ゴヤはおそろしくいそがしい
「注文が続々としてやって来る。
ゴヤはおそろしくいそがしい。
猛牛ほどの精力で、次から次へとこなして行かなければならない。
声名高い学者で、今様のことばづかいをすれば、進歩的文化人、であったホベリァーノス氏の仲介で、サラマンカのカラトラーバ騎士団参事会に、四枚の宗教画を納めねばならぬ。この四枚の絵は、後にナポレオン軍との戦争の際に失われた。
さらに、もう一つの大公爵家であるメディナセリ家へは、受胎告知画を納めねばならぬ。
弟のカミーロまでが、チンチョン教区の自分の教会に絵を描いてくれ、と言う・・・。
時間が足らない・・・。」
ゴヤがこの子に注いだ愛情は、それはもう限りもないものであった
「そういう幸福なゴヤに、神は時期をより抜いて最大の幸福をさずけてくれた。
たった一人、成人にまで生きのびて成長をしてくれる筈の男の子、フランシスコ・ハピエールが、一七八四年の一二月二日に生れた。
・・・
このハピエールは、さいわいにして神の加護があって、ただ一人成人をした。ゴヤがこの子に注いだ愛情は、それはもう限りもないものであった。」
ゴヤ『マヌエル・オソーリオ・デ・ス一ニガ像』(1788)
彼が描いた子供の肖像には、少くとも失敗作は一つもない
「・・・彼が描いた子供の肖像には、少くとも失敗作は一つもない・・・。」
「・・・モデルが子供であるとなると、決して失敗しない。細心の注意と愛情をこめて、どんな細部にも心をこめて描くのである。ここに、おそらくわれわれは深く留意をして行かなければならないであろう。・・・
先に触れた二歳と九カ月のマリア・テレーサ・デ・ブルボン像(=後のチンチョン伯爵夫人)も見事に描かれていたが、肖像画としての早い時期の傑作は、マヌエル・オソーリオ・デ・スーニガと呼ばれる、アルタミーラ伯爵夫妻の次男を描いたものであろう。
画調はきわめて柔らかく、一部だけを除いて、ほとんど画面の全体がビロードにも似た感触をもっている。
玉(ぎょく)か翡翠(ひすい)かを連想させるような、あたたかみのある緑の背景に、燃えるような、まことに燦爛たる赤の衣服をつけたこの子供は、まだ人生の門口に立ってはいないのである。自分の二本の足で、やっと立ったばかりである。身体全体も、まだまだ自分のものにはなっていない。誰かの支えがなければ、十分の間も自分で立ってはいられないであろう。」
子供を前にするとき、実に異常な、と言っていいほどの熱意をこめて画布に向う
「ゴヤはすでに、その生活において、相当の辛酸をなめ、いまや相当の金をもっている。そういう男が、子供を前にするとき、実に異常な、と言っていいほどの熱意をこめて画布に向うのである。われわれはこういうゴヤを肝に銘じて覚えておかなければならない。彼の宗教画に描かれた天使たちは、逆に、すでに人生と世間の何たるかを幾分かなりとも知っているマドリードやサラゴーサの巷を駈けまわっている餓鬼どもであるが、これらの肖像に描かれた実在の子供たちの方が、あたかも天使であるかに思われて来る。
この肖像も、フロリダプランカ伯爵像の場合と同様に、なかなかに道具立てが複雑である。子供の左足の横には烏龍が置かれてあって中に紅ヒワが何羽かいる。前面には紐で結わえらたカササギがゴヤの訪問用の名刺をくわえている。
そうして、・・・自由にちょろちょろするカササギを、凝っと、孔のあくほど凝視している三匹の猫が左奥の影の部分にたむろしている。この猫の眼の鋭さが、見る者にある不安の感を与える。・・・」
「念のために言っておけば、この猫どもは、この子の将来にとって不吉でも、化けて出もしなかった。子供は成人して、スペインの政財界での大立物となった。」
不思議な人であった。それは一つの思想の芽である
「ゴヤは画家としての出立の頃から、また年老いてからでも子供を描くとなると、実に異常なほどの情熱を傾けた。家族図を描くについても、その子供たちがまだまだ幼少で、人生の門口にも立っていない場合、子供たちの方にひかれて行って、父母の方までを大型の子供のように描く傾きがある。その典型的な例は、オスーナ公爵一族図であろう。公爵及び公爵夫人の別々の独立した肖像画と、子供たちを加えた一族図では、まるで様子が異ってしまっている。
それは奇妙なほどのものである。
アラゴンの境野で、寒風と熱風に吹きさらされて育って来たこのむくつけき男が、マドリードの貴族たちの、こましゃくれた子供たちのことを、この生れのよすぎる餓鬼どもめ、オンバ日傘で育ちやがって、と思わなかったということはないであろう。
けれども、そういうものはオクビにも出さない、絶対に出ていないのである。不思議な人であった。それは一つの思想の芽である。」
子に対しても孫に対しても、それは同じであった
「生れて来た自分の子のハピエールのことを、
マドリードで一番美しい子だ。
などとぬけぬけと言える人なのである。
そうして、いかに子供を猫可愛がりに可愛がる親といえども、親にとっての子供というものは、その愛情は必ずやある複雑な屈折を経て届いている筈のものである。ところが、この息子のハピエールが成長して、当時流行の派手な衣裳を着ての肖像画や、またハピエールの子、つまりは画家にとっての孫にあたるマヌエルを描くについても、この小僧ったらしい奴め、といった感はまったく皆無である。」
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写真は、
ブログ「タマちゃんの旅ブログ」
2014年7月 2日 (水曜日)
海外旅行中継・2014イチロー選手とマー君応援の旅(その11)メトロポリタン美術館と応援に行ってきました
より拝借しました。
ブログ「タマちゃんの旅ブログ」
2014年7月 2日 (水曜日)
海外旅行中継・2014イチロー選手とマー君応援の旅(その11)メトロポリタン美術館と応援に行ってきました
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