2015年6月22日月曜日

沖縄を知っていますか (『朝日新聞』) 憲法壊すなら自立を選ぶ (仲宗根勇) / 老いて噴き出す「心の傷」 (蟻塚亮二)

憲法壊すなら自立を選ぶ 仲宗根勇
41年生まれ。東大法学部卒。65年に琉球政府職員、92年に簡易裁判所判事に。うるま市具志川九条の会共同代表。14年に新著「沖縄差別と闘う」を出す。

 裁判官を18年務め、4年前に東京簡裁で定年を迎えて、故郷の沖縄に戻りました。退官後は読書三昧の日々を送るつもりだったんです。でも、いま書かないといけない。いまこそ発言すべきだ。そう思い直して、50年ぶりに評論を再開することにしました。

■屈辱の日なのに
 きっかけになったのが、2013年4月28日に東京で開かれた政府主催の「主権回復」式典です。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、敗戦国日本が占領から脱した記念日を祝おう、という安倍政権の発案でした。

 この日、沖縄では1万人が集まり、「ガッティンナラン!」と声を張り上げていたのをご存じですか。「合点がいかない」という、強い怒りを表す琉球語です。沖縄では、この日は長く「屈辱の日」と呼ばれてきたんです。講和条約発効と同時に日本から切り離され、まるで質草のように米国に差し出された日だったからです。

 27年の米軍施政下で、沖縄は大変な思いをしました。基地に土地を奪われ、米兵の暴行事件も相次いだ。私も小学生のころ、近くの畑で米兵にレイプされた女性の死体を見た覚えがあります。私たちを守ってくれる法はなく、まさに丸裸のまま、異民族のむき出しの暴力にさらされたのです。

 こんな日を祝おうなんて、ほんのちょっとの歴史の知識と、人としての良識があれば言えるはずがない。私も集会で声を張り上げながら、心は怒りに震え、涙があふれて仕方ありませんでした。

 新聞や雑誌に時評を書いていたのは、大学を出て琉球政府職員として働いていた60~70年代です。ちょうど沖縄では、「祖国に帰ろう」という復帰運動が盛り上がっていた。「祖国」というとき、多くの沖縄人に光り輝いて見えなのが何だったか、ご存じですか。

 日本国憲法です。

 それは、あこがれに近かったと思います。あの憲法の下に入れば、きっと私たちの人権は守られる。平和な暮らしを取り戻せる。大勢がそう信じていた。

 私は批判的でした。あの激烈な沖縄戦で、私たちは守ってくれるはずの日本軍から食料を奪われ、壕から追い出され、集団自決を迫られた。散々な目にあったはずなのに、そんなに素朴に「祖国」を信じていいのか、と。

■民主主義どこへ
 復帰から43年。あのときの祖国への思いは間違いだった、という苦い思いを、いま多くの人が抱いています。国が米軍普天間飛行場を辺野古に移設しようと、あまりにも強引だからです。沖縄では県知事選も総選挙も、「反対」を唱えた候補が全部勝ったんですよ。世論調査でも7、8割が「反対」です。民意は誰の目にも明らかだ。それなのに、安倍政権は移設作業を止める気配もない。これが民主主義といえますか。

 いま進んでいる安保法制の議論も、平和憲法を破壊しようという動き以外の何物でもない。それが本土では見えないのでしょうか。

 本土でも、理解してくれる人は本当に熱く支えてくれます。辺野古基金に集まった3億円余りのうち、7割は本土からです。

 でも、無関心な人がもっと大勢いる。その無関心が、辺野古移設も安保法制も、安倍政権に好き勝手にやらせるエネルギーになっているんです。そこに悪意はないかもしれない。でも、せめて、もう少し知ってほしいんですよ。

 主権在民。平和の希求。生存権の保障。人類の知恵と英知を詰め込んだいまの憲法は、その内実がいかに空洞化したとはいえ、私は素晴らしいと思っています。戦後の焼け跡で、国民の多くも同じように光り輝いて見えたからこそ、新憲法を歓迎したはずです。

 それを、いま、本当に捨ててしまっていいんですか。もしも改憲していいとなれば、そのとき沖縄は自立の道を選ぶでしょう。私たちが復帰したいと願ったのは、いまの憲法のもとの日本国だったのですから。                            (聞き手・萩一晶)



老いて噴き出す「心の傷」 蟻塚亮二
47年、福井県生まれ。青森、沖縄の病院をへて、2013年から、福島県相馬市のメンタルクリニック院長。著書に「沖縄戦と心の傷」。

 沖縄戦による「心の傷」について注目するようになったのは、偶然でした。

 青森県弘前市で精神科医として働いていた2004年、過労からうつになり、友人のいる沖縄に移住しました。6年後、南部の勤務先の病院で、「奇妙な不眠」を訴える患者さんが相次ぎました。「夜中に何度も目が覚めるんです」。診察してみると、うつ病ではない。これはなんだろう、と。

 片っ端から文献を読んでいくなかに、アウシュビッツの収容所を生き延びた人々への聞き取り調査がありました。そこに、過覚醒型不眠という、まったく同じ症状を見つけました。

 私は「沖縄戦の時、どこにいましたか?」と患者さんに聞いてみることにしました。すると、「米軍の爆撃によって目の前で肉親を殺された」 「日本軍にガマから追い出された」 「集団自決で生き残った」「死体を踏んで逃げた」……。そうした苛烈な体験が次々と語られたのです。

■風化しない戦時
 戦場の光景がよみがえるフラッシュバックや、運転中にどこにいるかわからなくなるという解離性障害など、1年たらすで事例は100を超えました。脳に刻み込まれた生物学的な記憶は風化しないのだ、と知りました。

 なかでも印象的だったのは、「足の裏が熱い」という当時70代の女性です。職場でのストレスやお父さんの死が重なった55歳ごろから足の痛みが出て、外科手術をしたり、中国で鍼を打ったりしたものの治らず、原因もわからないというのです。

 14歳の軍国少女だった彼女は「戦場を逃げ惑うなか、いくつもの死体を踏み越えた罰だ」と自らを苛んでいました。精神的なストレスが体に現れる身体化障害とみて治療すると、1年ほとで痛みは消えました。

 米軍の本土上陸を防ぐための「捨て石」とされた沖縄では、住民の4人に1人が亡くなりました。死者を抱える身内への配慮から、あるいはつらずきる過去を遮断するため、多くの人が口を閉ざしました。大人になってからは日々の暮らしに追われ、沖縄戦のトラウマは脳の奥にしまわれたままになっていたのでしょう。

 その「寝たふりをしていた記憶」が、年を重ね、人生の来し方を振り返る時期と重なり、ふとしたきっかけで「熱い記憶」として顕在化したのです。

 年月を経てから発症することから、私は「晩発性PTSD(心的外傷後ストレス障害)」と名付けました。アメリカでも戦争帰還兵のPTSDなどを診断する際、基準を満たすまで何年もかかることがあるとされています。

 沖縄は戦後、米軍が占領し、72年にようやく日本へ復帰したものの、基地は残りました。ベトナム戦争では米軍の出撃拠点となり、離着陸を繰り返す米軍機の騒音、米兵による事件事故がいまも絶えません。少女暴行事件は95年にも起き、04年には沖縄国際大に米軍ヘリが墜落しています。

 米軍の輸送機オスプレイが飛ぶようになってから調子が悪くなった、と訴える高齢者もいます。心の傷がかさぶたになりきらず、傷口が開いたままになっている、と言えるでしょう。苛烈な体験をした人ほど刺激に反応しやすく、そのたびにトラウマが引き出される。これを「雪だるま効果」と私は呼んでいます。

■まだない「戦後」
 いま、辺野古に新たな米軍基地が建設されようとしています。朝日新聞による沖縄戦体験者への調査では、沖縄が再び戦場になる可能性について、65%の人が「ある」と答えました。恐怖や絶望、悲しみを刻み込まれているからこそ、本土とは比べものにならないリアリティーをもって戦争の影を感じているのです。それが怒りのマグマとなっています。

 本土では「戦後70年」と言いますが、沖縄にはまだ「戦後」はありません。 
                                (聞き手・諸永裕司)




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