華門、脇坂部隊誉れの一番乗り/全線一斉突入市街戦展開/城壁も崩れよこの万歳」(「読売」)、
「祝・敵首都南京陥落/歴史に刻む輝く大捷/南京城門に日章旗/城内の残敵頑強抵抗/脇坂部隊決死の突入」(「東京朝日」)。
夜、東京では祝賀提灯行列、国会議事堂にイルミネーション。
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続く12日の新聞報道。
 「きょう帝都は歓喜のどよめき/そらッ! 南京陥落だ/宮城前に奉祝の群れ/讃えよ世界最大の誇り」(「東京日日」)、「南京陥落す」の題で「わが皇軍南京に入城す国つ歴史に金色の文字もて書くべし此の日」(佐佐木信網)や「南京陥落に寄す」(吉川英治)(「東京朝日)。
宮城前には、朝から東京外国語学校生徒700が校長に引率されて日の丸を手に祝賀に訪れ、東京都下の学生の奉祝パレードが行なわれ、一般群衆に混じって、校長・教師の先導で東京府内各学校生徒が終日宮城を訪れ、戦勝祝賀の行進。
東京府庁舎には「祝南京陥落」のアドバルーン、銀座などの大通り商店街に日の丸、旭日旗、「南京陥落」と書いた幟が飾られる。
夕方、日比谷公会堂で読売新聞社主催の南京陥落祝勝大講演会、支那事変ニュース映画放映、「決死」従軍記者の報告、肉弾少将桜井忠温陸軍少将の大講演会開催。
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 「北浜街にはあっちにもこっちにも南京成金ができあが」り(「大阪朝日」10日付)、11日大阪市で25万人、14日東京市で40万人の提灯行列。全国が南京陥落祝賀に酔いしれる。
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12日の突撃戦に続く。 
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  to be continued

2008年11月26日水曜日

明治17(1884)年3月 秩父(3)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 初期困民党の中核形成 困民党と自由党(或は自由民権運動)


 「英一番館」跡(横浜市中区山下町1)
 撮影は2008/11/22。
 1859(安政6)年、開港と同時に日本に進出した英帝国主義の尖兵「ジャーディン・マセソン商会」が居留地1番地館で貿易を始めたことから、「ジャーディン・マセソン商会」は「英一番館」と呼ばれる。「ジャーディン・マセソン商会」は香港に本拠を置き、イギリスの対中自由貿易史を代表する最大の貿易業者で、当初はアヘン密貿易で富を蓄積。詳細はWikipediaをご参照下さい。
*
 ジャーディン・マセソン商会横浜支店長だった実業家吉田健三とい人は、吉田茂の義父(養父)だそうです。
吉田茂の実父は自由民権土佐派の竹内綱という人で、茂は5男。竹内綱が後藤象二郎と高島炭鉱経営にあたった際に、実業家で自由党員の吉田健三から支援して貰った間柄ということです。
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 本エントリも、一部で自由民権とかぶるところがありますが、いろんなパターンがありますね。
①秩父で蜂起を指導する信州の菊池貫平、上州の小柏常次郎、秩父の田代栄助、井上伝蔵。
②武相困民党と債主との仲裁を試みる多摩自由党の指導者石坂昌孝。自らも没落しつつある豪農であるが、貧農の立場には立ちきれない。
③農民・民衆に依拠しない過激派。名古屋事件などを起こす人たち。
④金融業者、ブルジョアジー。
⑤昔の栄光だけの政治ゴロ。
⑥思想普及家。兆民~幸徳もここに入れるか。
*
 おっと、忘れないうちに。あの「未曾有(みぞうゆう)」な失言を「頻繁(はんざつ)」に繰り返すマンガ好きの太郎ちゃんもこの系譜に繋がってんだ。
*
英一番館
*英一番館
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明治17(1884)年秩父(3)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
*
3月
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・栃木県令三島通庸、第6回通常県会に陸羽街道の新開・改修工事の土木費提案(10万5,090円)、議決。
三島は沿道人民に寄付金を強制、各戸に数十日間の無賃労役を課し、欠勤の場合代人料1日25銭を上納させる(デフレ政策のもと壮丁男子の労賃は8~9銭)。8月乙女峠事件惹起。
* 
 計画は、栃木県を貫通し、東京~白河~東北に通じる陸羽街道(1等道路)を、氏家宿以北は旧道に沿って新開、以南は修繕するというもの。費用総額17万7千円で、地方税・国庫補助6万円・沿道町村協議費3万7千円を予定。この当時の栃木県の地方税総額は40万円前後。
 三島の土木政策は、政府の中央集権的な国益優先の殖産興業政策の先兵としての役割を担い、併せて県会に勢力をもつ民権派への打撃を狙うもの。県会は、前年土木費を2度廃案に追い込む経験をもつにも拘らず、足なみは乱れる。
*
・神奈川県大住・足柄2郡に借金返済をめぐる農民騒擾。
* 
・釜石鉱山、藤田伝三郎に払下げ
* 
・宮崎夢柳「憂世の涕涙」。
*
・子規(18)、旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。
* 
・ドイツ、カール・ペータース、「ドイツ植民会社」設立。ドイツの東アフリカ進出の先兵となる。
* 
・黒田清輝(17)、パリ着。法律を学ぶため。
 画家ラファエル・コンテと出会い絵に夢中になり、周囲からも画家になるよう勧められる。86年5月21日、父に手紙。絵画への転向宣言。5年後、「読書」でサロン入選。帰国後4年、代表作「湖畔」発表。
*
3月5日
・秩父自由党、大田村集会。14日、「自由党演舌」。春季自由党総会関連の動き。
* 
 「三月五日 ・・・自由党願込ニ集ル説有。此近辺ノ連中大田工集会ノ咄。」。
 「三月十四日 ・・・自由党演舌所々ニ有ル咄。三十四ヶ条ナリト云。」。(「木公堂日記」)。
* 
3月7日
・(露暦2/23)チャイコフスキー、ウラディミール勲章第4等授与。
*
3月10日
・芝の浜離宮延遼館で行われた天覧相撲、横綱梅ケ谷と三枚目大達の勝負が30数分の大一番。
*
3月13日
春季自由党総会。浅草井生村楼。議長片岡健吉。左派主導権(武装路線ぶくみの方向転換)。
 正式代議員61名中、富松正安・磯山清兵衛ら10名の茨城自由党、伊賀我何人・深井卓爾ら9名の群馬自由党、村上泰治・高岸善吉(秩父)ら8名埼玉自由党、佐藤貞幹・石坂昌孝ら6名の神奈川自由党など大井憲太郎傘下関東派27名の代表団が会場を席巻。
 常議員制を廃止、地方党員との連絡にあたる地方常備員設置(大井は関東5県の常備員)。
村上泰治・高岸善吉はこの興奮を持って秩父に戻る。
* 
□決議事項。
「第一、諮問若干名を置き、総理の参与たらしめ、其撰任は総理の指名に委すること。
第二、総理に特権を与え、党事を専断決行せしむること。
第三、文武館(館名未定)を設け、活潑有為の士を養成すること。
第四、各地へ巡回員を派遣すること。
第五、会議の総代を撰挙する区画及其人月を定むること。
第六、本年四月の例会を開かざること。第七、総理を改撰すること」。
但し、「・・・凡そ此数項は未だ十分に其意を尽さざる所ありとするも、亦露骨明言し難き事なきにしも非ざれば、諸君が静思熟考して自得する所あらんことを望む」と注意喚起されている。
* 
 党の統一を図る為、選挙による常議員制を廃止、総理指名による諮問及び常備員を設ける。これにより、制度上は板垣の中央集権体制が固まり、党内統一がもたらされる筈である。
大会をリードした星は、このとき大井・片岡と共に諮問となる。
板垣の党指導者としての不適格性は、星もよく認識しているが、党統一の為には中央集権体制確立しかなく、それには維新元勲のカリスマ性が必要。
* 
・この頃、落合寅市・高岸善吉・坂本宗作・井上善作・新井悌次郎・猪野太郎吉・影山久太郎の7人、石間部落加藤織平の土蔵の中で血盟盟約(落合寅市の回想録「綸旨大赦義挙寅市経歴」)。
* 
□血盟内容。
「一、我々は日本国にあり圧制官吏を断て直正の人を立つるに務むること。
二、我々は前条の目的を達するため恩愛の親子兄弟妻を断ちて生命財産を捨てること。
三、我々は相談の上、ことを決すること。
四、我々の密事を漏す者は殺害すること。
五、右の契約は我々の精心にして天に誓い生死を以て守ること。」(警部鎌田冲太が密偵情報より書きおいたメモ)。
*
3月15日
・地租条例改正布告。税率固定・法定地価の決定(地租滅率と地価修正を行わない)。
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3月15日
・長谷川伸、誕生。横浜日ノ出町。
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3月16日
相州南西部の最初の本格的な大衆行動(松方デフレ下の負債農民騒擾)。
 相州大住郡土屋村字七国峠(平塚市)に数百の貧民集結。高利貸露木卯三郎への態度協議。
以後、大住郡一色村・露木卯三郎や戸田村・小塩八郎右衛門などの金貸を目標にした集会が散見。高座郡の吉岡村近辺(綾瀬市)や愛甲郡の愛知村(厚木市)あたりにも広がる。29日、相州大住郡大神村人民数十人集結。戸田村金貸小塩八郎右衛門に対して不穏形勢、解散。4月7日、相州高座郡吉岡村百名の人民集結。露木対策協議。
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3月17日
・制度取調局、宮中に設置。長官に伊藤博文が任命(内閣制度の改革)。憲法および皇室典範の起草に着手。
メンバー:
参事院議官井上毅、同議官補伊東巳代治、太政官から金子堅太郎、太政官書記官牧野伸顕(大久保利通次男)ら。
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3月21日
・植木枝盛(28)、神奈川県下に遊説。25日帰京。この月、「一局議院論」出版。
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3月24日
・仏、1884年労働組合法、制定。これにより同業市民(労働者)の団体結成を禁止していたル・シャプリエ法が廃止。労働組合は法律的に公認され、規約・役員名簿の登録を唯一の条件として自由に結成できるようになる。1890年代には労働者の組織化が急速に進行。
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3月23日
・群馬県北甘楽郡一ノ宮(現、富岡市)で自由党大演説会。
会主は群馬の有力党員清水永三郎ら7名。弁士宮部襄・杉田定一・照山峻三。「天に代って逆賊を誅す」の旗。
* 
 「当日は天気晴朗数旒の旗を門前に挙げ、聴衆堂内に満溢し堂外に著佇立する者も亦頗る多く、凡そ千余名あり。斯の如き寒村僻地には未曾有の盛会」(杉田定一「上毛紀行」)で、旗には「天に代って逆賊を談す」(『自由新聞』明治17年4月1日)。
 こうした人民の高揚は前年1883(明治16)年から群馬県下の北甘楽郡、南勢多郡、東群馬郡、緑野郡などの村々での数百人規模の負債農民騒擾事件の裾野があるから。
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3月23日
・秩父、高岸善吉(紺屋の善吉)・坂本宗作(鍛冶屋の宗作)・落合寅市(半ネッコの寅市)・新井紋蔵・斉藤準次・小柏常次郎ら7名、自由党入党発表(この日に「自由新聞」掲載)。これらは全て秩父事件参加者。
他に、5月18日、井上伝蔵・新井吉太郎・田村竹蔵・田村喜蔵・竹内吉五郎・新井寅五郎・柳原類吉ら11名、入党発表。20日、新井国蔵ら2名、入党発表。
 自由党が貧農層の入党「認知」するほどの情勢変化(自由党自壊の始まり)
* 
○小柏常次郎:
 信州生。慶応3年、群馬県田胡郡上日野村(現、藤岡市)の茂太郎の養子。明治10年(42歳)ダイ(29)と結婚。屋根板割。2月から帳面を持回り自由党加盟者30~40名獲得(11月蜂起ではこれらを秩父へ動員)。この時点では、群馬蜂起を軸にして秩父への戦線拡大を目論む(常次郎は秩父へのオルグ)。しかし、群馬の激発は失敗。常次郎は群馬の経験を秩父に仕える扇動者として、9月初、秩父入り。
「・・・初メハ各県庁ニ押出スノ計画デアリシガ、(群馬事件による壊滅のため)北甘楽ノ方ガ纏マラザル故、日野村ノモノハ秩父ニ応ズル・・・訳ニ有之侯」(常次郎供述)。
屋根板割渡世の常次郎は、低き身分の故に、群馬では三下党員に甘んじていたであろうし、士族党員・豪農党員の体臭を留める群馬自由党の体質に異和を感じていたであろうし、この秩父にすんなりと自らをなじませる土壌を見出したのではないか。
* 
高岸善吉・坂本宗作・落合寅市・小柏常次郎・井上伝蔵らの自由党員が、初期困民党の中核を形勢
 秩父郡下日野沢村字重木の村上泰治(浦和の獄中にあり)邸に逗留していたある日(供述書では9月11日だが、もっと早い時期)、阿熊村の姓知らざる次郎吉なる男が来て、常次郎に対し、下日野沢の駕籠屋に是非合わせたい人が待っているからご足労願いたいと申し出があり、出向いたところ、そこに善吉・宗作・寅市がいて、頭分の善吉が口を開く。
善吉、「・・・困民ヲ救フ事ニ付是非御力ヲ乞ヒタシ」。
常次郎、「・・・山ナドニ集合致シテハ規則ニ背キ甚ダ宜シカラザルニツキ、モシ強テ大勢ヲ助ケタイトノ精心ナラバ、妻子家財ハ勿論身命ヲ捨テ為スノ所存ニアラザレパ到底成リガタイコト故・・・。モシ其ノ精神デナイナラバ、ムシロ茲に於テ旗ヲ巻キ、姓名ヲ留メラレタルモノハ、事ヲ為サナイ内ハ御処分ガ軽イ故、縛ニ就ク方可ナラン」。
善吉、「・・・自分共コノ辺ノ博徒デアツタガ、コノ上ハ善人トナツテ下民ノ苦ヲ何分カ助ケタイト決心致シ居ル儀ニツキ、家族財産ハ勿論、身命ヲ捨ツルハ更ニ苦シクナイ故、是非御カヲ乞フ」。
宗作らは、自らの戒名を既に背中に織り込んでいる。その意気に感じ、常次郎はこのトリオに溶け込む。
* 
■秩父蜂起と自由党(自由民権運動)との関連をどう見るか?
①秩父蜂起は、一方の自由党が困民を組織して戦った自由民権運動の最後にして最高の形態と見る。
②秩父蜂起は、農民一揆の最後にして最高の形態と見る。
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■①の立場で見た場合の二つの自由党
(ⅰ)村上泰治ら旦那衆の志士的な自由党。
上州自由党宮部襄の指示による密偵殺害により逮捕され潰える。
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(ⅱ)自由民権の政治理念を中・貧農の立場で読み換え、社会的平等の要求を掲げた「自由困民党」(困民らの自由党)。
明治16(1883)年12月、秩父困民党の落合寅市・高岸善吉・坂本宗作らトリオは負債農民を代表して秩父郡役所に請願行動を起し、請願運動を通じて大衆を捉えてゆく。一方、彼らは自由党に加盟し、大井憲太郎ら左派指導者の影響をうけ、徐々に困民党の中核を形成。
また、風布村大野福次郎・大野苗吉、西之入村新井周三郎らも自由党の加わり、借金問題で苦しむ村民たちに呼びかけ入党者を獲得してゆく。
この時の自由党は、初めから生活問題解決の為の党であり、減租や国会開設よりも、借金年賦返済・高利貸打ち毀しを主張することで糾合されてゆく。
上州上日野村新井貞吉の証言では、坂本宗作と北甘楽郡国峰村恩田卯一が村を訪れ、自由党のやり方がうまくゆけば「高利貸ヤ銀行ヲ潰シ世ヲ平ラニシ人民ヲ助ケル事」になると説得したという。
以降、明治17年夏、困民党が本格的に成立。郷党に人望厚い秩父の仁侠の人田代栄助を首領に引き出し、群馬県多胡郡上下日野村で数十名の自由党員を組織した小柏常次郎ら上州自由党、信州北相木村の菊池貫平・井出為吉らの参加をみて、中央(自由党左派大井)の蜂起制しの忠告をはねのけ、11月1日蜂起に至る。
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3月26日
・カナダ北西部サスカチワン地方、ルイ・リエル率いるメティスの反乱。
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3月27日
・3帝同盟(オーストリア・ドイツ・ロシア)、3年間延長。
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3月31日・~4月1日
上遠野農民騒擾。
 「借金返済は五十年賦に
 磐城平の借金党 先頃の紙上に、豆州に借金党と云うが起りし由報道せしが、今また奥州磐城平よりの報に、同地方の貧民党は先月下旬頃より何か不穏の模様ありしが、去る卅一日、菊田郡上遠野町金融社へ貧民数十人入り来たり、目下の不景気にかねて借用金の返済出切ざるより、このたび貧民党なるもの集合し、これまで借り受けたる金円を、五十ヶ年賦に返済することに取り極めたれば、当社にも御承知下されたしと申し入れに付き、詰合の社員はあまりの事に互いに顔を見合わせ居りたるが、ややありてこの儀は即答なし難き旨答えしに、貧民党は不満の有様にて引き取りしが、本年一日の朝、貧民党およそ五、六百人、竹法螺を吹き立て、竹槍等を携えて金融社へ押し寄せしも、時刻の早かりしより宿直の外社員はまだ出社せざりしかば、貧民党は総勢の内より五、六十人を分かちて、直ちに同社支配人赤坂忠兵衛氏の宅へ押し寄せ、ぜひとも今日中に年賦のことを取り極めくれと強談に及び、否といわば市中を焼き払わんなどと威嚇付け、立ち去らざりしが、この有様に市中の老少婦女子は他所へ逃げ避くるなど、その騒擾云わん方なかりしが、この事早くも平警察署へ聞こえければ、警部、巡査二十余名出張し説論を加えられしより、貧民党はようやく引き取りたるが、翌二日、その教唆者と覚しき者十二名を拘引され、目下取調べ中なりと云えり。」(4月8日「朝野新聞」)。
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・ニーチェ、「ツァラトゥストラ」第3部を刊行。
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to be continued

2008年11月25日火曜日

旅するモーツアルト(1) 1756年神童誕生


 モーツアルトは生涯の3割は旅をしていたという話をどこかで見て、自分なりに計算してみたことがあります。かなり前のこととて、そのファイルを探すのに苦労しましたが、96/09/16の作成日付をもつものが見つかりました。
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 殆ど、海老澤敏「モーツアルトの生涯」(白水社Uブックス、全3冊)に依拠してます。
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 モーツアルトは、1756/01/27誕生、1791/12/05没ですので、左にもあるように縦35、横12のマトリックスも最初と最後のセルが夫々誕生月、没月となります。私の表は、便宜上、月は3旬にしてます。
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 私の計算の結果では、
全生涯=(35×12)-2=418ヶ月
旅の期間=106ヶ月(25%)
 となりました。
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 最初の旅は、6歳(詳しくは、旅の途中で6歳お誕生日を迎える)ですが、分母を計算起点をオギャーの瞬間ではなくて、常識的な旅行敢行可能年齢とすれば(例えば6歳とか)、人生の3割旅行説はゆうに成立します。
*
 このブログも、叛乱、蜂起、鎮圧、虐殺などなど、話題が変に偏ってしまいましたので、ここらで新シリーズ、題して「旅するモーツアルト」をスタートさせたいと考えます。例によって、黙翁年表のゴッタ煮は踏襲します。但し、途中でフランス大革命期に突入しまが、黙翁年表中でもフランス大革命は最大級の分厚さですので、これをどう回避するか・・・、これから走りながら考えます。前にも申し上げましたが、フランス大革命期はミシュレ「フランス革命史」(中公文庫、上下)により現在最終のお化粧直し中・・・ですが、いつリリース出来るのか、目途立たずの状況です。
*
 旅の発想から、信長、秀吉、家康のうち、誰が一番旅をしているかも、計算してみようかと思ったことがありますが、これは多分、秀吉がダントツ一番と推定し、止めました。
 信長は、移動距離は尾張(のち安土)~京都と短く、若死にで、かつ遠方の征服戦争は部将に任せています。武田氏征服も信忠がやりました。
 家康は、三河のあと江戸に移され、ここから何度も京都或いは大阪に移動してますし、何よりも長生きですので、旅の期間は信長よりは上でしょう。じいさんになってからも、鷹狩りお称して、結構移動してます。ただ、熟柿をとる如く権力を獲得した分、征服戦争の為の移動は秀吉よりも少ない。
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 しかし、秀吉は、統一戦で北は伊達領から南は島津領まで、自ら移動し、朝鮮侵略の際は、名護屋~京都間を、確か(?)母親が亡くなった時と、秀頼ができたときに往復してます。それに、若い頃、信長の部将であった時代は、それこそ東奔西走の活躍ですから、この人が一番でしょう。しかし、秀吉にとって、移動は秀吉(太閤サマ)ブランドのマーケティング手段であり、進んで移動(旅)し、ルートもなるべく異なるものを選択し、できるだけ多くの人に対し自らの存在を露出し、移動を権力誇示に活用したそうです。
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■旅するモーツアルト(1) 1756年神童誕生
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1月27日
・ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト、ザルツブルクに誕生。
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 午後8時、ザルツブルクのゲトライデ・ガッセ9番地の商人ハーゲナウアーの持家の4階で、父ヨハン・ゲオルク・レオポルト、母マリア・アンナ(35)の第7子(4男)。姉ナンネルルとヴォルフガング以外の子は夭折。翌28日午前10時半、ザルツブルク大聖堂で洗礼。
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□父レーオボルト・モーツァルト:
 1719年11月14日アウクスブルクに工匠の家系に誕生。36年12月7日ザルツブルク大学入学。翌37年9月学業成績不良と無断欠席が重なり除籍。この年、司教座聖堂参事会員ヨハン・バプティスト・トゥルン=ヴァルサッシーナ・ウント・タクシス伯爵の近侍となる。40年、最初のトリオ・ソナタ集「六曲の三声の教会および室内ソナタ」作曲。43年ザルツブルク大司教宮廷楽団第4ヴァイオリン奏者に登用。44年から少年合唱隊員にヴァイオリンを教える。1747年11月21日、ザルツブルク大聖堂でザンクト・ギルゲン出身の女性マリーア・アンナ・ベルトゥルと結婚、同年ハーゲナウアー家の4階を借りる。この年(56年)、「ヴァイオリン教程」(大司教シュラッテンバッハへの献辞)出版。
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□姉マリーア・アンナ・ヴァルブルガ・イブナーツィア・モーツァルト:
 51年7月30日生まれ。マリアンネ、幼い頃はナンネルル呼ばれる。7~8歳の頃、父レーオボルトが娘のレッスン用に編集した練習帳(「ナンネルルの楽譜帳」)は、弟ヴォルフガングが音楽の基礎的知識を学んだ最初のテキストでもある。
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○ザルツブルク大司教領:
 大司教が支配するカトリックの宗教的小国家。司教座聖堂、大聖堂、フランチスコ派教会、聖ペテロ教会、大学教会、三位一体教会、ノンベルク女子修道院の付属教会など、無数の教会が、狭い町の中にぎっしり建てられている。
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□この年、日本では宝暦6年
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宝暦の大飢饉。前年から3ヶ年間、東北地方一帯を凶作が襲う。
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□「宝暦五乙亥歳、冷気強くして大凶作なり。矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」。
 別の記録、「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」とあり。
*
4月14日・郡上藩一揆(宝暦4~8年)では、郡上郡150ヶ村代表による郡上郡村々傘連判状が作られる。
*
1月22日 越前の天領で本保騒動。かつてない大規模一揆。この日と26日、本保陣屋支配下6万石のうち丹生郡・今立郡の百姓の打毀し。本項は「福井県史」に依拠してます。
*
□22日昼~夜、南条郡牧谷村や丹生郡の百姓約400(800ともいう)が集結、丹生郡本保村・池上村・二丁掛村・片屋村の頭百姓宅4軒を打毀す。翌日には本保陣屋へ迫る噂あり、代官所は福井藩府中本多氏や鯖江藩に応援を求める(何も起こらず)。
 再び代官所から福井藩へ応援要請あり、26日未明、目付熊谷小兵衛以下400が福井を出発。昼過ぎ、福井藩領今立郡北小山村に到着、同村組頭宅を本陣とする。間もなく、味真野河原に百姓集結、続いて上真柄村庄屋七郎右衛門宅打毀しの報告があり駆けつける。事前通告があったらしく、家人は逃げ出し、家具・戸障子・縁板類まで片付けてあるが、一揆勢約300は「斧・まさかり・懸矢、其外鎌・なた・鳶口」等をもって壁・柱も残らず打毀す。
*
 その後、味真野河原に移り、福井藩兵・一揆側対陣の中、一揆側800から今立郡宮谷村・西尾村・萱谷村の百姓3人が代表して決起理由を述べる。
 近年定免で重い負担の所へ昨年は百年来の不作、せめて3分免引きを願うべく頭百姓に江戸への訴願を依頼、苦しい中から高10石に銀1匁5分ずつ与内銀を負担し送り出した。
 ところが、彼等は逆に1千石の「増免」を引き受け、廻米舟の上乗庄屋に任じられるという「良き御褒美」を貰って帰ってきた。外にも囲籾払下げの件で不満がある。裏切られた思いが募り、この上は餓死覚悟と一同決意して制裁に立ち上がったという。
 目付熊谷小兵衛は、彼等の話に理解を示しつつ、これ以上騒動を続ければ実力行動に出ざるをえず処罰も重くなる、この場は鎮まり解散するようにと説得。本保代官所へもよく伝えるというと、百姓側は納得し引き上げ、その後流言あるものの騒動は起きず、2月5日頃には鎮静化。
*
□一揆参加者は、「宮谷・大手・西尾・水間之谷・萱谷・服部谷」など今立郡26ヶ村の者ばかりで丹生郡は1人もいないという。各村の庄屋・長百姓などが多数加わる(村役人層が先頭に立つ)。一揆側代表3人の内の萱谷村善右衛門は、自分は高10石を所持し、参加者は「惣小百姓共」であると述べ、打毀しをうけた上真柄村庄屋も、誰1人名前を知らず、全員「名も無小百姓共」と思うと熊谷に答える。
 これらからみて、この一揆は庄屋層を中心に「小百姓」である高持百姓が参加した一揆であったといえる(「国事叢記」)。
 一方、打毀しをうけたのは、本保村丈左衛門・池上村又兵衛・片屋村与次兵衛・二丁掛村加兵衛・上真柄村七郎右衛門の計5軒(坪谷村の村役人を加え6軒という記録もあり、宮谷村新兵衛・坂下村十兵衛の名も上がっていたともいう)。江戸へ赴いたのは池上村・上真柄村・二丁掛村・坪谷村の百姓4人であるが、それ以外の家も打毀しの対象とされ、いずれも一揆側から頭百姓と呼ばれている。本保村丈左衛門と二丁掛村加兵衛は、寛延3年(1750)には郡中惣代であり、大庄屋的な位置にあり、一般の百姓とは離れた関係にある。
*
□一揆準備は早くから組織的・計画的に行われる。
 正月16日、糺野で集会、18日には同所で傘連判状を作成。事が事前に露見した場合は府中の米問屋に向かう、という答えも決め、怪しまれないように鯖江町で草履を購入し、大寺へ食事を頼む手配も調える。打毀し前に代表8人が事前通告し、近村へも同じく触れておくこと、火の用心、家財道具を持ち出し焼いた場合は窃盗嫌疑がかからないよう一部を残すこと、農具以外には剃刀のような武器も持たないこと、等々も確認。後の処罪を恐れ「北在は南在辺へ、東之者は西へ」と入り交り、青・黄・赤・白・黒や各氏神等を合言葉とすることも定める。
*
□彼等惣百姓の願いは年貢軽減であるが、逆にこれが増加され、与内銀は無駄に終わる。
 江戸へ赴いた頭百姓4人が納庄屋を命じられたことへの反感も大きい(納庄屋には給銀が与えられ、希望者が多く、百姓間の関心は高い)。囲籾払下げも困窮した百姓たちにとっては切実な願い。
 中でも問題にしたのは、頭百姓の裏切り行為で、彼等は「自然の道」を外しており、制裁するのは道理であると主張。代表の萱谷村善右衛門は、頭百姓共が「天然自然之道理」を踏み外したから、逆に小百姓共がその「道理」に従って出現したのであり、「地うぢの涌候道理」と述べる。頭百姓が人々の期待を裏切り、しかも「金子貯家財心之侭」であるのに対し、われわれは「餓死之躰」であるという、同じ身分の百姓として許せないという論理で、制裁行動は正当性があると主張。鎮圧に出動した熊谷に対して「福井様御仕置之通ニさへ候得者ケ様之躰ニ相成候儀者無之」と福井藩政を持ち上げ、本保陣屋の下代が4人と結託していると指摘するが、役人には特別不満はないと領主支配に敵対するものではないことを断っている。幕藩制支配の枠の中での百姓間の問題としている。
*
□領主側の百姓一揆鎮圧態勢。 本保陣屋からの要請をうけ、26日には福井藩兵の他に同藩本多氏が100余、鯖江藩も221を派遣。大野藩も124の出兵体制を調える。本多氏・鯖江藩は本保陣屋警固を担当、一揆側と接触したのは上真柄村に向かった福井藩兵。
 福井藩は寛延2年、幕府指示で播磨姫路藩領の一揆に御側物頭太田三郎兵衛を派遣し、一揆の原因や鎮圧・事後の吟味、鉄砲の使用の事などまで確認しており、これらの経験を踏まえて動員体制を組み出動。
*
□福井藩は出動前、百姓捕縛しない方針を決定し、騒動鎮静のみ努力して引き上げる。
 しかし、本保陣屋では急遽江戸から到着した代官内藤十右衛門忠尚の指揮のもと、参加者とその頭取の確認及び吟味に努め、8月、幕府が寛保元年(1741)に定めた規定をそのまま適用した厳しい内容で大々的な処罰を強行。獄門1、死罪2、遠島2、追放17、所払4、計15村26人が重罪。これに加え獄門・死罪・遠島者には田畑家財闕所、追放者には江戸10里四方追放の場合は越前での田畑家屋敷闕所か財産没収とされる。所払の者は田畑だけ取上げとなる。これ以外に、庄屋51人に銭5貫文ずつ、長百姓58人に計70貫文、余田村には別に25貫文を、他に余田村・上石田村で10貫文ずつ2人、上野田村・下野田村・小泉村・下氏家村の長百姓6人に7貫文の過料を課す。過料となった百姓たちは全員村役人を解かれる。関係の村数では丹生郡25ヶ村、今立郡20ヶ村、計45ヶ村となる。
 余田村庄屋の処罪理由を示す「獄門札」には、頭百姓共を疑って禁制の徒党頭取となり、上野田村・下野田村・気比庄村の者と申し合わせ、家財破却を実行させ不届至極、とある。尚、宝暦9年6月「本保騒動百姓仕置書付」には、西尾村・萱谷村・大手村について、百姓共は「急度叱」、水呑百姓共は「御叱」となったと代官手代が記す(水呑百姓まで処分)。8月25日、本保村で獄門・死罪。遠島者は直ちに江戸送りとなる。
*
□騒動の余波。
 2月1日、福井藩領丹生郡山干飯13ヶ村の百姓が、府中の米会所を襲うという噂あり、本多氏家臣団は警戒、福井藩へも応援を求める。大坂商人で府中に店を開いた米問屋の評判が悪く、米価騰貴は彼の仕業と憎まれ、前年秋にも家に「火札」が2、3度張られる。これは噂に終わる。
 同19日には三国町で尾張屋五郎兵衛・室屋惣右衛門、丸岡藩領梶浦の又兵衛の3軒を潰す風聞が立つ。三国へは福井藩金津奉行が鉄砲を用意し兵を率い到着、混乱するが実際には何も起こらず。*
*
□一揆側の成果はなし。
 翌7年夏は前年に続く大水害が発生し、年貢は全体に軽減されるが、翌8年からは元に戻る。本保陣屋支配にも変化はなく、代官内藤十右衛門は7年10月に交代するが、咎を受けた記録はない。
 しかし、この一揆は越前においてかつてない大規模なもので、越前各地に与えた影響は大きいと推測できる。
*
前年1755年7月8日~、北米でフレンチ・インディアン戦争開始
*
□フランス領ルイジアナ植民地にブラドック将軍のイギリス正規軍が侵入。フランスはインディアンと共同しこれを迎え撃つ。ウィルダネスの戦闘。イギリス軍は大敗。
*
□ブラドック少将率いる2個聯隊約1,500人、フランス要塞フォート・デュケーヌ(現在のペンシルヴァニア州西部)に向かう。幕僚ワシントン、資材調達ベンジャミン・フランクリン担当、馭者としてダニエル・ブーン(21)が参加。ブラドック軍後衛がモノンガヒーラ川浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の攻撃。ブラドック軍には地理に詳しいインディアン8人のみ。フランス軍は士官・兵士73人、民兵150人、友好インディアン37人。大混乱。ブラドックは負傷、のち没。死傷者977人(全軍の2/3)。
*
1756年5月28日~
 フランス、東部のインディアン全部族巻き込んでイギリスと全面的戦争に突入。
*
to be continued

2008年11月23日日曜日

昭和12(1937)年12月7~9日 南京(2) 「来たるべきものへの悲しい予感」 近衛、トラウトマン和平交渉を棚上げ 南京陥落目前と熱狂する日本


日本最初の本格的劇場「ゲーテ座」(Gaiety Theater)跡。
撮影08/11/22。
もともとは、1870(明治3)年12月6日、オランダ人ノールトフーク・ヘフトが横浜居留地68番地(現、谷戸橋北、テレビ神奈川裏辺)に建築。1872年11月パブリックホールと改称され利用されるが、より広い建物が求められ、1885(明治18)年4月18日現在地に350人収容のホールが完成。1908年12月から、ゲーテ座と呼ばれ、音楽会・演劇・講演など各種の催物に利用される。
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 観客は、外国人主体であったが、滝廉太郎、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、和辻哲郎、佐々木信綱、芥川竜之介、大佛次郎らも観劇した記録あり、明治・大正期の文化に大きな影響を与える。松本克平「日本新劇史」によると、上演演目はオペレッタのような娯楽作品が主流であったとのこと。ゲーテ座は日本で初めて「ハムレット」を上演した劇場である、というのをどこかで読んだ記憶があるが、それがどの本であったか思い出せない。多分、川上音次郎・貞奴を扱った本だったような・・・?
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■昭和12(1937)年12月南京(2) 「来たるべきものへの悲しい予感」(ゴヤ「戦争の惨禍」1)
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昭和12(1937)年12月
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(7日の中国での状況は、前回エントリに掲載済み。今回は、同じく7日の日本の状況から)
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12月7日
・日本側の和平条件を討議の基礎として受入れる旨の蒋介石からの回答(12月2日)、トラウトマン大使を通じディルクセン大使より広田外相に伝えられる。
 しかし、南京陥落近く、華北に王克敏(傀儡)政権ができ、近衛は変心(蒋介石を相手にしなくても中国を屈服させる事ができると考える)。
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 中国側は、「領土主権の確保を条件として、日本側条件を和平会談の基礎とすること」に同意し、改めて、現在も日本側条件に変化はないか確かめてくる。
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 南京陥落間近しの興奮にかられた近衛内閣閣僚達は、日本側から要請したにもかかわらず、トラウトマソ和平工作をないがしろにし始める。
 ①広田外相は「犠牲を多くだしたる今日、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい」と、
②近衛首相は「大体敗者としての言辞無礼なり」と述べる。
③杉山陸相が、講和促進を主張する陸軍中央部内不拡大派の働きかけを受け、一旦即時和平交渉促進を表明するが、これを覆し、「このたびはひとまずドイツの斡旋を断りたい」と申しでると、近衛首相・広田外相もすぐに賛同。
 近衛内閣は、日中戦争の停戦・和平実現を目指すトラウトマン和平交渉を棚上げにし、戦局収拾の可能性を絶つ
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 石射猪太郎、「アキレ果てたる大臣どもである・・・もう行きつくところまで行って目が覚めるよりほか致し方なし。日本は本当に国難にぶっからねは救われlない切であろう」(「日記」8日条)。
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 このニュースを報じるマスコミは、南京陥落近しの戦況に力点をおき、「支那内外よりする調停説の俄かに台頭し来たったことは大いに警戒を要するところである」(12月6日「東京朝日新聞」社説「調停説と日本」)とする。
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12月7日
・株式市場・三品市場は「南京陥落相場」「南京割れ相場」による「大相場」を演じる。
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 「大阪朝日」7日の株式欄。
 「南京が落ちればいかに国民政府が長期抗戦を呼号するも政府の威令は行われず、最後の止めを刺す帝国政府の蒋政権取消しも当然起ってくる。従って蒋政権は地方政権に堕してしまうのである・・・。
日本の国威はいよいよ発揚され、大威張りで日本紙幣の流通範囲は拡大され・・・今後蒋政権没落後の躍進日本の対支進出は目醒しいものであるから、戦後好望見越しの人気は年末金融の安心と相まって大衆買いとなって現われ・・・」と、「大相場」の背景を分析。
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12月7日
・「南京今や風前の灯火、皇軍入城刻々迫る 早くも上海に陥落説」(「東京朝日」)。
 「牙城南京陥落目睫に迫る、の快報は帝都六百万市民に非常な感激を与えているが、東京府、市当局では祝大捷を協議した結果、南京陥落の場合、昼は全市民の旗行列、続いて戦勝奉告祈願祭、それから夜は提燈行列を挙行し、百万人の戦勝祝賀大衆行進により、帝都を旗と堤燈の一色に塗りつぶそうと、今から興奮している」(「東京朝日」)。
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12月7日
・内務省、活動写真の興業時間(3時間以内)・フィルムの長さを制限。
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12月7日
・トルコ、シリアとの友好条約(1926年)を破棄。フランスはアンカラに軍隊を派遣。
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12月7日
・ソ連、「プラウダ」、メイエルホリド劇場を批判。政治的断罪宣告。翌年1月8日、劇場閉鎖。
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12月8日
・日本軍、南京城周囲に布陣の鳥龍山~幕府山~雨花台の複廓陣地に迫り、南京城攻囲を完了
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12月8日
・この頃、漸く南京攻撃部隊第一線に補給物資が届き始める。
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12月8日
・第13師団山田支隊歩兵第65連隊第7中隊「大寺隆上等兵の陣中日記」。
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□「(一二月八日)途中八時ごろニヤをつかんで、大谷さんと二人で一人のニヤに担がせる。三十分歩いて五分づつ休ませてきたので、大変本隊から離れてきた。ニヤは力があるし、足は速い、乾パンを食わせられて大喜びでいる。
 (一二月九日) 途中ニヤをつかんで無錫に十時とう着。無錫に来るまでの部落には兵隊が宿営しているらしく、火が火災でもあるかの様に空にかがやいている。火災を起こしているところもあった。三里も手前から見えた。今日は休養だ。午後から城内の徴発に行って道に迷い、五時ごろようよう木村上等兵と二人で帰る。
 (一二月十日) 皆ニヤを雇っているので一個中隊が倍になっている。今日は支那人と兵隊と半々だ。青陽鎮の町はまだ火災が起こっていて、戦跡未だ生々しい。」。
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12月8日
・この日の新聞。
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□「南京宛ら死都、残留市民僅かに数千、武器弾薬も全く欠乏」(「東京日日」)。
「南京今や五里、陥落目前戒厳下、全市忽ち大混乱、敵軍対岸へ移動開始」(「東京日日」夕刊)。
一頁をほぼ埋める大々的記事「南京入城に武士道精華、敵に情けの勧降状」、「敵都南京城は完全なる包囲態勢下に置かれ、その運命は全く掌中に帰した。しかし、南京は敵国ながら首都である。一挙に蹂躙するはいと易いが、わが軍は特に武士道的見地に立って、まずわが国諸部隊の勢揃いをした上、威容を正して城内の敵に一応投降の勧告状を出すことになった」(「東京日日」)。
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□「きょうこそ世界歴史の一頁をかざる首都陥落を予想して、七日朗、帝都の祝勝気分は先ず銀座街頭から爆発した、宮城前へ、靖国神社へ、明治神宮へ、喜びに満ちた小学生や国防婦人会員の列が続き、旗屋さんや提燈屋さんの大量準備も万事OK! 戦勝気分一色の浅草六区興行街の各常設館でも『祝南京陥落』の看板も出来上った」(「東京朝日」)。
「蒋介石ついに都落ち、燃ゆる南京・掠奪横行、敗戦、断末魔の形相」(見出し)、「南京にはわが航空隊が大空襲をなし、市内には諸所に火災を起し、人影殆ど絶え南京の大市街は、廃墟の如く凄惨な光景を呈している。市中には少数の軍隊、憲兵が警戒に当たり、下関方面にも掠奪が行われ、支那軍常套手段の敗退の際における混乱が起こっている模様である」(「東京朝日)。
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12月9日
・第5師団国崎支隊(国崎登少将)、太平占領。
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12月9日
・夕方、中支那方面軍松井司令官名で、唐将軍宛降伏勧告文を投下。回答期限は翌10日正午。
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 「日軍は抵抗者にたいしてはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊にたいしては寛大をもってし、これを犯さず」との勧告文(日本語と中国語)を日本軍機から城内8ヶ所に投下。
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12月9日
・朝香宮上海派遣軍司令官に上海入場に関する方面軍の統制に服する意志なし。「注意事項」の空文化。
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 この日、中支那方面軍塚田攻参謀長が、上海派遣軍参謀部を訪れ、南京入城(政略)を統制する方法たついて、「注意事項」徹底を図りに来るが、「平時的気分濃厚なるため軍司令官殿下のお気に入らず」とある。朝香宮は、方面軍の統制に従い、各師団をこれを遵守させる意志はない(「飯沼守日記」)。
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12月9日
・安全区国際委員会委員会(ラーベ委員長)、3日間休戦を日本軍に承知させ中国軍を撤退させる案をを唐将軍に提案。唐は賛成だが、蒋説得が必要と回答。ラーベは、蒋説得をアチソンに依頼、アチソンから漢口のジョンソン大使に繋がり蒋とコンタクトするが、10日、蒋から拒絶の回答。
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12月9日
・「南京自滅の劫火に包まる、我後続部隊続々集結、勇気凛然、入城を待機」(「東京日日」夕刊)。
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12月10日
南京総攻撃~市内掃蕩へ
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to be continued