南禅寺 水路閣 2014-08-13
*永保3年(1083)
9月
・後三年の役勃発
【概要】
前九年の役以後、東北地方では源氏と清原氏の勢力が強まる。
功績のあった清原武則の子・武貞の没後、跡目争いがおこり、武貞の長男の清原真衡は異母弟の家衡、家衡の母(安倍頼時の娘、処刑された藤原経清の妻)の連れ子・藤原清衡と戦う。
清原真衡没後、家衡は清衡と戦う。
陸奥守兼鎮守府将軍・源義家は、清衡に味方して家衡と戦い、弟源義光の来援を求め、激戦の末に鎮圧。
【段階別概観】
■第一段階:清原氏の嫡流を継いだ真衡と家衡・清衡兄弟の内訌
「奥州六箇郡の勇士」とされた真衡は、「富有の奢、過分の行跡」もあり、一族の長老吉彦秀武と対立するにいたる。
清原真衡(武則の孫)には子供がなく、海道小太郎成衡を養子にしている。成衡が妻を迎えることになり、祝いに清原一族長老の吉彦秀武が駆けつけ、真衡に金を献上しようとするが、囲碁に熱中している真衡はこれを無視。
真衝に過言を吐き領国出羽に帰った秀武は、この屈辱に耐えきれず、真衡の異母弟の清原家衡と異父弟の清衡(藤原経清の子、妻が子を連れて清原武則の子の武貞と再婚)を誘う。
真衡と秀武の対立から戦端が開かれたが、永保3年(1083)秋、義家が陸奥守として赴任してきた。
真衡は国府に出仕して着任を祝う「三日厨(みつかくりや)」の饗応を務め、連日、馬・金・驚羽・あざらし・絹などの品々を贈った。そして三日厨が終わると、また吉彦秀武を討つため出羽に向かった。
一方の家衡・清衡は、真衡の留守宅主舘のある白鳥村(岩手県胆沢郡)を襲撃、ここには真衡の妻と養子の成衡がおり、危機にさいし義家の郎等兵藤正経・伴助兼の助力で窮地を脱する。
その後、真衛が引き返すと清衛・家衛は軍を引き、暫く睨み合いが続くが、出陣中の真衡が病死し、家衡・清衡両人に真衡の遣領が配分され、内紛は小康状態をむかえる。
■第二段階:真衡の没後、家衡・清衡兄弟の争いに義家の介入
真衡急没後、家衡らは義家に降伏し戦いは終わる。
義家は家衡・清衡に真衡遺領の陸奥六郡を、各三郡ずつ分与。
しかし、豊な南三郡を得た清衡に対し、寒冷地の北三郡を与えられた家衡は、遺領配分を不満とし、清衡館を襲い妻子らを皆殺し。
応徳3年(1086)秋、清衡は、義家の援助を受け兵数千を率い家衡の沼柵を攻撃するが、包囲数ヶ月、食糧尽き、凍死者続出し、清衡・義家は撤兵。
■第三段階:家衡と叔父武衡の共闘戦線による金沢柵での義家軍との攻防戦から陥落
家衡は来援の叔父清原武衡の勧めにより、要害の地金沢柵に移り、翌寛治元年(1087)9月、義家軍と再び戦闘。
義家は苦戦するが、弟源義光(新羅三郎義光)が都から来援。清衡・義家は総攻撃を開始、苦戦の末、金沢柵を陥落、家衡を討つ。
【第一段階の詳細】
怨念の連鎖(勝ち組の内訌)
前九年合戦の勝者清原武則の子が武貞で、真衡・家衡・清衡3兄弟は、形の上では、この武貞を父とした。
清原武則:
康平6年(1063)2月、前九年の役の勲功によって、清原武則は俘囚の主としては異例の鎮守府将軍に任命された。武則は清原氏では庶流であり、前九年の役にも、兄光頼の名代として参戦した。しかし役の終了後、清原氏の惣領の地位は光頼から勲功第一の武則に移った。
武則は、安倍氏の奥六郡支配権を受け継いで本拠を出羽国から胆沢に移し、陸奥国奥六郡・出羽山北三郡の支配者となった。
清原真衡(武則の孫):
延久2年(1070)12月、陸奥守源頼俊(頼親孫)は任終にあたって、国境を越えて奥六郡に侵入した北方夷狄を国境外に追い出し、東の閉伊、北の糠部・宇曾利、西の津軽の夷狄を征服し、「衣曾別島」(えぞわかれじま=北海道)の「荒夷」まで服属させた、と政府に報告した。
後三条天皇親政の一環として行われたこの夷狄征服によって、10世紀初頭に固定された奥六郡・山北三部の国境は取り払われ、閉伊郡・糠部郡・久慈郡・津軽郡が新たに設置され、北方夷狄の地は王朝国家の版図になった。
この征服のは鎮守府将軍清原武則の嫡孫真衡のカに依るところが大きく、真衡は恩賞として鎮守府将軍に任命された。
こうして新たに設置された諸郡は、清原氏の監督下に置かれることになった。
この結果、国境を挟んで対峙していた防御性集落が姿を消し、福島城もその役割を終えた。
頼俊は同じ報告書のなかで、散位藤原基通ら国衙に抵抗してきた者たちを追捕して国内の平和を回復した、とも述べている。頼俊は、延久の荘園整理令にもとづいて国内検注を行い、新立荘園停止を強行し、抵抗する郡司・荘官らを追捕することによって、陸奥国に荘園公領制の枠組みを導入したという。
しかし、事実はやや違っていて、基通と合戦した頼俊は、国司権力の象徴である印鎰を奪取されるという失態を演じていた。
基通は下野に越境して下野守源義家に投降し、義家は降人基通を連れて上洛した。
翌年5月、頼俊はそれまでに追捕した首級と捕獲者を携えて上洛したが、清原真衡が鎮守府将軍に任じられただけで、頼俊には何の恩賞も与えられなかった。
延久の北奥征服の勲功によって鎮守府将軍に任じられた清原真衡は、政府の命を重んじ国司とも協調し、奥羽は安定していた。
嫡流の真衡と清衡・家衡の対立
「清衡・家衝というものあり、清衡はわたりの権大夫経清が子なり、経清、貞任に相ぐしてうたれし後、武則が太郎武貞、経清が妻をよびて家衡をばうませるなり」(『奥州後三年記』)とあり、清衡・家衝が異父兄弟の間柄とする。
真衡は、清原氏の正統なる血筋を継承した。
家衝は安倍頼時の娘と武貞の子(後三年合戦勃発の時期には20歳前後)なので、真衡と父を同じくする異母兄弟である。
清衡(後三年合戦勃発時に25歳前後、父は藤原経清)は、家衡とは異父兄弟であるが、真衝との血緑はない。
家衡を介する三者の兄弟関係が成立していたという一族間の複雑な関係が、内部での指導権をめぐる紛争へと導くことになる。
当初、内紛は嫡流の真衡と清衡・家衡の対立だった。
惣領真衡には実子がなく、海道小太郎成衡を養子にしていた。
海道とは陸奥国南部沿岸地方を指し、常陸平氏大掾(だいじよう)氏(維幹子孫)の一族、海道氏がこの地域を本拠としていた。惣領家と庶家の緊張関係のなかで、惣領家の支配的地位を維持するためには、他氏から養子を迎える以外になかった。成衡の妻に頼義娘(平致幹の孫娘)を迎えたのも、源氏の棟梁の権威に依存し、常陸平氏との姻戚関係を通じて、惣領家の地位の安定化をはかったものである。
永保初年の頃、その成衛と頼義娘との婚儀の場で事件は起こった。
出羽国の吉彦(きみこ)秀武は、武則とは母方の従兄弟で婿であり、前九年の役では一陣の主将を務めたほどであるが、真衡からは従者として遇されていた。
このとき秀武は朱の盆に金を積んで頭上に捧げたまま、長い間庭に跪いていた。しかし真衡はそれに気づかず、この侮辱に腹を立てた秀武は、金を庭にぶちまけて本国出羽に帰っていった。一門を従者として扱う真衡と、それを恥辱と受け止める庶流との緊張関係が、一門・従者が揃い、主従関係が眼に見える形で表される儀礼の場で、爆発した。
真衡はただちに軍を出羽に進めた。
一方、秀武は同じように従者同然に扱われてきた清衡・家衡を味方に付ける。
清衡は、安倍氏とともに頼義に討たれた経清の忘れ形見であり、奥州藤原三代の始祖である。母は安倍頼時の娘で、経清死後、武則の子武貞の妻となり家衡を生んだ。
真衡と家衡は異母兄弟、清衡と家均衝は異父兄弟であった。
こうして惣領真衡と庶流秀武・家衡・清衡との対決が始まった。
永保3年(1083)のこの年の秋、陸奥守として赴任した義家は真衡を援護した。
前九年合戦以来の因縁もあり、清原氏の正嫡に加担することで、内紛の調停者の立場にあった。
義家が陸奥守として着任すると、清原真衡は国府に出仕して着任を祝う「三日厨」の饗応を務め、連日、馬・金・鷲羽・あざらし・絹などの品々を贈った。そして三日厨が終わると、また吉彦秀武を討つため出羽に向かった。
それを知った清衡・家衡はただちに真衡館を襲撃するが、これを知った義家は軍勢を率いて駆けつけ、清衡・家衡を撃退した。
この間、真衡は出陣途中に急死し、その後、清衡・家衡は義家に投降する。
義家は、武則・武貞・其衡の三代にわたって清原惣領家が相伝してきた奥六郡司職を召し上げ、三部ずつに分割して清衡・家衡に与えた。
こうして清原氏惣領家は崩壊し、今度は清衡と家衡の間で主導権をめぐる緊張関係が高まっていく。
■兵藤正経と伴助兼
『奥州後三年記』では「両人は奥州の郡使、検田使なり、巡国の時分なり」とされ、合戦の経緯が詳細に語られる。
正経・助兼(包)が劣勢のなか、義家が加勢し、抗戦の意志を清衡らに問うと、清衡の親族重光の主戦派の影響で合戦するが、重光が討たれ清衡兄弟は敗走、さらに出羽出陣中の真衡が病死したことにより、その後の清衡兄弟との和議が成立したとある。
正経・助兼は貞和(じようわ)本では「国司郎等」「参河国(みかわのくに)住人」と記され、助兼の場合は鎮守府官人の肩書「傔杖(けんじよう)」を有していた。
承安本と重ねると、彼らは義家の郎従で、陸奥守・鎮守府将軍として赴任したおりに下向し、国務・軍務を兼帯した義家のもとで、「郡使、検田使」の業務に関与していたと推測できる。
三河国の住人たる彼らは、地域領主として自己を成長させ、義家を主と仰ぎ主従の契りを結ぶことで陸奥の地に赴いた。義家はこれを郎等集団に組み込み、自己の武力基盤とした。
こうした私的従者群を任国陸奥での国衙・鎮守府体制に組み入れ、私権の公権化、あるいは公権の私権化を実現した。
郡使・検田使は国衙の行政業務の一環を担うものとして、所轄の地域に国衙が派した使者である。
彼らは、真衡館(さねひらたて、白鳥村近辺、現在の岩手県奥州市前沢区白鳥館)があったとされる胆沢郡方面に、「大守の郡使」として「巡国」していた(義家の敏速な出兵などから、不穏な動静についての情報は寄せられていたと思われる)。
真衡は「伊沢郡白鳥の村」に政庁をかまえ、実質上の鎮守府の仕事をなしていた。鎮守府将軍を継承した真衡は、この北方に位置した鎮守府胆沢城に住まず、ここを拠点としていた。白鳥の地は奥六郡の南端にあたり、磐井郡との境にあった。
かつての安倍氏の衣河館はこの白鳥村の真衡館の南方3kmの地にあったと推測されている。
軍事貴族たる義家の棟梁性は、貴種的要素を前提とした広い範囲からの軍事力の動員にあった。この広域性は王朝的武威に根ざしたもので、公権の後楯で保証される性格を持っていた。
■源氏の東国進出(概観)
10世紀、将門の乱後、勝利した秀郷流藤原氏や貞盛流平氏が大きな果実を手中にした。
関東~東北は、この両一族が割拠して地域的分割を推進した。
貞盛と弟の繁盛の流れは、元来の基盤であった下総・常陸方面への基盤を強固にした。
同じく坂東平氏の流れにある良文流は秩父方面へと繁茂し、これが武蔵・相模方面へと勢力を扶植していった。
同じ良文流に属す平忠常やその子孫は房総へ発展した。
秀郷流藤原氏は、秀郷が下野国押領使であったことや、乱後に同国の国司あるいは鎮守府将軍となったとされ、下野・上野、常陸西部、陸奥方面など、北関東・東北に広がっていった。
貞盛流の伊勢平氏や良兼流の一族の例外はあるものの、坂東平氏・秀郷流藤原氏の多くは、関東を中心とした地方軍事貴族として「兵の家」を形成した。
11世紀前半、房総を舞台とした平忠常の乱は、坂東分割を推進した平氏諸流の敵人関係が背景にあった。
忠常の乱の結果、将門の乱とは別の次元で坂東再分割がなされた。
関東における在地領主(武士)の誕生は、忠常の乱後のことだった。
この過程は、郡郷地域での開発定住化(住人化)をもたらし、地域領主(在地領主)としての風貌を顕著にさせた。
地名を名字とする「住人」の登場は、これと表裏の関係にあった。
忠常の乱は、河内源氏の源頼信によって鎮圧された。源氏は、その祖経基が将門と純友の乱にかかわり、「兵の家」形成に寄与した。
しかし、これに続く満仲以降は「都の武者」として基盤整備にいそしみ、中央軍事貴族たる立場で摂関家との人脈を形成していった。王朝的武威の創出に尽力した時期である。
『今昔物語集』『古今著聞集』などの中世説話集に登場する河内源氏の武勇談はこの史実を背景にしている。
頼義から義家の時代は、忠常の乱後の関東から東北にまで源氏による新たな射程が据えられた時期(段階)である。
坂東での分割に出遅れていた源氏は、その進出を強引に進めた。
坂東8ヶ国の多くは、平氏や藤原氏の拠点化が進められており、比較的進出が可能な地域は、常陸・下野・上野・甲斐など、北開東の外縁地域であった。
源氏の急速な東国(奥羽をふくむ)進出を可能にしたのは、王朝的武威を背景とする受領ポストの掌握が大きい。国衙機構という公権を巧みに利用する形で、任国への影響力を強めてゆく方法である。
摂関家との関係は、これをさらに有利にするものだった。
将門の乱後の勝ち組だった秀郷流・貞盛流の両者が、地方軍事貴族という枠内に留まっていたのとは大きな違いである。
関東周辺のうち、常陸は源頼信が常陸介、そして、下野国は義家と義朝、上野国は満仲、甲斐国は頼信が、それぞれが国司を歴任している。
関東の中心である相模は頼義が国守であり、源氏の東国進出が、受領のポストを介して推進されてきた事情があらためて確認できる。
こののちの、義家以後の源氏内紛で、義朝の相模・上総、義賢の武蔵への進出は、この前史に由来する。
後三年合戦期での、義光が常陸北部さらに甲斐方面に地盤形成を実現し、義家の子・義国(足利氏・新田氏の祖)が下野を中心に勢力を拡大したのも、理由のあることだった。
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