2014年9月5日金曜日

『ユリ・コチヤマ回顧録-日系アメリカ人女性 人種・差別・連帯を語り継ぐ』を読む

今年6月1日93歳で亡くなられたユリ・コチヤマさんの回顧録を読んだ。
実は、亡くなられたとのツイートを見るまでユリさんのことは知らなかった。

日系アメリカ人の人権活動家コチヤマ・ユリ(河内山百合)さん死去、93歳。 / 訃報 ユリ・コチヤマ R.I.P. #YuriKochiyama (togetter) / 「生涯を通じて、人種や国籍、ジェンダーを超えて幅広い人々を結びつけてきたユリさんの功績を語りつくすことは不可能ですが、その素晴らしい人生と気高い魂に心からの敬意を」(Shima Daigo) 

以下は本書の目次と私的な読書ノートの一部

ユリ・コチヤマ(Yuri Kochiyama)
『ユリ・コチヤマ回顧録-日系アメリカ人女性 人種・差別・連帯を語り継ぐ』
(2010年8月25日発行)

目次
日本語版への序文 
はじめに 

第一章 両親のこと 

第二章 成長の速さ ー 子ども時代、第二次世界大戦、強制収容所
私の子ども時代 
第二次世界大戦と強制収容 
ジェローム収容所時代以降とサンビードロへの帰郷

第三章 私のビルへの賛辞 
河内山豊 
マサヨシ・ウイリアム・コチヤマ 
ビルの戦争体験と四四二部隊 
「ノー・ノー・ボーイ」の果敢さ
私のビルとの人生

第四章 戦後 - 結婚、親子関係、ニューヨーク

第五章 胸がときめく一九六〇年代に子ども六人の養育

第六章 マルコムXとコチヤマ家

第七章 悲劇と祝福 - ビリー、アイチ、アルカマル
ビリー
アイチ
アルカマル

第八章 家族となった友人たち
マイケル・フェルナンデス
ヒロシ・イシコ
シモーヌ・ドラクロワ
リッキー・カシミロ
ウィルソン・マカベ
サンジ・キモト
ポール・ヒガ
ミッツ
アリシカとポーラ

第九章 政治犯の援助
ー ムタヤリ・シャバカ・スンディアータ、ムミア・アブ・ジャマール、マリリン・バック
誰が政治犯なのか
新アフリカ共和国の囚人の内心ームタヤリ・シャバカ・スンディアータからの手紙
ムミア・アブ・ジャマール
マリリン・バック

第一〇章 アジア人およびアジア系アメリカ人政治犯
- スティーブ・イップ、菊村優、デーヴィツド・ウォン、エディ・チエン
スティーブ・イップ
菊村優
二〇〇三年のデーヴイッド・ウォン事件
エディ・チェン

第一一章 キューバへの旅 - 一九八八年第一九回ベンセレーモス隊に参加して

第一二章 ペルーにおける人民の戦い - 現代のその意味は何か

第一三車 社会・政治運動の中の三人の偶像
- ロリータ・レブロン、アサータ・シャクール、レナード・ベルティエ

第一四章 アジア系アメリカ人の運動

あとがき - 三人の訳者を代表して


「あとがき」より
本書は Yuri Kochiyama, Passing It On (2004) の抄訳

「カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に一九六九年に設立されたアジア系アメリカ人研究所の客員研究員だった二〇〇二年、八一歳のユリ・コチヤマさんは、ご家族のために回顧録の執筆を始められた。そしてその約二年後、九〇点の写真と三一点の巻末の参考記事 - いずれも同大学のユリ・コチヤマ・コレクションの一部 - と一七章の本文を中核とする二二九頁の回顧録が刊行された。」

「ユリさんはカリフォルニア州立大学(CSU)から名誉文学博士号を授与された。(二〇一〇、六、一二)」

第一章より 

著者の人生が一転するのは1941年12月7日(日曜日)。
著者の父親はFBIに拘束され、治療中の薬の投薬も面会もままならず、翌年1月21日に死亡する。

「尋問中の父はずっと勾留と拷問の身だったと思われる。FBIは、かねてからの疑惑をうまく実証できないし、悪化の一途をたどっている健康状態が末期を迎えていることにもおそらく気づいたので、父を釈放した。その数週間後、父は救急車で家に連れられて来たが、もう口もきけず、相手の顔が見え、発言が聞き取れるのか、というよりは、相手に見覚えがあるのかどうか、家族にはわからなかった。父の身体はとっくにやせ衰え、頭の働きも驚くくらい急激に悪くなる一方だった。品位もないまま人事不省に陥った父は、一九四二年一月二一日に長逝した。釈放からほんの二、三日後のことである。享年わずか五六。」

多年にわたって監視されていた事実と著者の決意。

「何年か縫ってから判明したことだが、第二次世界大戦前の多年にわたって、FBIは父を監視していたのである。とても愛国心の強いアメリカ人でずっと通して来た一家だけに、この事実は衝撃的だった。さきにあげた父の身辺の出来事は、決して忘れまい。父に対するアメリカ政府の措置を、私はまさにこの目で見たのだ。心の痛手を受けたこの出来事を回顧すると、人種隔離が普通だった南部でのアフリカ系アメリカ人の扱われ方と、一九四二年日系アメリカ人に断行された強制立ち退きの所行や全米各地のへんぴな強制収容所への一括収容の手順の類似性がわかる。それぞれの場合、人種差別による恐怖と無知が引き起こした、非常識なほど退廃した世相と残酷さと憎悪があった。したがって、人種差別特有の仮説や思想と絶縁するために、できることは何でもすることに、発言すべきことは何でも発言することに、私はずっと情熱を燃やしながら献身しているのである。

仮収容所での抑留生活

「その年の四月 - 父が一月二一日に他界し、ターミナル島の日系人全員が立ち退かされたあと - 、日系人は一六の仮収容所に移送された。どの転住所もまだ建てられていなかったからである。ところで、仮収容所の所在地は農産物や家畜などが展示即売される広場とか競馬場が大半を占めた。私の家族は、カリフォルニアのサンタアニタ競馬場に住居を割当てられた。馬糞の匂いで気持ち悪くなった一世が多数いた。わずかばかりの空き地で、日系人は住居をできるだけ住みやすいようにした。例えば、ボール箱は、テーブルや椅子や引き出しに作り替えられた。日系人の独創性はすばらしいものだった。さらに、アメリカの大手総合小売業チェーンのシアーズローバックやモンゴメリーウォードの援助で、”陰気な家屋”にたった一つしかない窓に取り付けるカーテンの素材や、トイレで人目につかないようにするカーテンの素材が購入できた。
・・・・・・・」

戦後

「戦後といえども、とくに西海岸では反日感情は依然として激しかった。でも、戦前から顔なじみだった近所の人たちは、一家の帰りを喜んで迎えてくれただけでなく、なにかと再定住の力になってくれたから、幸運だった。それどころか、スティーヴンズ家は、一家不在の間でさえ、とてもよく家屋の面倒を見てくれた。ほかのいくつかの日系人家族は、帰郷するには帰郷したが、残念ながら、農場が焼き払われるか家屋がなくなっているのに気づくばかりだった。」

(ここで大割愛)
夫ビルと子どもたちのこと(闘いの中での教育、ハーレムでの生活、悲劇など)
マルコムXのこと
同志たちのこと
など

後半は、自分のことよりも今も闘う同志たちの姿を伝えたいという気持ちが伝わってくる。

そして・・・、
「あとがき」より

「二〇〇二年(平成一四年)のことだった。サンフランシスコでのイラク戦争反対集会で、ユリさんは基調講演をおこない(二月)、その約八ヵ月後(一〇月)には当局に公開質問状を提出している。ユリさんの反戦運動は、一九六〇年代(ヴェトナム戦争時代)に著しく高揚したが、もちろんこの二〇〇二年以降もやむことはない。その典型的な一例は、二〇〇七年(平成一九年)六月、やはりサンフランシスコでのイラク戦争反対集会 - より正確に言えば、イラク派遣命令拒否を含む三つの”重罪”で訴追された(・・・)三世のエーレン・K・ワタダ陸軍中尉の支援集会 - にユリさんもオークランドから駆けつけたことであろう。(二〇〇九年一〇月二日、国防長官が本人の希望する除隊を承認したため、ワタダ事件は幕を閉じた。)」

「この回顧録の出版(二〇〇四)で、ユリさんは、グスターヴァスマイヤーズ偏見・人種問題研究所(一九八四-二〇〇九 本部はボストンのサイモンズカレッジ)から、同年のグスターヴァスマイヤーズ名作賞(The Gustavus Myers Outstanding Book Award for 2004)を授けられた。全米的によく知られていた同研究所は、存続中は、「ありふれた思考・行動様式に挑戦したり、偏見の多面性をできるだけ的確に反復・再現する著者や著作」に毎年のように名誉賞を贈った非営利組織である。この名誉賞を受けたユリさんは、その翌年二〇〇五年の六月、全米では四〇人 - サンフランシスコ湾岸地域では一四人 - のノーベル平和質の一候補に指名された。八四歳のユリさんが半世紀以上も孜々営々(ししえいえい)として続けて来た多岐にわたる社会・政治活動が、全米的に周知されたなにより確実な証拠として特筆したい。」

ユリ・コチヤマ回顧録―日系アメリカ人女性 人種・差別・連帯を語り継ぐ
ユリ・コチヤマ回顧録―日系アメリカ人女性 人種・差別・連帯を語り継ぐ

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