2014年3月19日水曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(4) 「ソメイヨシノは「偽吉野」、つまり吉野の桜を詐称したと非難されてきたが、「吉野の桜」自体が語りのなかの存在であった。」

江戸川公園 2013-03-26
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「吉野の桜」はなかった
「吉野の桜」は現実のサクラを表わす言葉ではなく、一種の記号として使われ、語られてきた
「吉野が想像上の名所だったのは、吉野桜に「騙された」人たちだけではない。「吉野の桜」は『古今和歌集』に初めて出てくるが、桜と吉野が強く結びつくのは西行と『新古今和歌集』以降、すなわち鎌倉時代からである。
吉野の桜は多くの歌や詩に詠まれたが、実際に見たとはかぎらない。西行のような人はむしろ例外で、「吉野の桜」を詠むのに吉野を見る必要はなかった。「吉野の桜」は現実のサクラを表わす言葉ではなく、一種の記号として使われ、語られてきた。・・・」

吉野の桜は、自然の景観ではなく、人手をかけないと維持できない人工的な空間
「だから、その名声は現実の吉野山と必ずしも重ならない。江戸時代、吉野山はたしかに桜の名所だったが、幕末から明治初めにはすっかり衰微していた。吉野の桜は蔵王権現に桜を献木する風習からはじまったといわれる。これはどうも伝説らしいが、南北朝時代には有力者が千本単位で植える例が出てくるので、その頃には現在に近い植え方になっていたのだろう。いずれにしても、自然の景観ではなく、人手をかけないと維持できない人工的な空間であった(鳥越皓之『花をたずねて吉野山』など)。桜の植生からいっても、「うっそうとした天然林には、桜山とよべるような多くの桜が混生することはまずない」(谷本丈夫「万葉人がみた桜」、林業科学技術振興所編『桜をたのしむ』)。」

「その(吉野山の)桜樹の如何にも若く」(明治29年) 
「吉野山は若木が多いため感じの悪いのには驚いた」(昭和になっても)
「山田孝雄は『櫻史』で、明治二九年(一八九六)初めて吉野山を訪れたときのことを、「古来名高き勝地なるに拘らず、その桜樹の如何にも若く、多くは古くとも二十年を過ぐるものにあらぬを見て大いに不審を抱き……」と回想している。ヤマザクラは花盛りになるまで三十~四十年かかる。山田が見た吉野は若々しいというより、寒々しい光景だったろう。吉野の桜が整備されるのは明治二十年代後半、県立公園に指定されてからである。昭和になっても「吉野山は若木が多いため感じの悪いのには驚いた」(副島八十六「櫻に就て」『櫻』一二号)といわれているくらいだ。」

ソメイヨシノの拡大が始まる時期に「吉野山の名花」はなかった。ちょうどその頃に、現実の吉野山にもヤマザクラが植えられはじめた。
「したがって、ソメイヨシノの拡大が始まる時期に「吉野山の名花」があったわけではない。上野や隅田川堤では明治の十年代にソメイヨシノが植えられており、神川川沿いの並木も明治十年代後半にはじまる。東京以外でも、埼玉県の熊谷や福島県郡山の開成山、青森県の弘前などに「吉野桜」が姿を見せる。
山田の回顧から逆算すると、ちょうどその頃に、現実の吉野山にもヤマザクラが植えられはじめたことになる。この時期自体注目されるが、当時の桜は植えた直後の若木で、「名花」とは到底いいがたい。見ていない人が騙されたというが、当時の誰にとっても、吉野の桜は想像上の桜だった。」

ソメイヨシノは「偽吉野」(吉野の桜を詐称した)と非難されてきたが、「吉野の桜」自体が語りのなかの存在であった
「もちろん、たとえ吉野で桜が現実に咲き誇っていたとしても、交通機関や映像メディアが発達していない時代、実物を目にできる人は少ない。だから、吉野の桜の不在と吉野桜の拡大とは直接関係ないが、桜への視線を考える上では重要な示唆をあたえてくれる。ソメイヨシノは「偽吉野」、つまり吉野の桜を詐称したと非難されてきたが、「吉野の桜」自体が語りのなかの存在であった。」

言葉と想像力
そういう語りのなかのイメージに、ソメイヨシノの咲き方はうまくはまった
「・・・そういう語りのなかのイメージに、ソメイヨシノの咲き方はうまくはまったのである。例えば、吉野山の形容に使われる「一目千本」を頭のなかで想像すると、色の花がずっとつづく光景を思いうかべやすい。言柴にすれば、まさに「妍英濫発」「天地皆紅」「紅霞燦然」だし、もしも絵にしろといわれれば、多くの人が単色でべた-とひろがる、それこそ絵に画いたような桜色の雲にしてしまうのではなかろうか。」

大衆小説的想像力に合致する桜だといえるかもしれない
「意地悪くいえば、大衆小説的想像力に合致する桜だといえるかもしれないが、私自身、記憶に残る桜の形容にはそういうものが多い。例えば、

咲みちて花より外の色もなし   (足利義政)

花の雲鐘は上野か浅草か    (松尾芭蕉)

などは有名だし、年長の方であれば藤田東湖『正気の歌』の一節、「発(ひら)いては万朶(ばんだ)の桜……衆芳(しゆうほう)ともに儔(たぐ)ひ難し」を思い出すかもしれない。
これらの言辞は二重の意味で興味ぶかい。」

「あの有名な西行の歌、「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」でも、多くの人はソメイヨンノの一斉に咲き散る光景を想像しているのではなかろうか。」

ソメイヨシノの出現以前に、ソメイヨシノが実現したような桜の景色を何人もが詠っていた
「ソメイヨシノが広まることによって、ソメイヨシノの咲き方に特にあう言説が選択的に記憶され、「昔からこうだった」と想像されるようになる。いわば想像が現実をなぞっているわけだが、義政や芭蕉や東湖の句はもう一つ重要な事実を教えてくれる。ソメイヨシノの出現以前に、ソメイヨシノが実現したような桜の景色を何人もが詠っていたのだ。この桜が現実にした光景は、想像の上ではすでに存在していた。桜の美しさの理想として、もともと存在していたのである。」

ソメイヨシノ以前の群桜の楽しみ方
「先にのべたように、ソメイヨシノが普及する前には、多くの種類を植えて花を長く楽しむ習慣があった。群桜でも、すべての桜が同時に咲き散っていたわけではない(図1-3)。ある樹が咲いても他のはまだ裸木に近い。あるいは満開の花のとなりに、すでに咲き終わり、若葉をまとう緑の桜があったりする。野山の櫻だけでなく、人工的な桜の名所でも、花と緑は交じりあうのがふつうだった。
例えは一九世紀前半に出た『江戸名所図会』は、隅田川堤を「桃桜柳の三樹を殖えさせられければ、二月の末より弥生の末まで紅紫翠白枝を交えながら錦繍鋪紬を晒すが如く」と描いている。緑の葉や枝と花の色は互いにひきたてあうよう、視覚的にも工夫されていた。」

義政や芭蕉が描いた「一面の花色」という理想を実現したソメイヨシノ
「義政や芭蕉の句はその現実の上に、花色が一面につづく想像を重ね描きしたことになる。桜の樹は全体に花をまとうので、遠目に見ると、そこだけがべたっと花色に映る。それを拡大複写する形で、視界いっぱいの花を想像したのだろうが、現実に単一の色彩で花がずっとつづく、つまり一面の花色に本当につつまれるようになったのは、ソメイヨシノを密集して植えるようになってからだ。
その意味で、この桜は桜の美しさの理想の一つを実現したものでもある。・・・ソメイヨシノが普及した要因はいくつもあるが、その一つとして、この「一面の花色」という理想があげられる。・・・」

絵に画いたような・・・
「ソメイヨシノが品種として同定されるのは明治二三年、正式な命名は明治三四年まで待たなくてはならない。いいかえれば、それ以前の記録からは「この桜はソメイヨシノだ」と完全には確定できない。・・・」

「そうなると錦絵のような図像に頼りたくなる。たしかに錦絵をみると、ソメイヨシノらしい姿はたくさん出てくるが、何しろ「絵に画いたような」桜である。ソメイヨシノだからそう描いたのか、絵になるからそう描いたのか、ほとんど判別できない。・・・写実なのか、想像なのか、手抜きなのか、一本の樹単位では全く区別がつかないのだ。
吉原仲之町の桜も、錦絵ではしばしはすべての樹が満開の姿で描かれる。何も知らない人がみれば、まるでソメイヨシノの並木に見えるだろう。・・・」

「したがって、ソメイヨシノの歴史には、その始まりでどうしても空白ができてしまう。想像か現実か、虚構か事実かを明確に区別しがたい薄明りの時間が横たわる。その空白に後からさまざまな物語がはめこまれる。「よくできた話」「見てきたような話」「絵になる景色」が口から口へ、文字から文字へ、絵から絵へと伝播し、流布し、知識となっていく。もっともらしい話がいつのまにか事実に化けてしまう。」
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