首切案の出た当日。事務所では いつに変わらぬ談笑が声高に咲いていた。
さりげない その無反応を僕はひそかに あやしんだが 実はその必要もなかったのだ。
翌朝 出勤はぐんと早まり 僕は遅刻者のように捺印した。
ストは挫折した。小の虫は首刎ねられ 残った者は見通しの確かさを口にした。
野辺で 牛の密殺されるのを見た。尺余のメスが心臓を突き 鉄槌が脳天を割ると 牛は敢えなく膝を折った。素早く腹が割かれ 鮮血がたっぷり 若草を浸したとき 牛の尻から先を争って逃げ出す無数の寄生虫を目撃した。
生き残ったつもりでいた。
『消息』(1957)所収
中村稔さんの解説「吉野弘の詩について」(『ユリイカ』6月臨時増刊 吉野弘の世界)
*段落、改行を加えた
「生き残ったつもりでいた」のは牛であるか、寄生虫であるか、首切りをまぬかれた労働者なのか、作者は語っていない。
声高に談笑していた人々は、見通しよく、首切りをまぬかれた人々だったであろう。
作者は談笑に加われない、首切られる側の人だったであろう。
凄絶に牛が密殺されるのを見ながら、首切りをまぬかれたつもりたったのだが、じつは首切られているのをまだ知らなかった、だけのことである。
これはいわば仲間から裏切られた者が、裏切りを見ている風景である。
だから、吉野さんは人間を知ったのである。
人間通になったのである。
だからまた、吉野さんは人間の寂しさを知る人であった。
郷原宏「やさしい受難者 吉野弘論」(『続・吉野弘詩集』(思潮社、1994)所収
*ブログ記事:【詩歌】吉野弘を読む(3) ~首切案の出た当日~より
ここにはおそらく吉本隆明の「悲歌」とまったく同じ情景が描かれている。同じ近親憎悪がうたわれている。それは労働者の生活にかかわる問題だけに、状況はさらに苛酷であったといってよい。つまり、吉野氏はここで <先を争って逃げ出す無数の寄生虫> どもに対して断固たる訣別を宣言することができた。もうひとつの『マチウ書試論』を書くこともできたはずである。しかし、彼はそうしなかった。ただ黙って内なる絶望に耐えた。 <生き残ったつもりでいた。> という最後の一行が、そのとき彼の耐えたものの重さを物語っている。
誤解を恐れずにあえていえば、ここで吉本氏と吉野氏を分けているものは、二人の学歴と環境の差である。工業大学を卒業して、研究者として会社に入った吉本氏にとって、労働運動はいわば意識の実験場であった。それが実験場であるかぎり、彼は実験の失敗とともに別の世界に <転位> することができた。しかし <根っからのプロレタリア出身者> である吉野氏にとって、労働運動はいわば所与の現実であり、生活と意識の最後の拠点でもあった。したがって彼は、そこで何を目撃しようと、この密殺された牛を見捨てるわけにはいかなかったのである。
派遣労働者を死の淵に追いやる悪法が衆議院を通過した。
ことの重大さに気づかずにいる正規労働者たち。
同じような悪法が形を変えて自分の身の上を襲う日が来るのにも気づいていない。
いまは、生き残ったつもりでいた、のだが・・・。
と、私は読んだ。
で、実は、
気づかないことは、階級としてもしくは層としては、
中村稔さんが言う「裏切り」に、遠い意味では相当することかもしれない。
気づかないことは、階級としてもしくは層としては、
中村稔さんが言う「裏切り」に、遠い意味では相当することかもしれない。
とも、思った。
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