世界中で人権が「窒息」 国連事務総長が危機感 https://t.co/UCowl2HwrW 「人権は、人類にとっての酸素だ」「しかし、人権は一つ一つ窒息させられている」「独裁者は、真に力を持った人々の行動を恐れ、反対勢力を弾圧している。家父長制は…基本的権利から女性たちを遠ざけている」
— 本田由紀 (@hahaguma) February 24, 2025
2025年2月25日火曜日
世界中で人権が「窒息」 国連事務総長が危機感(AFPBB);「人権は、人類にとっての酸素だ」「しかし、人権は一つ一つ窒息させられている」 「独裁者は、真に力を持った人々の行動を恐れ、反対勢力を弾圧している。家父長制は…基本的権利から女性たちを遠ざけている」
《兵庫知事疑惑》「ひどい。こんなにギョッとしたのは」兵庫県関係者の衝撃的な証言が…亡くなったX氏を追い込んだ7人の脅迫者(文春オンライン)
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— 宮本徹 (@miyamototooru) February 25, 2025
「明日、ティンカー空軍基地で職員600人が解雇される。ティンカーはオクラホマ州最大の雇用を生み出していたので大規模な失業問題が発生する。オクラホマ州民は自分たちの投票の報いを受ける」
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— 町山智浩 (@TomoMachi) February 25, 2025
大杉栄とその時代年表(417) 〈子規没後の子規山脈②〉 「次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだった。且ついくらでも食へる男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分杯は到底子規の真似は出来ない。 - 三四郎は笑って聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。」(漱石『三四郎』)
〈子規没後の子規山脈②〉
□談話「正岡子規」
「明治四十一年九月十九日は子規の七回忌に当たるので、「ホトトギス」は九月発行の第十一巻第十二号を「子規居士七回忌号」とし、漱石の談話「正岡子規」を掲載した。
これがその後、漱石の子規像の一つになるわけだが、・・・・・。この頃漱石は前年の朝日入社第一作『虞美人草』、第二作『坑夫』 に続いて第三作『三四郎』の連載を九月から開始する予定で、構想を練っている最中であった。そんな忙しい時期だったので漱石はおそらく資料を十分に準備する暇もなく、思いつくまま話したと思うが、なかなか巧みに子規の人間像を捉えている。よく知られている話ばかりだが、二、三紹介しておこう。
彼は僕などより早熟でいやに哲学などを振り廻すものだから僕などは恐れを為してゐた。(略)彼はハルトマンの哲学書か何かを持込み、大分振り廻してゐた。尤も厚い独逸書で、外国にゐる加藤恒忠氏に送って貰ったものでろくに読めもせぬものを頻りにひつくりかへしてゐた。幼稚な正岡が其を振り廻すのに恐れを為してゐた程こちらは愈ミ幼稚なものであった。
何でも大将にならなけりや承知しない男であった。二人で道を歩いてゐても、きつと自分の思ふ通りに僕をひっぼり廻したものだ。尤も僕もぐうたらであって、こちらへ行かうと彼がいふと其通りにして居った為であったらう。
一時正岡が易を立てゝやるといって:これも頼みもしないのに占ってくれた。畳一畳位の長さの巻紙に何か書いて来た。何でも僕は教育家になって何うとかするといふ事が書いてあって、外に女の事も何か書いてあった。これは冷かしであった。一体正岡は無暗に手紙をよこした男で、それに対する分量は、こちらからも遣った。今は残ってゐないが、孰れも愚なものであったに相違ない。」(『子規断章』)
□漱石『三四郎』と子規
漱石は、『三四郎』に子規を登場させる。三四郎が熊本から上京する車中で、同乗の男と男が買った果物を挟んで対話する。男は、唐突に話し出す。
「次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだった。且ついくらでも食へる男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分杯は到底子規の真似は出来ない。 - 三四郎は笑って聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。」
「そこへ漱石が果物の話にかこつけて、いきなり子規を登場させたのである。それは、漱石が「ホトトギス」で子規のことを話したように、朝日の読者にも子規のことを話しておきたかったのにちがいない。あれだけ親しかった友人たったのに留学中で死に目にも会えなかったし、懇願されていたのに「倫敦消息」の続篇を普くという責めも果たさなかった。こうした自責や悔悟の念もあって、ここで唐突とも取られかねないほど不自然な形で、子規を登場させたのであろう。『三四郎』の連載は明治四十一年の九月一日から始まったが、ページ数から勘定すると子規の話が出てくるのは九月五、六日頃で、子規の七回忌の十日程前であった。」(日下徳一『子規断章』)
「九州から出て来た三四郎が最初に親しくなったのは、専門学校を出て選科にはいった佐々木与次郎という同級生であった。・・・・・。
田舎出で純朴な三四郎は毎日学校へ律義に通って講義を聴いていたが、一か月たってもなぜか学校にも東京にも物足りない。そのことを与次郎に打ち明けると、外へ出て電車に乗って東京中をぐるぐる回るのが一番だと教えてくれた。
(略)
このあたりの与次郎は、漱石が「ホトトギス」の「正岡子規」で語った子規そっくりで、初な三四郎は若き日の漱石である。
(略)
さて、与次郎が兄貴ぶって三四郎を連れ回すのは入学直後だけで、やがて与次郎から子規らしい面影は薄れ、ただの軽率な世話好きの男として描かれている。・・・・・
(略)
・・・・・一般の読者にとってこの中にときどき子規の影がちらついているのに気づくことはまず無い。漱石没後『漱石全集』を編集し、漱石研究に専心した小宮豊隆でさえ、そのことにふれるのは『三四郎』が書かれて半世紀近くたった昭和二十八年に、『夏目漱石』を出した時からであった。小宮はその中で《全体として三四郎』の上に、ほのかなる哀愁が漂ってゐるのも、子規に対する追憶と当時の自分自身に対する追憶とが一つになって、漱石にさういぶ気特を用意したものかも知れない。》と初めて子規の存在をはっきりさせた。」(日下徳一『子規断章』)
□漱石「子規の畫」
「「子規の畫」は明治四十四年七月四日の朝日新聞に掲載されたもので、「畫」とは明治三十三年六月中旬、子規が熊本にいる漱石に送ったあづま菊の畫のことだ。子規はこの年の春頃から畫を描くのが面白くなり、漱石の長女華子の初節句に三人官女を贈る時にも、
……此項ハ何もせずに絵をかき居候 それが又非常に面白いのでいよいよ外の者がいやになり候一枚見本さしあげんかとも存候へど大事の秘蔵の畫を割愛して却て笑はれるのも引き合はずと其まゝ秘蔵、ひとりながめて楽居候 (明治三十三年三月三日付)
と畫をかく楽しさを吹聴している。そして六月の中旬には前にもふれたように、あづま菊の畫を一枚漱石に送った。
漱石はたった一枚しか持っていないこの子規の畫を、散佚させてはいけないと思い後に表装させた。畫だけでは淋しいので、それを挟んで上と下に手紙を入れ三つを一纏にして懸物にしだ。上の手紙は明治三十年九月六日、熊本に発つ漱石に送った《秋雨蕭々》で始まる漢詩のような短い手紙。下は《僕ハモーダメニナツテシマッタ》で始まる、例の子規最後の手紙であった。
漱石はこの懸物を時折壁に掛けて眺めた。
……眺めて見ると如何にも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せて僅に三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。……
束菊によって代表された子規の畫は、拙(まず)くて且真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦(すく)んで仕舞ったのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。……
子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。……彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取っては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋しい。出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかつた。 (「子規の蓮」)
これは漱石が子規の畫を貶しているのではない。寸分の狂いもなく巧みに描かれたものより、どこか「拙」のある方が漱石の美学にかなうのである。・・・・・"
(略)
「拙を守る」とは陶淵明の詩「拙を守って園田に帰る」から来ていて、世渡りの下手に甘んじ、利巧に立ち回れない男のことをいう。事実、陶淵明は「帰去来辞」にあるように江西省のある県の長官だった時、上官に媚びることを潔しとせず、職を辞して郷里に帰り酒と菊を愛して悠々自適の生活を送った。漱石は『草枕』(明治三十九年)の中でも、
世間には説を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると吃度木瓜になる。余も木瓜になりたい。
と主人公の画家に言わせている。画家は漱石とみていい。そう言えば、『吾輩は猫である』の苦沙弼先生や『三四郎』の廣田先生も守拙派であるともいえる。
(略)
子規もまた漱石から見れば説を守る男であった。「拙」なるが故に世間の常識とは逆に芭蕉顰蹙より蕪村を高く評価したり、保守派の歌人の顰蹙を買うのを承知の上で「歌よみに与ふる書」を書いて短歌革新を試みたりする。漱石はこうした説に生きる癖に、《妙に気位が高かつたり》《何でも大将にならなけりや承知しない》(談話「正岡子規」)俗なところのある子規が好きであった。
それだけに漱石は畫だけでなく文学においても、《出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮》してもらいたかったが、子規は志半ばで世を去ってしまった。漱石はこの「子親の畫」を見るたび、それが残念でならない。」(日下徳一『子規断章』)
つづく
2025年2月24日月曜日
トランプ大統領の支持率が不支持率を下回る…米世論調査、マスク氏への反発も(読売);「ロイター通信が2月13~18日に行った調査でのトランプ氏の支持率は44%で、不支持率の51%を7ポイント下回った。トランプ氏が就任した直後に行った調査での支持率は47%で、不支持率の41%を6ポイント上回っていたため、この1か月で支持と不支持が逆転した。 ワシントン・ポスト紙は20日、トランプ氏の不支持率が51%だった自社の調査に加え、ロイターやCNNなどの調査でも不支持率の方が高いと指摘し、「トランプ氏が享受していたハネムーン効果は失われつつある」と指摘した。」
トランプ大統領の支持率が不支持率を下回る…米世論調査、マスク氏への反発も : 読売新聞オンライン https://t.co/c8s0RMtHqu
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) February 24, 2025
— Morgan J. Freeman (@mjfree) February 24, 2025
X (ツイッター)上で凄まじい人種差別を吐き散らしてきた白人至上主義のインフルエンサー垢 @GlomarResponder が、実はアメリカ合衆国移民局 (ICE) のジェームズ・ロデン次席弁護士のものだったことが判明
入国管理局とか移民局の係官というのは、だいたい愛想が悪いもの。
— Mystery Parrot (ミスパロ)🦜 (@ParrotMystery) February 23, 2025
でも、X 上で凄まじい人種差別を吐き散らしてきた白人至上主義のインフルエンサー垢 @GlomarResponder が、実はアメリカ合衆国移民局 (ICE) のジェームズ・ロデン次席弁護士のものだったことが判明し、さすがにその界隈は騒然。🧵 pic.twitter.com/ZiJz3zMLsj
首都ワシントンの国立劇場ケネディセンターはトランプが議長の座を乗っ取ってからチケットの売り上げが半分に減った。
首都ワシントンの国立劇場ケネディセンターはトランプが議長の座を乗っ取ってからチケットの売り上げが半分に減った。しかし、このバナーの個人崇拝、もう北朝鮮だな。 https://t.co/HifuwbMY4a
— 町山智浩 (@TomoMachi) February 23, 2025
米人気俳優の旅券で性別変更 トランプ政権の「反トランス」政策反映か(毎日); シェイファーさんは、トランプ政権の政策が「ゆっくりと実行に移されていることがただ恐ろしい」と語り、「書類や旅券では私の存在は変えられない」と強調した。
シェイファーさんは、トランプ政権の政策が「ゆっくりと実行に移されていることがただ恐ろしい」と語り、「書類や旅券では私の存在は変えられない」と強調した。
— mold (@lautrea) February 23, 2025
大杉栄とその時代年表(416) 〈子規没後の子規山脈①〉 「憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである。・・・余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞しまった。」(漱石『吾輩は猫である』中篇自序)
『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵 装丁橋口五葉(1905年)
〈子規没後の子規山脈①〉
□漱石、虚子と碧梧桐
「・・・・・明治三十七年秋、留学帰りで一高と東京帝大文科大学で教える漱石に、虚子は「ホトトギス」に載せる散文を頼んだ。漱石は自らのノイローゼ治療の一環として引受けた。できあがった原稿を虚子が子規庵定例の「山会」で朗読すると、座は明るい笑いに満ちた。漱石に続稿を促したのも、『猫伝』とあった題名を、冒頭の一文からとって『吾輩は猫である』とするよう勧めたのも虚子であった。
明治三十八年一月号に始ったこの小説には月ごとに読者がつき、「ホトトギス」の売行は向上した。漱石の「発見」といい、題名の選択といい、虚子には編集者としての眼力が備わっていた。のんびりしているように見えて出版業を成功させる手腕を併せ持つ虚子と漱石は、昔からウマの合う間柄であった。
翌明治三十九年の「ホトトギス」は、さらに小説づいた。一月、左千夫の可憐な『野菊之墓』、四月は漱石『坊っちゃん』二百二十枚を巻末付録に一挙掲載、五月には漱石が推薦した鈴木三重苦の小説第一作『千鳥』を載せた。
漱石が教職を辞して東京朝日新聞の社員作家となった明治四十年、これも漱石が推した野上八重子(弥生子)の第一作『緑』が、明治四十一年には長塚節初の小説『芋掘り』が「ホトトギス」に載った。虚子自身もこの年、最初の小説集『鶏頭』を漱石の序文つきで刊行し、徳富蘇峰の「国民新聞」に『俳諧師』を連載した。虚子は蘇峰に招聘され、明治四十一年秋には国民新聞社の文芸部長となった。
だが、漱石が東京朝日にしか書かなくなると「ホトトギス」の部数は急減した。虚子は明治四十三年九月に国民新聞社を退社、明治四十四年秋からは「ホトトギス」を本来の句誌に戻して、その頽勢挽回に全勢力を傾けることにした。だがそれは、少年時代以来「よく親しみよく争」った碧梧桐との、決定的な別れにつながった。
やがて大正年間に入ると碧梧桐はこんな句をつくるようになる。
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ 碧梧桐
菊がだるいと言つた堪へられないと言つた
菜の花を活けた机をおしやつて子供を抱きとる
季題は残るものの、完全な自由律の方向へと進む碧梧桐と虚子は、ついに相容れない。」(関川夏央、前掲書)
□子規を語る漱石
「漱石は子規没後、子規にふれたものとして「無題」(明治三十六年)、『吾輩は猫である』中篇自序(明治三十九年)、「京に着ける夕」(明治四十年)、「正岡子規」(明治四十一年)、「子規の畫」(明治四十四年) の五篇を残している。」(日下徳一『子規断章』)
□漱石の後悔、漱石の弔辞
『吾輩は猫である』中篇自序(夏目漱石)(青空文庫)
「「猫」の稿を継(つ)ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱(お)いて、上下二冊の単行本にしようと思って居た。所が何かの都合で頁ページが少し延びたので書肆しょしは上中下にしたいと申出た。其辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善よかろうと同意して、先(ま)ず是丈(これだけ)を中篇として発行する事にした。
そこで序をかくときに不図(ふと)思い出した事がある。余が倫敦(ロンドン)に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地(かのち)の模様をかいて遙々(はるばる)と二三回長い消息をした。無聊(ぶりょう)に苦んで居た子規は余の書翰(しょかん)を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程(よほど)の重体で、手紙の文句も頗すこぶる悲酸(ひさん)であったから、情誼(じょうぎ)上何か認(したた)めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んで居る身分ではなし、そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘(そのまま)にして居るうちに子規は死んで仕舞しまった。
筺底(きょうてい)から出して見ると、其手紙にはこうある。
(略、子規の手紙の全文引用)
此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥(たしか)である。余は此手紙を見る度(たび)に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯(つゆいつわ)りのない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う余の返事には少々の遁辞(とんじ)が這入(はい)って居る。憐(あわ)れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐(かい)もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。
子規はにくい男である。嘗(かつ)て墨汁一滴か何かの中に、独乙(ドイツ)では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采(だいかっさい)を博しているのに漱石は倫敦(ロンドン)の片田舎(かたいな)かの下宿に燻(くすぶ)って、婆さんからいじめられていると云う様な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え抔(など)と云われると気の毒で堪たまらない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞しまった。
子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云うか知らぬ。或(あるい)は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免(ごめん)だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事が左程(さほど)の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗(あん)に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好(かっこう)かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬(むく)いたと云うから、余も亦また「猫」を碣頭(けっとう)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。
子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を咏(よ)んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
長けれど何の糸瓜とさがりけり
という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併(あわせ)て地下に捧げる。
どつしりと尻を据(す)えたる南瓜(かぼちゃ)かな
と云う句も其頃作ったようだ。同じく瓜と云う字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄(あいだがら)だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈(はず)だ。そこで序(ついで)ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(す)えるべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未(いま)だに尻を持って居る。どうせ持っているものだから、先(ま)ずどっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積(つも)りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め一言断って置く。
明治三十九年十月」
「四年後の弔辞
つまり、作家として立ち始めたこの時、漱石は子規の生々しい懇願の手紙を公開することで、自分を罰していた。あの世にいる子規に、遅まきながら返信をした、とも言える。
(略)
ロンドンでくすぶっているという子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、子規は嫌がるかもしれないが、『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。「季子は剣を墓にかけて」とは、『史記』呉太伯世家を出典とし、『十八史略』や『蒙求』にも載る中国の故事で、徐の王様が生前、季子の名刀を欲しがったが、あいにく季子は役目の旅の途中で、これを渡さず、帰りに立ち寄ると、徐王は死んでおり、それでも墓に名刀をかけて献上したという話である。・・・・・『吾輩は猫である』は、季子の剣にも匹敵する宝だという自信をのぞかせている。さらに、漱石はこう続ける。
子規は死ぬ時に糸瓜の句を詠んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
長けれど何の糸瓜とさがりけり
という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。
・・・・・明治二十九年作の「長けれど」の句の「何の糸瓜」とは、「何の糸瓜の皮」という江戸弁の決まり文句で、「糸瓜のようにつまならいもの程に少しも」という意味である。確かに「糸瓜」は、いかにも愚かな恰好をしているが、見ようによれば、大きくてふてぶてしい。
その糸瓜『吾輩は猫である』にも縁があるというのは、主人公で漱石自身を当て込んだ苦沙弥先生らを、「糸瓜」のような太平の逸民と猫に言わせてみたり(第二話)、苦沙弥の元教え子の寒月を「糸瓜が戸惑いをしたやうな顔」と評したりしている(第四話)ことを踏まているのだろう。要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。ずいぶん砕けた文章だが、『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。漱石はこうふざけて書くことが、自分の死を糸瓜に託して亡くなっていった子規への、何よりの供養だと思っていたに相違ない。
爽やかな笑いが繋ぐ友情
作家として立ち始めた漱石は最後に、こう結んでいる。その意中には子規を思い出すことで次へ進もうというものがあったようだ。
どっしりと尻を据えたる南瓜(かぼちゃ)かな
と云う句も其頃作ったやうだ。同じく瓜と云ふ字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。・・・・・
南瓜も愚なる形状という点では糸瓜と同様で、案の定「瓜」の字が通じているとにこじつけて、ついでに南瓜の句も基に手向けることにしたと戯れた後、自分はしばらく「南瓜」になって尻を落ち着けて、人の思惑通りには生きないつもりだ、などと宣言している。」(『ミネルヴァ評伝選正岡子規』)
つづく
FBI長官に任命されたカシュ・パテルはディープステートを信じ、議会襲撃犯を応援し、トランプが王様になる絵本を書いていた熱狂的トランプ信者。 / トランプ大統領はFBI副長官に元シークレット・サービスで陰謀論者のダン・ボンジーノを任命すると発表した。ボンジーノはFBIで働いたことは一度もない。それどころか彼は2021年1月15日のパイプ爆弾事件などについて根拠のない嘘や陰謀論でFBIを中傷してきた。現職および元FBI職員はこの人事に愕然としており、国の国家安全保障を非常に懸念している
FBI長官に任命されたカシュ・パテルはディープステートを信じ、議会襲撃犯を応援し、トランプが王様になる絵本を書いていた熱狂的トランプ信者。FBIはトランプ警察になる。 https://t.co/fInxeuYfod
— 町山智浩 (@TomoMachi) February 22, 2025
「FBIの副長官はFBIで経験を積んだ捜査官が務めるものと決まっている。特に、現在のように長官がFBIでの経験がない場合、その必要がある。ところが、トランプ大統領はFBI副長官に元シークレット・サービスで陰謀論者のダン・ボンジーノを任命すると発表した。ボンジーノはFBIで働いたことは一度もない… https://t.co/YIgZymQPyR
— 町山智浩 (@TomoMachi) February 24, 2025


