2012年5月1日火曜日

延長8年(930) 醍醐天皇(46)譲位、朱雀天皇(8)即位 左大臣藤原忠平が摂政となる

東京 北の丸公園 2012-04-25
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延長8年(930)
6月26日
・殿上で請雨(しようう)の議論中、俄かに黒雲が起こり、清涼殿の南東に落雷、大納言藤原清貫と右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)が即死、負傷者多数という事故がおこる。

この年は農月に入っても降雨なく、この日、忠平以下の公卿たちが殿上において請雨(しようう)のことを論議していた。
午三刻(午後1時頃)、愛宕山の上より黒雲が起こり、雷声とどろいて清涼殿の坤(ひつじさる、西南)の第一柱上に落雷、霹靂の神火があがる。
殿上に侍していた大納言民部卿藤原清貫は朝服に火がつき、胸さけて急死。
右中弁兼内蔵頭の平希世(まれよ)も顔が焼けてたおれ臥す。
また紫宸殿にのぼった者では、右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)は頭髪に火がついて死亡し、紀蔭連(きのかげつれ)は狂乱し、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝が焼けてたおれた。
大納言の屍は半蔀(はじとみ)にのせられて清涼殿から運びだされ、陽明門外で車にうつされた。
希世も同様にして修明門の外に運ばれた。
この変事の報に接した両家の人々はこぞって内裏にかけ集まり、哭泣(こつきゆう)の声はとまらなかった。
醍醐は、この落雷のショックで寝ついてしまう。
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7月2日
・醍醐天皇、落雷による清涼殿の損傷のため「常寧殿」に遷御。
「穀倉院饗」が行われる。
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7月3日
・「朱雀院饗」が行われる。(『西宮記』)
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7月4日
・「内蔵饗」が行われる。(『西宮記』)
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7月15日
・醍醐天皇、「咳病」を発す。(『日本紀略』)
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7月21日
・「常寧殿」において天台宗阿闍梨5名が「五壇修法」を執行。(『日本紀略』)
同日、「延暦寺」において白檀「五大尊」像の造作を依頼。(『扶桑略記』)
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8月9日
・「度者」500人を給す。(『扶桑略記』)
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8月11日
・諸社に「奉幣使」を派遣。(『扶桑略記』)
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8月12日
・「鳩」が弁官西戸の梁上に群集したため、陰陽寮の「寮占」を行ったところ、凶という結果。(『扶桑略記』)
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8月19日
・醍醐天皇の息災祈願のため「度者」1,000人を給す。(『日本紀略』)
同日、大和国信貴山の命蓮聖人、醍醐天皇病状回復の加持祈祷を行う。(『扶桑略記』『山槐記』)
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8月21日
・僧侶23人に御修法を行わせる。(『扶桑略記』)
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8月25日
・藤原定方、比叡山延暦寺(「天台山」)に醍醐天皇平癒祈祷のため「金剛般若経」100巻の読経を行わせる。(『日本紀略』)。
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9月22日
・落雷のショックで寝込んだ醍醐天皇(46)は、春から都下に蔓延していた咳病(がいびよう)をも患い、この日、皇位を皇太子寛明親王(8歳、母は穏子)に譲り出家、29日、没。
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11月22日
・寛明親王(8)が即位(朱雀天皇)。

一上(いちのかみ)制の始まり
朱雀天皇が幼少で即位すると、左大臣(伯父)藤原忠平が摂政となった。
忠平は初め摂政として天皇を輔政しながら、左大臣として太政官の公事も執行していたが天皇輔政が多事なため、途中から左大臣の職能を次位の右大臣藤原仲平や大納言藤原保忠らへ委任するようになった。
これが一上(いちのかみ)制の始まりである。
一上とは、一の上郷の略称で、太政官の第一の公卿をさす。
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