鎌倉 北鎌倉古民家ミュージアム 2012-04-28
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(2)
「第13章 拱手傍観 - アジア略奪と「第二のベルリンの壁崩壊」」(その一)
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TPPを考える上で参考になるので、下巻の第13章から始める。
第13章は、1997年7月、タイに始まった経済危機(通貨危機Wiki)が、何故起こったのか、IMFはどういう行動をとったのか、結果、アジア経済がアメリカ資本によってどれほど食いものにされたか、を描く。
カネというのはチャンスのある場所へと流れていく。今のところはアジアがお買い得のようだ。
- UBS証券ニューヨーク支店ジェラルド・スミス、一九九七~九八年のアジア経済危機の際に
1997年夏のアジア経済危機:「アジア風邪」から「アジア伝染病」へ
「テレビや新聞では専門家が、あたかも東南アジア地域が原因不明の病に感染したかのような口調でこの現象を「アジア風邪」と呼んだが、アジア市場が崩壊し、ラテンアメリカやロシアへ余波が及ぶと、その呼び名はいっそう猛威を増して「アジア伝染病」となった。」
「全面戦争の規模にも匹敵するほどの預金の破壊」(『エコノミスト』誌)
「ほんの数週間前まで、これらアジア諸国は経済の活力にあふれた新興国として「アジアの虎」と呼ばれ、グローバリゼーションの輝ける成功例とみなされていた。
ある時点まで、証券ブローカーは顧客をつかまえては、アジアの「新興成長市場」の投資信託に投資すれば必ず大儲けできると売り込んでいたのに、次の瞬間にはいっせいに大量の株を売却し、その一方では為替トレーダーたちがバーツ、リンギット、ルピアの売り浴びせをしかけた。
その結果、『エコノミスト』誌が「全面戦争の規模にも匹敵するほどの預金の破壊」と表現する事態へと至った。
それでも「アジアの虎」の国内経済には表面上目立った変化は起きていなかった。」
「一九九六年には投資家たちが一〇〇〇億ドルの資金投入が適切と見ていた韓国で、翌九七年には投資収支が二〇〇億ドルの流出超となり、その差は一二〇〇億ドルにも達した。」
アジア諸国はパニックの犠牲になった
「グローバル市場の変化の激しさとスピードがそれを致命的なものにした」
「タイには通貨を支えるだけの外貨準備がないらしい、という単なる噂が引き金となり、”電脳投資家集団”の暴走が始まった。
銀行は融資を引き揚げ、急成長を謳歌していた不動産バブルもあっという間にはじけた。
建設中だったショッピングモールや高層ビルやリゾート施設も突如作業がストップし、バンコクの高層ビル街には動きを止めたクレーンが空しい姿をさらす。」
「投資信託は「アジアの虎」をパッケージ化した投資商品を売り込んでいたため、一匹の虎が倒れると残りも次々と共倒れとなった。
初めにタイが倒れるとインドネシア、マレーシア、フィリピンへとパニックが広がり、次々と資金が引き揚げられ、ついには世界二位の経済力を持つグローバリゼーションの優等生、韓国にまでその波は及んだ」
「わずか一年で、アジア諸国が何十年もかけて築き上げてきた六〇〇〇億ドルの富がアジアの株式市場から消えてしまった」
「インドネシア都市部では貧窮化した市民が商店に押し入り、次々と商品を略奪していった。ジャカルタのショッピングモールでは略奪が行なわれている間に火事が発生し、中にいた数百人が焼死するという悲劇も起きた。」
「韓国のテレビ各局は、国家の債務を少しでも減らすために金のアクセサリーを国に供出するよう呼びかけるキャンペーンを行ない、数週間のうちに三〇〇万人の市民からネックレスやイヤリング、メダルやトロフィーが持ち込まれた。・・・。しかし市民から集まった二〇〇トン分の金は世界の金価格を下げはしたものの、けっきょく韓国の通貨下落を止めることはできなかった。」
「韓国では一九九八年の自殺率が前年の五〇%増となった。」
アジアを救済するな
「典型的な恐怖の連鎖によって広がっていったアジアの経済危機だが、それを阻止できる手段があったとすれば、一九九四年にメキシコで起きたいわゆる「テキーラ危機」の際に通貨危機を食い止めた方法以外にない。つまり、迅速な融資を決然と行なうことだ。それによってアメリカ財務省は、メキシコ経済を破綻させないという断固たるメッセージを市場に伝えたのである。
ところがアジア経済危機の際にはこうした行動はいっさい取られなかった。
それどころか危機が起きるや、金融界のそうそうたる人物たちは口をそろえて「アジアを救済するな」と発言したのだ。」
①80歳代半ばのミルトン・フリードマンはCNNのニュース番組で、「自分はいかなる救済措置にも反対であり、事態の正常化は市場に委ねるべきだと発言した。」
②「溺れるがまま放っておけ、という意見は、フリードマンの旧友で元シティバンク頭取のウォルター・リストンや、当時フリードマンと組んで右派シンクタンクのフーバー研究所で活動し、大手証券会社チャールズ・シュワブの理事も務めていたジョージ・シュルツ元国務長官も同様だった。」
③モルガン・スタンレーで新興成長市場のアナリストとして名高いジエイ・ベロスキーも、ミルケン研究所(”ジャンクボンドの帝王”と呼ばれたマイケル・ミルケンが設立したシンクタンク)主催の会議で、国際通貨基金(IMF)やアメリカ財務省は介入すべきではないと明言した。
「今、アジアに必要なのはもっと悪いニュースだ。悪いニュースが増えれば、さらなる調整が促進されるからだ」
④1997年2月、バンクーバーでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)において、クリントン大統領は、国家存亡の危機にさらされたこの事態を「ちょっとしたつまずき」と表現し、参加アジア諸国を激怒させた。今のところアメリカ財務省は救済に乗り出すつもりはない、というメッセージであった。
⑤本来こうした危機を防ぐ目的で創設されたIMFも、ロシア対策以来ずっと貫いてきた「何も関与しない」姿勢を通した。
「最終的には援助に乗り出すが、それは金融危機の沈静化にもっとも必要な緊急融資という援助ではけっしてなかった。
それどころかIMFは、アジア危機を絶好のチャンスと確信するシカゴ学派流の考えによって膨れ上がった、長い要求のリストを被融資国に突きつけたのである。」
「アジアの虎」の成功の理由は自由主義にあるというのは作り話
1990年代初頭、
「自由貿易推進派が論争の相手を説得するのに持ち出すのは、決まって「アジアの虎」の成功例だった。これらのアジア諸国が飛躍的な経済成長を遂げたのは門戸を広く開け、規制なきグローバリゼーションに参加したからだ、と彼らは主張した。
アジア諸国が猛烈なスピードで発展していたのは事実で、成功例として持ち出すには好都合だったものの、その理由が自由貿易にあるというのは作り話であり、事実ではない。
・・・、これらの国が証明したのは西部開拓時代を思わせるような「ワシントン・コンセンサス」よりも、管理された混合経済システムのほうが迅速で公正な成長を導くという事実だった。」
IMF、WTOの圧力による妥協、投資・為替の自由化
1990年代半ば、
「アジア諸国政府はIMFおよび新たに創設された世界貿易機関(WTO)からの圧力を受け、妥協案を呑み込むことになる。
国内企業を外資の買収から守り、主要国営企業の民営化を禁止する法律を維持する代わりに、金融部門の規制を解除し、株や債券などの投資と為替取引が自由に行なわれるようになった」
そして、1997年のアジア経済危機:アジア市場を保護する残りの規制を撤廃するチャンス
「一九九七年にアジアから短期資金がどっと逃げ出したのは、欧米先進諸国からの圧力によって合法化されたこの種の投機的投資の直接的結果にはかならない。
しかし、当然ながらウォール街はそうは見なかった。有力投資アナリストたちはこの危機を、アジア市場を保護している残りの規制をすべて取り払うチャンスだと捉えたのである。」
①モルガン・スタンレーのストラテジスト、ベロスキー
「危機がこのまま悪化すれば外資はすべて流出し、アジア企業は廃業に追い込まれるか、欧米の企業に身売りするしかなくなるだろう、と。モルガン・スタンレーにしてみれば、どっちに転んでもうまい話である。
ベロスキーは言う。「私は企業の閉鎖と資産売却が進むことに期待しています。(中略)資産売却というのはきわめてむずかしい。
追い込まれない限り、経営者は会社を手放そうとはしない。したがって、企業に売却のプレッシャーをかけ続けるためには、もっと悪いニュースが必要なのです」」
②かつてピノチェト政権閣僚、当時ワシントンのケイトー研究所に在職していたホセ・ピニェーラは、
「アジア経済危機を手放しで歓迎し、「最後の審判が下った」と言い切った。
このアジア危機は七〇年代に彼とシカゴ学派の同僚がチリで開始した闘いの最終楽章であり、「アジアの虎」たちの崩壊は「第二のベルリンの壁崩壊」、つまり「民主的な自由市場資本主義と国家統制による社会主義の間に”第三の道”があるという考え」の破綻を示しているというのだ。」
③米連邦準備制度理事会(FRB)のアラン・グリーンスパン議長
「グリーンスパンはアジア経済危機を「わが国のような市場システムに対する合意に向けた画期的な出来事」だと表現し、「今回の危機はアジア諸国にいまだ多く残る政府主導型経済システムの撤廃を促進するだろう」と述べた。
換言すれば、アジアの管理経済の崩壊はアメリカ式経済導入のためのプロセスであり、数年後により暴力的な文脈で使われる表現を借りれば、新しく生まれ変わるために必要な「産みの苦しみ」だというわけである。」
④「金融政策では世界第二の決定権を持つとも言えるIMFのミシェル・カムドシユ理事」
「今回の危機はアジアが古い殻を脱ぎ捨てて新たに生まれ変わるチャンスだと語った。
「経済モデルというのは永久不変のものではない。それが有効な時代もあれば、(中略)時代遅れとなり、破棄しなければならない時代も来る」。」
「噂から火がついて始まった危機が、作り話から事実へと変えられ、ついには新しい時代の到来を導いたというわけだ。
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(その二)に続く
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(その二)に続く
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