2014年8月21日木曜日

明治37年(1904)10月16日~31日 幸徳秋水「先ず政権を取れ」(『平民新聞』49号) 沙河会戦終了(戦死: ロシア側5,084、日本側4,099) 北海事件(ドッガーバンク事件) 第2回10月期旅順口総攻撃(日本側死傷3,830、ロシア死傷4,453) 石川啄木再上京   

北の丸公園 2014-08-20
*
明治37年(1904)
10月16日
・日本軍、沙河南岸接近。
*
10月16日
・週刊『平民新聞』第49号発行

幸徳秋水「先ず政権を取れ」。普通選挙獲得運動促進。
現在社会の一切の禍根は地主資本家の階級が政治の権力を独占し、法律は彼等の利益を保護するために制定され、行政はその利益を防衛するために実施されているが故であるとし、「社会主義者は一国の政権を彼等少数階級の手より奪ふて、平等にこれを一般国民の間に分配せん」ことを主張する。
そしてかくのごとき現状は、現行の選挙法が直接国税十円以上の納税を以て議員選挙権の一資格と規定しているが故であるとし、社会主義者は現行選挙法を改正して納税資格の撤廃を要求する。
もし普通選挙が実施されて一般平民ことごとく選挙権を有したならば、「少数階級を代表する議会は即ち一般平民の議会たらん、少数階級の政府は即ち一般平民の政府たらん。……既に然らば何ぞ少数階級を掃蕩絶滅して、以て光彩ある社会主義制度を実行するの難きを憂へんや。」社会主義実行の第一着手は「七首(*あいくち)に非ず、爆烈弾に非ず、叛乱に非ず、同盟罷工に非ず、ただ一般平民をして議員選挙の権利を得しむるに在り。多数職工の代表者、多数小商人の代表者、多数小作人の代表者をして彼等地主資本家の代表者と、議会壇上に並び立たしむるに在り。……」
*
10月16日
・夜、第5師団、ロシア軍の夜襲受ける。万宝山夜襲。戦死547、負傷2,387、失踪156。
*
10月17日
・大蔵省主税局長目賀田種太郎、韓国の財政顧問着任。
貨幣整理(日本の通貨体系への編入)・財政改革に着手。
これまで通用していた「葉銭」を回収し第一銀行券を法定通貨とする。
第一銀行漢城支店が韓国中央銀行の役割を代行、大韓国の国庫監理・通貨発券業務を行う。
他に、外交顧問ダーハム・スチーブンス(12月27日着任)、協約にない警察顧問丸山重俊(警視庁警視)、宮内府顧問加藤増雄(前駐韓公使)、軍部顧問野津鎮武中佐。
*
10月18日
・フランス領西アフリカ(ハウト、セネガル、ニジェールを結ぶ)正式発足。首都はダカール。
*
10月18日
・グスタフ・マーラー(44)、ケルンで第5交響曲初演
*
10月19日
・ロシア・バルチック艦隊(太平洋第2艦隊)、大バルト海峡入口、デンマーク領ランゲランド島出港。
20日、スカゲン岬投錨。ロジェストヴェンスキー、中将昇進入電。
21日、デンマーク西岸沖北海に出現。
*
10月20日
・沙河会戦終了。
ロシア側戦死5,084、負傷30,394、失踪5,868。日本側戦死4,099、負傷16,398。
*
10月20日
・ボリビア・チリ、講和条約調印。両国間の太平洋戦争(1879−84)正式終結。ボリビアはチリに領土を割譲、チリの太平洋沿岸地域領有確定。
*
10月22日
・北海事件(ドッガーバンク事件)
午前0時50分、北海中央部ドッガーバンク東方沖、バルチック艦隊巡洋艦アヴローラ、味方艦の砲撃により損傷。イギリス漁船1撃沈、大破4。
パリでの国際調査委員会はロシア側に非ありとして賠償金支払いを命じる。
英露関係急速悪化。
艦隊の行く先常にイギリス巡洋艦の監視をうけ、妨害され、行動の制約を受ける。
*
10月23日
・第3軍司令部参謀長会議。
満州軍総参謀長児玉大将の二龍山全力攻撃案と参謀次長長岡少将の203高地優先案の検討。両案とも否決され、松樹山堡塁~東鶏冠山砲台迄の東北正面全域にわたる攻撃に決定。
*
10月23日
・清国の華興会と哥老会、挙兵を図るが失敗。
*
10月23日
・田中正造(谷中村亡国民2千有余人総代5名の名で)、「志士仁人」に宛て「亡国水毒村谷中村築堤工事緊急要請書」提出。
*
10月24日
・満州軍参謀総長児玉大将、第2回旅順口攻撃計画(広正面攻撃)の再考・修正を求める旨第3軍司令部に急電。
*
10月26日
・第2回10月期旅順口総攻撃。総砲撃開始。
*
10月26日
・華興会の黄興、上海へ脱出。
*
10月26日
・ロシア・バルチック艦隊、濃霧のため仏領ブレスト港寄港断念。スペイン北西岸ビーゴ港寄港。スペイン、中立違反恐れ石炭補給不許可。
翌27日、許可。
28日、北海事件判明、出港延期指示、足止め。
29日、イギリス地中海艦隊巡洋艦がビゴに出現、封鎖姿勢をとる。
*
10月27日
・東鶏冠山北保塁坑道、日本上、ロシア下、ロシア側坑道爆破
*
10月27日
・ニューヨークで地下鉄開通。初日、15万人が利用。市役所前~145丁目
*
10月27日
・ロシア艦隊がドイツから石炭供給を受けていることにイギリスが抗議。
露独が対英同盟関係締結の交渉を行う。露が同盟国の仏に助言を求め、交渉失敗(−11.23)。
*
10月28日
・清国、武昌の軍隊が科学補習所・東文講習所を捜索。
*
10月30日
・午前7時、総砲撃。
午後1時、総突撃。
同7分、第9師団第6旅団第35連隊第2大隊第5中隊(篠田次郎大尉)、P堡塁占領。
松樹山堡塁へは第1師団第3連隊第2大隊第6中隊が突撃。外濠は7.5mあり埋めきれず、銃砲火の下で突撃不可能に。
二龍山堡塁へは第9師団第19連隊第1大隊が向うが、外濠に架橋できず動くこともできず。
東鶏冠山北堡塁へは第11師団第22連隊第2大隊第6中隊が突撃。第1~3突撃とも失敗。
第44連隊第2大隊は東鶏冠山第2堡塁を目指すが、大隊長香坂仁介少佐ほか死傷者続出。
東鶏冠山第1堡塁・砲台へは第12連隊が向うが、ロシア軍銃火により阻止。砲台に向った同第1大隊(児玉象一郎少佐)第1・3中隊はほぼ全滅。

午後3時10分、ロシア軍約400がP堡塁奪還出撃。
午後10時30分頃、ロシア軍約300がP堡塁を夜襲。
盤龍山東堡塁にいた第6旅団長一戸少将が第7連隊第6中隊を率いP堡塁救援に突進(戦死64・負傷303)。
*
10月30日
・大阪市安部製糸会社製糸工300人、会社解散後、清算人への不満からストライキ。
*
10月31日
・午前8時、第3軍司令官乃木大将、第2回10月期旅順口総攻撃作戦中止決意。
日本側死傷3,830(内戦死1,092)。ロシア死傷4,453(内戦死616)・不明79。
*
10月31日
・石川啄木(19)、処女詩集『あこがれ』刊行のため再上京、東京着。本郷区向ケ岡弥生町三村井方に止宿。
11月8日、神田区駿河台袋町8番地養精館に移る。
28日、牛込区砂土原町3目22番地井田芳太郎方に転居。

啄木は、盛岡中学の先輩で、この年9月仙台第二高等学校から東大文科大学言語学科に入った金田一京助を下宿の本郷区菊坂町82番地の赤心館に訪ねた。金田一京助は花明(かめい)という号を持って「明星」の同人であり、二人はしばしば与謝野家で逢うこともあり、親密に交際した。

啄木の父一禎(いってい)は渋民村の宝徳寺の住職であったが、啄木に仕送りしてやる力はなく、啄木は詩集を出版し、売文で生活する覚悟であった。
啄木の小学校時代の級友、小田島真平の長兄嘉平衛が、神田鍛冶町の大学館という出版屋に勤めていたので、上京に当って啄木は小田島真平から兄の嘉平衛宛ての紹介状をもらって行った。
啄木が小田島嘉平衛を訪ねて相談すると、小田島は、よほどの大家でないと詩集は売れないものだと言い、啄木の詩集を大学館から出版する望みのないことを説明した。

啄木は、金田一京助や同じく郷里の先輩の野村長一(おさかず)たちから金を借りてどうにか日を過していた。しかし、与謝野家の新詩社の会に出るときの彼は、仙台平の袴をはいて坐り、胸を張り、腕を組み、昂然とした態度を取っていた。ただ、彼は、東北弁が目立つのを知っていたので、その会合ではあまり口を利かなかった。
*
10月31日
・「平民新聞」連載幸徳秋水「日記の一節」(明治37年6月~12月)のこの日付の記述。
先頃、ロシア社会民主党より捕虜への差入れとして社会主義文献数百部が送られ松山の収容所に送る。
今日、在ニューヨークのロシア社会民主党幹事から同様照会があったが、今回は収容所から拒絶される。
*
10月31日
・大蔵省、第3回国庫債券8,000万円発行。
*
10月31日
・露ロジェストヴェンスキー中将、北海事件証人、士官4人出頭のため本国送還。
*
*

0 件のコメント: