2024年9月16日月曜日

寛弘4年(1007)1月 道長六女誕生 3月 土御門第で曲水の宴 8月 道長、金峯山に参詣(御嶽詣)し、経筒を埋納( 金峯山理経) 11月 教通(道長五男)右少将

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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寛弘4年(1007)
この年
・源信は横川に戻り、この年には「霊山院式(りようぜんいんしき)」を作成して、華台院南の霊山院で釈迦講を始めた。
その結縁者500余名の中には、僧侶以外にも、資子内親王、中宮定子、藤原公季、藤原道長室源倫子などの上級貴族、また中下級官人、近江の名主層までもが含まれており、寛仁元(1017)年の末法到来に向けての浄土教の広がりがわかる。
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・この頃、「拾遺和歌集」「和泉式部日記」が成立。
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1月5日
倫子(43)第6子嬉子(道長の六女)を出産
「昨日の酉剋(午後5時~午後7時)の頃から、女方(源倫子)は、重く病んだ。これは御産によるものである。卯剋(午前5時~午前7時)に、女子(藤原嬉子)を産んだ。巳剋(午前9時~午前11時)に臍尾(へそのお)を切り、乳付を行った。」(『御堂関白記』)
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1月5日
「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、火事が有った。右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)の家であった<中御門(なかみかど)である>。「一物も取り出すことができなかった」ということだ。」
「「(藤原斉信は)叙位の議に出席していて、宿直(とのい)装束が無かった。束帯を着たまま、まだ内裏にいる」ということだ。そこで宿直装束一具(よろい)を届けた。袿を四枚に直衣・指貫・合袴(あわせばかま)であった。」(『御堂関白記』)

1月13日
「未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)に内裏に参った。五位蔵人に右兵衛佐(藤原)道雅を補した。(一条)天皇は、「道雅は、若年ではあるが、故関白(藤原道隆)の鍾愛の孫である。そこで補すのである」と云(い)われた。」
「六位蔵人には兵部丞(藤原)広政と(藤原)惟規を補した。蔵人所の雑色や非蔵人を差し置いて、この人々を補せられるのは、現在、蔵人所に伺候している蔵人は、年が若く、また、補すべき巡にあたっている非蔵人や雑色たちも年少である。」
「そこで、この二人は頗(すこぶ)る年長であって、蔵人に相応しい者である。そこで補せられただけのことである。後世の人に判断を任せよう。この人事の賢愚(けんぐ)はわからない。」(『御堂関白記』)

2月
・この月、道長、前年12月に供養した法性寺五大堂で五壇法を修す。
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3月3日
「土御門第で曲水(ごくすい)の宴を催した。東渡殿の所から流れてくる川の東西に、草墪(そうとん)と硯台を立てた。東対(ひがしのたい)の南唐廂(みなみからびさし)に公卿と殿上人の座、南廊の下に文人の座を設けた。」
「辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時)の頃、大雨が降った。水辺の座を撤去した。その後、風雨が烈しくなった。廊の下の座に雨が入ってきた。そこで対の内部に座を設けていた頃に、公卿が来られて、座に着した。」
新中納言(藤原忠輔)と式部大輔(菅原輔正)の二人が、詩題を出した。式部大輔は、「流れに因(よ)って酒を泛(うか)ぶ」と出した。こちらを用いた。申剋(さるのこく/午後3時~午後5時)の頃、天が晴れた。
「水辺の座を立てた。土居に降りた。羽觴(うしょう)が頻(しき)りに流れてきた。唐の儀式を移したものである。皆は詩を作った。」
「夜に入って上に昇った。右衛門督(藤原斉信)・左衛門督(藤原公任)・源中納言(源俊賢)・新中納言(藤原忠輔)・勘解由長官(藤原有国)・左大弁(藤原行成)・式部大輔(菅原輔正)・源三位(源則忠)、殿上人や地下の文人が二十二人、参会した。」(『御堂関白記』)

3月24日
「内裏から退出した。亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、南西の方角に火事が有った。事情を問うと、東宮傅(藤原道綱)の大炊御門(おおいみかど)の家であった。」(『御堂関白記』)

3月28日
「一宮(いちのみや/敦康親王)は、霍乱(かくらん)を病んだ。」(『御堂関白記』)

4月20日
・この日、賀茂祭で道長に「上達部十余人同道」(『御堂関白記』4月20日条)。
道長は公卿たちを従え賀茂祭(かもまつり)見物などを見物。このようなことは道長以前の摂関には見られなかった。
道長も一条朝前半までは妻子や親しい公卿などと小規模で見物を行っていたが、一条朝後半以降、道長の見物所に公卿等が参集して見物するようになる。
『権記』寛弘6年4月24日条では、賀茂祭の道長の「棚」(桟敷)に藤原道綱以下九人の公卿が集まっている。
このような公卿以下が道長の見物所に参集する見物方法は、院政期の院へと継承され、さらに大規模化・儀式化していく
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4月25日
・4月25、26日、内裏で大規模な密宴と作文が行なわれた。
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8月
道長が金峯山に参詣(御嶽詣=みたけもうで)し、経筒を埋納する。
金峯山理経。

御嶽詣(金峯山を金の御岳と呼ぶためこう称された)のためには、まず精進潔斎が必要であり、この年閏5月17日に中宮亮源高雅宅を精進所として3月弱の長斎(本来は百日)を始めている。
蔵王権現には子を授かるという効験が信じられていて、『栄花物語』「はつはな」は、翌年彰子の懐妊がわかった時に「みたけのしるし」と喜んだと書き、皇子誕生を祈っての御嶽詣であったと述べている。

『御堂関白記』による行程
8月2日に京を出発。
3日~6日、大安寺や壷坂寺など大和の諸寺に宿し、7日、野極(のぎわ、今日の吉野蔵王堂の下方)に宿す。
以降尾根つたいに修験の道を登り、数多くの難所をへて、10日に山上御在所の金照房に到着。

翌11日は早朝沐浴の後、子守三所、三十八所(日本中の神が集まる)、御在所に参詣し、ここで法華経百部と仁王経を三十八所のために、理趣分(大般若経の一部)を一条天皇・冷泉院・東宮のために、般若心経を八大龍王のために供養。
そして道長が、長徳4年、書写した金泥法華経一部および今度書写した弥勒経三巻・阿弥陀経・心経を供養して、金銅灯楼をたててその下に埋納した。

この時、頼光は随行者の一人として、頼親は大和守として、それぞれ道長にかいがいしく奉仕している。

経筒の銘文
自筆経巻は「妙法蓮華経一部八巻・無量義経・観普賢経各巻、阿弥陀経一巻、弥勒上生下生成仏経各一巻、般若心経一巻」の15巻であると記す。
法華経は「釈尊の恩に報ひ、弥勒に値遇(ちぐう)し、蔵王に親近せんがため」「弟子の無上の菩提のため」、
阿弥陀経は「臨終の時身心散乱せず、弥陀尊を念じ、極楽世界に往生せんがため」、
弥勒経は「九十億劫の生死の罪を除き、無生忍を証し、慈尊の出世に遇はんがため」、
とそれぞれの願意を記し、
最後に、慈尊成仏の時に当りて、極楽界より仏所に往詣し、法華会聴聞のため成仏記を受け、その庭にこの奉埋する所の経巻、自然に湧出し、会衆をして随喜を成さしめん、
と記す。

弥勒菩薩が兜率天(とそつてん)から五十六億七千万年後に下生し、法会を開き、衆生を救うという、弥勒下生信仰にもとづいている。その時に道長は極楽界から参会し、またこの経巻が湧き出ることを願っているが、これは法華経見宝塔品の構想によって経筒を「法身之舎利」として埋めるとのべ、この経筒は一種の舎利塔として湧き出るカをもっていると考えている。

法華経・阿弥陀経・弥動経の各信仰が併存し、金峯山は弥勤下生の地と信じられていたらしいので弥勒浄土信仰が大きな役割をしめ、また末法思想もあった。
ただ経筒の緑に梵字で「南無妙法蓮華経」と記し、納めた経典も第一に法華経であったように、道長の中心にあったのは法華経信仰であったらしい

金峯山理経
金峯山は、吉野の奥、大峰連峰の総称で、山岳修行の第一の霊場。
吉野の金峯山寺は山下と呼ばれ、中心となる山上とは標高1,719mの山上(さんじょう)ケ岳である。その山頂には湧出岩と呼ばれる巨岩があり、蔵王権現が湧現したところと伝えられ、現在も女人禁制。
蔵王権現は、金剛蔵王菩薩ともいい、修験道の開祖役行者(えんのぎようじや)が金峯山の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩薩であり、釈迦の化身とも弥勒の化身ともいわれる。修験道とともに発展した神格である。

この山頂付近から、元禄4年(1691)山上の本堂改修の際に、経塚が発見され、寛弘4年(1007)7月の約500字に及ぶ銘が刻まれた円筒形の金鋼製経筒(国宝)とその中に遺っていた道長書写の経典残巻が発掘された。
日本で最古の経塚遺物であるだけでなく、この時の道長の御嶽詣の状況が『御堂関白記』に道長自身が自筆で記して全容が伝わる点でも画期的な事例である。
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11月
・教通(道長五男)、この月、右少将に任ぜられる。
12歳で春日祭使を勤める。以降摂関家嫡流のデビューの場となっていく。
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