2014年8月7日木曜日

1782年(天明2年)8月~12月 モーツアルト(26)とコンスタンツェ・ヴェーバー(19)結婚 伊勢国白子の船頭大国屋光太夫(32)以下総勢17人遭難漂流 【モーツアルト26歳】

平川濠 平川橋 2014-08-06
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1782年(天明2年)
8月
・従来の明磐会所以外に、薩摩産・中国産のみを扱う明磐会所を江戸・京都・大坂・堺に設置。
「次は明礬会所、これは宝暦八(一七五八)年に江戸、京、大坂、堺四ヵ所において、私売を禁じ、一切会所を経なければ明礬の売買は出来ぬという事に定めた。明和四(一七六七)年の閏九月になって、その禁を犯す者が多いので、さらにその令を申ねた。天明二〔一七八二〕年八月には従来の発売所の外に、新たに薩摩産、およびシナ産のみを引受けるところの会所を江戸、京、大坂、堺に立てさした。自今はその総会所の外は私に売買することはならぬ。もしその産地より私に買出した者があったならば厳罰に処すという事を令した。」(辻善之助『田沼時代』)
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・初、モーツアルト、行進曲ニ長調(K.408No.2(385a))、ソルフェッジョ(K.393(385b))、クラヴィーアのための組曲ハ長調(K.399(385i))(断片)、クラヴィーアのためのフーガト短調(K.154(385k))(断片)、フーガ(K.385n)(断片)、クラヴィーア協奏曲のスケッチイ長調(K.385o)作曲。
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8月2日
・モーツアルト、コンスタンツェと二人でテチアノ修道会教会に告解と聖体拝領に行く。
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8月3日
・モーツアルト(26)、コンスタンツェ・ヴェーバー(19)と結婚。
ウィーンの司教座大聖堂聖シュテファン教会。父親からの結婚承諾書をまたず(式が終って間もなく届く)。
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8月6日
・オペラの大御所グルックの要望でモーツアルト「後宮からの逃走」、特別公演。
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8月7日
・モーツアルト、シンフォニー(第35番) (K385) <ハフナー・シンフォニー>。
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8月8日
・モーツアルト、グルックに食事に招待される。
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8月9日
・モーツアルト、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタイ長調(K.402(385e))(断片)、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ楽章ハ短調(K.396(385f))(断片)作曲。
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8月10日
・この頃、モーツアルト、ホーエ・ブリュッケのグロースハウプト館387番に引っ越す。
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8月中旬
・父親宛の手紙で、自分はオーストリア宮廷に仕えたいとしながらも、物乞いまでして仕えたくないこと、ドイツのいずれの宮廷に仕えてもその名誉となるだろうこと、ドイツで駄目ならフランスでもイギリスでも行くこと、などを語り、パリで一仕事しようと考えていると表明。そして、その目的でコンセール・スピリチュエルのル・グロに手紙を書いた。
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・モーツアルト、クリスティャン・バッハの死に捧げて、クラヴィーア協奏曲(第12番)イ長調(K.414(385p))作曲。
(第12番K.414は第11番K.413、第13番K.415とともに1785年3月アルタリア社から出版)
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10月
・酒井忠徳、本間光丘他の重臣に藩政の改革を断行させ藩政の基礎を確立。
大坂大和屋に1万俵の代金を返済できる。
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10月8日
・モーツアルト、ウィーン訪問のロシア大公夫妻のため<後宮>をブルク劇場で指揮・上演
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10月19日
・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲楽章イ長調(K.386)作曲。
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10月27日
・作曲家ニッコロ・パガニーニ、ジェノヴァに誕生
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11月3日
・モーツアルト、ケルントナートール劇場で開催されたアウエルンハンマー嬢の演奏会に出演。
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11月24日
・勘定奉行の赤井越前守忠晶、京都町奉行より転任(同6年11月15日免)。
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11月30日
・英米の戦争終結
パリ、合衆国はイギリスと講和予備条約を締結。反抗した13植民地の独立を承認。
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12月
・モーツアルト、ホルンの名手ロイトゲープのために、K.386c (407) ホルン五重奏曲(変ホ長調)作曲。
月末、ジブラルタルを歌う吟遊詩人の歌「おお、カルペよ!おまえの足元に雷鳴はとどろき」(K.Anh.25(386d))(スケッチ)作曲。
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12月4日
・モーツアルト、ガリツィン侯爵邸で開催された音楽会に出演。
ホーエ・ブリュッケ412番地(現ヴィップリンガー・シュトラーセ14番地)のヘルベルシュタイン館の4階に引っ越す。
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12月13日
・[太陽暦73年1月15日]午前10時、紀伊藩領伊勢国白子の船頭大国屋光太夫(32)以下総勢17人、「神昌丸」で白子の港を出帆。積荷は紀州藩蔵米250石・稲生村と徳田村の年貢米・瓦150石・木綿商品400石。
午後遅く、鳥羽外港の小浜着。
14日午前10時小浜を出港。遠州灘駿河沖で大時化。
15日嵐やまず帆柱を切倒す。嵐は12~13日間続く。米俵140~150俵を残して打荷(10日間かかる)。
8ヶ月余北太平洋を漂流。

1783年2月末、晴天が続き飲料水不足。
3月初、船体に漏水。
5月、鳥目の者が多くなる。
6月、薪が尽き飯が炊けなくなり壊血病の者ふえる。
7月15日、最初の死者磯八(残り16人)。
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12月14日
・モーツアルト、トゥーン伯爵夫人のところで演奏。「後宮からの逃走」(K.384)のクラヴィーア譜完成。
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12月28日
・モーツアルト、翌年3月の宮廷での予約演奏会のために、クラヴィーア協奏曲第11番 ヘ長調(K.413(387a))作曲。
この日、自宅で小さな音楽会を開催。
同日付け父への手紙。
「ものすごく急いで書かなければなりません。だってもう五時半ですが、小音楽会をするのに六時に来るようにみんなに言ってあるからです。 - そもそも、ぼくはやることがあんまりありすぎるので、しょっちゅう天手古舞いしています。午前中から二時までずっとレッスンで駆けずり回ります。 - それから食事をします。 - 食後、小一時間は、ぼくの哀れな胃袋に消化の時間を与えてやらねばなりません。 - それから - なにか書ける唯一の夕べの一時です。Iそれだって、しょっちゅう音楽会に呼ばれるのだから確かじゃありません。」

次いで、モーツァルトはピアノ協奏曲のなんたるかを語る。
「ところで予約演奏会用にまだ協奏曲が二曲足りません。- これらの協奏曲は、難しすぎるものとやさしすぎるものとのちょうど中間のものが ー とても豪華絢爛としていて ー 耳に快く響きます。自然で、空虚なものに堕すことはありません - そこかしこに - 通人だけが満足を得ることもできますが、 - それでも - 通人でなくても、なぜかは知らないで、それに満足するはずのものなのです。」
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12月31日
・モーツアルト、弦楽四重奏曲ト長調(ハイドン四重奏曲第1番、通称「春」 )(K.387)完成。K.404a 6つの序奏とフーガ(ニ短調)作曲。
モーツアルトの新しい音楽活動の開始を象徴的に示す作品。
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