北鎌倉 2012-04-28
*延長9年/承平元年(931)
この年
・平将門、伯父良兼と「女論」によって、不和になったという(『将門略記(しようもんりやつき)』)。
女論とは、一般的には女性問題という意味で、『将門記』によれば、将門の妻は良兼の娘であったことから、良兼が自分の娘と将門の結婚を反対したというのが一般的な解釈。
『将門略記』は『将門記』を省略したもの。
将門の乱には、平氏一族内での内紛である第1段階と、天慶2年(939)11月、将門が常陸国府を襲撃・占領して以降の国家への謀反とみなされた第2段階がある。
将門の乱の基本史料である『将門記』の巻首には欠落があり、平氏の内紛の詳細は分らないため、『将門記』を省略した『将門記略』や『今昔物語集』が参考にされる。
将門の祖先は、桓武天皇に遡る。桓武天皇の第3子で、多治真宗を母とする葛原親王。
彼は、仁寿3年(853)に一品大宰帥として68歳で没しているから、延暦5年(786)の生まれということになる。
薨伝によれば、生まれながらに礼節をわきまえ、久しく式部卿であったため、式部省の職務をそらんじていたという(『日本文徳天皇実録』仁寿3年6月癸亥条)。
弘仁2年(811)に上野国利根郡長野牧(ながのまき)を、承仁2年(835)に甲斐国巨麻郡馬相野(まみの)の空閑地500町を下賜された。後者は、甲斐国の御牧である真衣野牧(まきのまき)の前身とみる見解があり、いずれも東国の牧を入手している。
『尊卑分脈』によると、葛原親王は高棟(たかむね)王と高見(たかみ)王の2人の子をもうけた。
正史に登場するのは長男の高棟王のみで、彼は大学頭などを経て、天長2年(825)に平姓を賜り、貞観9年(867)に大納言正三位按察使で没した。書籍を好み、仏教を篤く信仰していたという(『日本三代実録』貞観9年5月19日条)。
高見王は正史にみえず、『尊卑分脈』では無位(無品の誤りか)と尻付にあるだけである。たとえ、高棟王と母が異なったとしても、高棟王とは位階・官職が違いすぎる。おそらく、若死にしたと考えられる。
当時の社会では、親の地位が子供の位階・官職をかなり左右したから、高見王の地位の低さが、後の桓武平氏の立場を決定づけたともいえる。
高棟王の子供では、藤原基経の兄長良の娘を母に持つ中納言従三位惟範、従四位下右大弁季長、左中将従四位上正範、惟範の子に中納言従三位時望、大納言従三位伊望などが輩出する(『尊卑分脈』)。とくに時望の家系からは、鎌倉時代に至るまで弁官などとして実務能力に優れ、代々日記を記す人物が生まれ、この家系は「日記の家」として著名となる。
葛原親王の子供のうち、高棟王の家系からは文官として実務官人が輩出し、高見王の家系からは武力に優れた武官・武士が輩出する。
ともすると、文官を捨てて積極的に武士の道を選んだと考えられがちであるが、実際は、貴族社会からはじき出された(文官の道に進めなかった)結果、否応なしに地方に土着し、武力を身に付けたと考えられる。
高見王の子、高望王から坂東との関わり合いがはじまる。
『尊卑分脈』には、高望王は「叙爵の後、平姓を賜う。上総介従五位下」とある。「叙爵」は五位になること、「平姓を賜う」は臣籍降下(皇親の戸籍を離れ臣下に降ること)のことで、高望王から平高望を称することになる。
千葉氏がその成立に関わった『平家勘文録(へいけかんもんろく)』などでは、謀反者を「平らげた」ために「平」姓を賜ったとするが、これは後世のこじつけ。
寛平元年(889)5月、平姓に臣籍降下した者が5人おり(『日本紀略』)、この中に含まれていた可能性もあるが、詳しくはわからない。
高望王が上総介として下向した理由として、上総国は、常陸・上野国とともに親王任国(都にいる親王が形式上の国守(大守)に任命される国)であり、介が実質上の長官であったことがある。
9世紀後半以降、坂東の治安が悪化したため、この状況を克服する目的で、高望王のように武勇に優れた国司を任命し、治安維持に当たらせたと考えられる。
■将門の父親・伯父の世代
平高望には、国香(くにか)・良兼(よしかね)・良持(よしもち)・良正(よしまさ)・良文(よしふみ)らの子息がいた。
長男国香は、常陸国に土着して常陸大掾になった。
常陸国東部に勢力を持ち、石田営所(いしだのえいしよ、茨城県筑西市)などに居住していた。常陸国は上総国と同じく親王任国であるから、掾は実質上の次官である。
彼の子供が後に将門の宿敵となる平貞盛。
子孫は伊勢国に本拠を移して伊勢平氏となり、平清盛へとつながっていく。
次男良兼は、上総国に土着し、下総介を務めた。
三男良持(将門の父)は、下総国に土着し、鎮守府将軍になって陸奥国胆沢城に赴任した。
四男良正は、『将門記』では「高望王の妾の子」と表現されているが、『尊卑分脈』では、良茂(よしもち)の子、つまり高望の孫としており、両者に矛盾がある。居住地は明らかではないが、常陸国の可能性がある。
五男良文は、武蔵国に土着して村岡五郎と称した。良文には、『今昔物語集』に箕田源二宛(みたげんじあつる、源仕(つかう)の子)と決闘して決着がつかなかったという説話がある。
国香・良兼・良正は、常陸大掾源護(まもる、仕・宛の一族か)の娘を妻としており、この三兄弟と護一族とは強い絆で結ばれていた。
良持・良文は、護一族と姻戚関係はなく、国香・良兼・良正とは距離を置く関係にあった。そのため良文は、将門と国香らとの合戦に関わっていない。
将門の父、平良持は後世の系図や編纂史料を除けば、『将門記』以外には見えず、『将門記』によれば鎮守府将軍であった。鎮守府は、エミシ鎮圧のために陸奥国に置かれた軍政府で、北方の護りの要であった。
鎮守府将軍はその長官で、田村麻呂など、武勇に優れた者が代々任命されることになっていた。将門の弟将種が陸奥国に居住していたことを考えれば、将門も陸奥国で幼年期を過ごしたかもしれない。
■この頃の将門
武士にとって鎮守府将軍は、北方交易によって馬・金・毛皮・驚羽(わしのは、高級失羽)などの財貨・珍宝を獲得できる魅力的な地位であった。
将門の父良持は将軍在任中に財貨を左大臣藤原忠平(ただひら)に貢納し、家人となっていたと推測され、長子将門は、上京して忠平に名簿を捧げ、主君と仰ぎ、家人として仕えた。将門は忠平の推挙によって滝口になった(『尊卑分脈』では将門は滝口小二郎とされている)。
その後、承平元年(931)頃、将門は、父良持の没により下総に帰国した。
将門は、下総国豊田郡・猿島(さしま)郡を中心にいくつもの私宅を所有し、国衙から広大な公田を請作して私営田経営を行い、負名として国衙に納税を請け負っていた。
また豊田郡常羽(いくは)にあった国衙御厩(みまや、馬を管理する部局)別当の多治経明(たじのつねあき)を郎等としていた将門は、下総国の国衙行政にも深く関与していた。
『尊卑分脈』によれば、将門の兄弟には、将頼・将持・将弘・将平・将文・将武・将為がいた。
『将門記』には、将頼・将平・将文・将武・将為がみえるが、将持・将弘は確認できない。同時代史料からは、天慶元年(938)11月、伊豆国の申請により、将武の追捕が駿河・伊豆・甲斐・相模国に命じられ(『本朝世紀』)、天慶3年2月には甲斐国が将武の関係者を殺した旨を知らせている(『貞信公記』)。
将武は伊豆国付近に本拠をもっていたと思われる。
この他、系図には見えないが、陸奥国に将種という兄弟がいた(『師守記』貞和3年(1347)12月17日条裏書)。父良将が鎮守府将軍として赴任した際に儲けた、将門とは腹違いの子供だろう。
■父良持の遺領を巡る相論
『将門略記』では、将門は「女論」によって伯父良兼との仲が悪くなったというが、『今昔物語集』の説話では故良持の遺領を巡る相論が元になって合戦になったとする。
『今昔物語集』の将門説話は『将門記』を元にしているところが多く、『将門記』の冒頭欠失部分には将門と良兼の合戦の原因として、女論とともに良持遺領相論もあげていたと推測される。
国香・良兼らが良持没後、彼の遭領の乗っ取りを企てていたことが窺える。
かくして、承平元年、将門と良兼との最初の合戦が起こった。
そして、この良兼との合戦が、将門を平氏一族のなかで孤立させることになる。
「将門ガ父失(うせ)テ後、其ノ伯父良兼ト聊(いささか)ニ不吉事有テ中悪(なかあし)ク成ヌ。故良持ガ田畠ノ諍(あらそい)ニ依テ、遂ニ合戦ニ及」ぶ(『今昔物語集』巻25)。
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