双方でどういう議論・論争があったかは不明だが、例えば「虐殺」された人の数という点では、双方の見解の違いは違いとして示されているところをから見ると、少なくとも「虐殺」があったのかなかったのかというレベルの議論・論争はなかったように推測できる。
本来ならば、この時の共通認識なり相互理解なりの上に立脚して、次のフェーズに移行してもよさそうなんだろうけど、現状ははるかに後退した位置にあるように思える。
報告書は、外務省HP内の中国の項の「アーカイブ」にある「平成22年 日中歴史共同研究」にPDFで格納されている。
■共同研究の概要
■報告書(PDF)
日本語論文
翻訳版
■全体構成(目次)
<近現代史>
第2部第2章が「南京虐殺事件」を扱っている箇所
■<近現代史>第2部第2章
第 2 章 日中戦争 - 日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄 庄司潤一郎
(表題部)
(南京虐殺事件に関する箇所)
4)南京攻略と南京虐殺事件
参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対していた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた。
11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中のトラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。
(略)
中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しか
し、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。
(略)
■第二部 第二章 日本の中国に対する全面的侵略戦争と中国の全面的抗日戦争 栄維木
(表題部)
(南京虐殺事件に関する箇所)
4.南京大虐殺
日本軍は上海を占領した後、引き続き西に進み、国民政府の首都南京を脅かした。11月20日、国民政府は首都を重慶に移して、抗戦を続けると宣言した。26 日、国民政府は唐生智を南京守衛部隊司令長官に任命し、13個の編成師団と15個の連隊合わせて15万あまりの兵力を指揮下におき、南京の防衛に当たらせた。12月1日、日本の大本営は正式に「大陸命第8号」命令を下し、「華中方面軍司令官は海軍と協力して、敵国の首都南京を攻略せよ」と命じた。3日、日本の上海派遣軍と第10軍をあわせた10万人余りの兵力は、飛行機、戦車と海軍艦隊の援護で、兵力を三つのルートに分けて南京包囲作戦計画を実施した。中国守備軍は勇敢に抵抗したが、12日に日本軍の強力な砲撃を受けてやむをえず包囲網の突破作戦を実施した。13日、南京は陥落した。
日本の海軍が南京附近の揚子江を封鎖した後、中国守衛軍はほとんどが包囲網を突破できずに捕虜となった。日本軍は後方支援の準備が不十分で、捕虜の数が多すぎるために安全面を憂慮し、いくつかの部隊で「基本的に捕虜政策を実施せず」、大量の中国軍人が捕虜になった後、日本軍に集団で虐殺された。・・・
(略)
日本軍の南京における放火、虐殺、強姦、掠奪は、国際法に著しく違反していた。第二次世界大戦終結後、連合国は東京で、中国は南京でそれぞれ軍事法廷を設けて、南京大虐殺事件に対して審判を行った。極東国際軍事裁判所での判決書の認定によれば、「占領されてからの最初の一カ月に、南京城内では2万件余りの強姦事案が発生した」、「日本の軍隊に占領されてからの最初の六週間で、南京城内と附近の地域で虐殺された民間人と捕虜の数は20万人を超える」。南京国防部軍事裁判所は、南京大虐殺において集団で虐殺された人数は19万人以上にも上り、他に個別に虐殺された者が15 万人以上おり、被害者総数は30余万人であると認定した。
0 件のコメント:
コメントを投稿