ゴヤ『着衣のマハ』1803-6 プラド美術館
ゴヤ『裸のマハ』1803-6 プラド美術館
着衣のマハと裸のマハ -。
この二枚の、あまりに有名、あるいは悪名のみ高くなってしまった女性像ほどにもゴヤ研究者や、正確を期した伝記作者を困惑させるものは、他にないようである。大多数の素人がこの二枚のマハ=アルバ公爵夫人という伝説をぶりまわして玄人を困らせることは当然としても、たとえばフォルケ・ノルドストレーム氏のような目配りのたしかな研究者などは、この二枚の傑作について一言も触れないという極端なことになっている。あるいはまた、別の研究者は、モデルがアルバ公爵夫人ではない、ということの証明に全力をあげ、その結果くたびれ果てたか、絵そのものについてはほんの一言か二言を言っておしまいにするという、これも極端なことになる。そうしてゴヤを小説に書こうとする人は、どうしてもこの裸女がアルパ公爵夫人であってくれなければ読者に対して申し訳がないことになる。先年、フォイヒトヴァンガーの小説にもとづいて、東独とソ連が協力して作った映画も、やはりそういうことにしてしまった。そうしないと恰好がつかないのである。また私の経験でも、この絵の話になると、途端に不機嫌になる研究者もいたものであった。
しかし、恰好がつこうがつくまいが、私もまた無愛想にモデルはアルバ公爵夫人ではない、と言わざるをえない。・・・
・・・当時の時代の要請として、こういう作品が成立し得たその条件についてだけは少しのことを記しておかなければならない。・・・事実は逆であった。時代は決してこのようなむき出しのエロティシズムを要求してなどいなかったのである。むしろ徹底してそれを禁圧していた、特にスペインにおいては。まだまだ異端審問所が健在であった。・・・
だから、こういう徹底してのエロティシズムを描き切るためには、それを描く芸術家の側において、たしかな安全保証がなされていなければならない。・・・
この横長な(95×190cm)、ほとんど両者同寸の絵は、一対として、二枚重ねて開き扉かカーテンの下の壁か、キャビネットのなかに納められていたもののようである。開き扉、あるいはカーテンを引きあげると、まず着衣のマハが出て来る。ついで、絵の傍のボタン、あるいは何等かのハンドル様のものを操作すると、絵は交替して、今度は裸のマハがあらわれる。そういう仕掛けになっていたものと推定される。・・・
従ってこの二枚の絵を、注文主以外で見せてもらえる人は、特権的な、あるいは特別な内輪の人、ということが考えられて来る。
第一は、この絵と特殊装置のそなえつけられた邸館そのものに入れてもらえる人、第二にその部屋へ入れてもらえるほどの人、第三には、開き扉、あるいはカーテンを引きあけて着衣のそれを見せてもらえる人、そうして最後に、裸のそれを窮極的に開帳してもらえる人、である。
見る人、いや、見せてもらえる人についてさえこれだけの段階が想定されるとすれば、注文主のスペイン社会内における地位は、ほとんど最高のそれでなければならない。加えて、これだけのものを注文するとなれば、注文主自体、相当以上の好き者でなければならぬことにもなる。
またその上で、こういう”艶画”・・・についての噂がたとえ巷に流れたとしても、異端審問所から本人自身と、画家の双方を守り切れる人でなければならない。
当時において、そういう安全保証を与え、かつ自任しうるほどに強力無比な権力者とは誰であろうか。それは言うまでもなく青年宰相にして、同時に、上は王妃から下は総理大臣私室に寵を求めて訪れて来る庶民の娘にいたるまでを相手にしうる、好色にして精力にみちたマヌエル・ゴドイその人以外にはありえないであろう。
・・・
一社会におけるエロティシズムは、いつの時代にも政治との、緊張した関係のなかにあるものであった。
まず、着衣のマハであるが、小さなボレロ様の長袖の下に、ぴったりと身についた白い寒冷紗のシュミーズをまとい、赤のサンテュール(腰帯とでも訳すべきか)で腰を締めている。この白い寒冷紗があまりにぴったりと肉体につきすぎているために、下半身、股の部分はアラビア・ハーレム風にパンタロン形式になっているものと解した人もいるようであったが、そうではなく、これはあくまでもシュミーズなのであった。そうして、金の飾りつき白繻子の靴をはいている。髪は「裸の……」の場合と同じく、一九世紀初頭の流行に従って額に垂れ下り、紅を掃いた頬の、その上の半月型の眉の下の眼は、凝っと彼女を見る人を求めているのである。裸のそれは靴を脱いでいる!
ポーズもセッティングも、あたかも外光の下で描かれたかのような光源も、二枚ともまったく同じなのであるけれども、二つほど違う点が認められる。その一つは、着衣のそれが、あたかも画家に、あるいは見る人に挑みかかるかのように、マハ自身、ぐっと拡大されて前方へ、つまりは彼女を見る人の方へと押し出され、身をのり出して来ていることである。二つ目は、裸のそれの場合よりも、量塊が輪郭に優先しているために、着衣の肉体が強くはげしい呼吸をしているかに見てとれるのである。また頬に紅を掃いているとはいえ、顔全体の紅潮の度合は、着衣のそれの方がずっと高く、裸のそれは、紅の部分は別として、血紅はすでに引いて行ってしまっている。
そうして裸のマハの方は、一糸まとわぬ裸身であるにもかかわらず、着衣のそれと比べれば(前景など何もないにもかかわらず)、前景から奥へと身を引いて行っているという印象を与える。しかもその眼は、着衣のそれと同じく彼女を見る人を見ていることでは同じであるが、着衣のそれとは異って、その眼にかすかな嘲りが、従って内省と羞恥への端緒が宿っているかに思われる。肉体の輪郭もまた静穏な落着きをもっていると見られる。
ところで、物議をかもしはじめたその起点は、やはりその顔に、特に半月型の眉と眼にあった。着衣のそれはとりわけて、ゴヤが若年の頃のタピスリーのカルトンに描き込んだ、美化された上でのアルパ公爵夫人に似ている。特に『目かくし遊び』や『プランコ遊び』に描き込まれた夫人に、それは事実似ている。またサンルーカル画帳と呼ばれるスケッチ集にも、これに似たポーズの二人の女性像がある。さらにもう一つ、長椅子にクッションをかさねて上半身をそれにゆだねたポーズのせいがあって、首というものがほとんどなく、あたかも顔をじかに真珠母色の胴体にはめ込んだ恰好になっているために、後になってから、もとの顔の上にもう一つの顔を描きかさねて、つまりは首をすげかえたのではないか、という疑問が生じた。が、X線検査によってその疑問は否定された。
しかし、いずれにしてもこの二人の - 実際は一人なのだが - Maja desnuda には名前がない。ゴヤは生前すでに、異端審問所から呼び出しを食うほどにも悪名高いことになってしまって、この二枚の傑作のモデルが誰であるかを、画家は決して公言しなかった。・・・
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人類の女性、女というものが、他の何者でもなくてまことに女として、鑚仰し憬れるべき女神でも、聖処女などというものでもなく、性をそなえたまるのままの女、その女体がまことに裸の女として、性を肉体の表情として描かれたのは、おそらく絵画の歴史にもはじめてのことであった。ここには、後年のいわゆる裸体画に見られるような、その女性の個性や、たとえばロートレックのそれに見られるような、その肉体の生活、歴史などを思わせるものもなければ、画家に独自な観念表現の具になっているということもない。
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・・・ここに描かれたものはまちがいなく女性の、というよりは人間の、性そのものである。
そうして観念ということを言い出すとすれば、ここにあるものは、特に裸の方のそれに感じられるものは、奇異な言い方ととられるかもしれないが、いわば一種の中立性のようなものである。・・・
さもあらばあれ、この二枚の裸の女性図によって、生まの、裸の(In naturalibus)女性についての美的認識が開始され、しかもいわゆる裸体画なるものは、ほんの短い、一五〇年ほどの歴史を経て、二〇世紀中葉にいたってその歴史を閉じるのであるらしい。絵画は爾今何を描こうとするのであるか。
しかし考えてみれば、認識というものは、それが完壁に認識されかつ表現されたその瞬間に、それはもう環を閉じて終結、あるいは完結をするものなのかもしれない・・・
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この二枚は、一八〇八年にマヌエル・ゴドイがカルロス四世夫婦ともどもにスペインから永久に追放されたとき、ベラスケスの『ヴィーナス』とともにゴドイの家の財産目録に掲示されていた。後者はアルバ公爵邸から略奪して来たものであった。
モデルは、ゴドイの妾のペピータ・ツドォであろう、というのが、妥当なところであろうと思われる。
ところが、あるときに私はマドリードで、サンチェス・カントン氏亡きあとの、現代でのゴヤ研究の第一人者である某氏と雑談をしていたときに、この某氏が、ふと、モデルはレオカーディア・ウェイス夫人ではないかと思う、と洩らされて私をびっくり仰天させたことがあった。レオカーディアはゴヤ晩年の伴侶である。他人の奥さんではあったが、一八一二年のホセーファの死以後、ゴヤの事実上の妻となるひとである。
この推定は、某氏としても、未確認は言うまでもないとしても、未発表のものであり、従って氏の名を書くことは遠慮しなければならない・・・。
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