2017年1月10日火曜日

ピカソ《ゲルニカ》《科学と慈愛》 (『美の巨人たち』2016-12-17メモ) 《接吻》1925年(43歳) 《アンブロワーズ・ヴォラールの肖像》1910年(28歳) 《アヴィニョンの娘たち》1907年(25歳) 《マラガ港の眺め》1890年(8歳頃) 《帽子をかぶった男》1895年(13歳) 《自画像》1901年(20歳) 《若い画家》1972年(90歳)

ピカソ《ゲルニカ》《科学と慈愛》 (『美の巨人たち』2016-12-17メモ)

《ゲルニカ》1937年(55歳)

1937年4月、ピカソはスペインからパリ万国博覧会のパビリオンに飾る壁画の依頼を受け、パリに居るとき、ゲルニカ空爆を知る。
フランコの反乱軍を支援していたドイツのヒトラーが、スペイン北部の古都ゲルニカを空爆。街は壊滅し市民数千人が殺害された。
このニュースを聞いたピカソは膨大なスケッチを描き、縦3m49cm、横7m77cmの巨大な「ゲルニカ」を制作する。
白と黒とグレーだけの絵画。
「ゲルニカ」は、「戦争と暴力を告発した時代の黙示録」「20世紀の芸術を変えた一枚」と呼ばれてきた。

ピカソほど作風を変えた画家はいない

《接吻》1925年(43歳)

ピカソ、シュールレアリズム時代の代表作。
息ができないほどの苦しさで男と女が絡み合っている。
毒々しいまでの原色の色彩。
グロテスクを突き抜けてユーモアさえ醸し出している。

女性を愛するとき
われわれは
その手足を測ることから始めるわけではない

われわれは
欲望によって愛するのだ
(ピカソ)

《アンブロワーズ・ヴォラールの肖像》1910年(28歳)

ピカソ、キュビズム時代の傑作。
人物も背景という対象を解体し、並べ替えて複数の角度からとらえると、
様々な側面を持つ人間の真の姿がみえてくる。

《アヴィニョンの娘たち》1907年(25歳)

この一枚から20世紀の絵画が始まったといわれている。
裸の娘たち、身体はねじれ、顔は歪んでいる。
遠近法も明暗もない。
従来の美の基準とされてきたものは何もない。

私の場合
一枚の絵は
破壊の集積である
(ピカソ)


ピカソはスペイン南部の港町マラガで生まれた。
父親のホセ・ルイス・ブラスコは画家で美術教師。

《マラガ港の眺め》1890年(8歳頃)

《帽子をかぶった男》1895年(13歳)

《帽子をかぶった男》
地元の新聞に「この少年には栄光の未来が約束されている」と書かれる。

ピカソの妹コンチータがジフテリアのために亡くなり、
妹を救ってくれるなら絵の才能を捧げると誓ったピカソは、
「妹は死をもって自分を画家にしてくれた」と考えるようになる。

1895年、一家はバルセロナに移り、父はバルセロナの美術学校に職を得た。
ピカソもこの学校へ入学し、
父は14歳のピカソに専用のアトリエを与えた。

《科学と慈愛》1897年(15歳)

医者(科学)と尼僧(慈愛)が象徴する《科学と慈愛》はコンクールに出展するために父親が選んだ主題。
15歳のピカソは驚異的な技巧で生命の終わりを描ききった。
論争の末に、《科学と慈愛》は選外佳作となり、
その後、マラガ県のコンクールでは金賞を獲得した。

《科学と慈愛》下絵

ピカソはこの下絵を亡くなるまで大事に保管していた。



私は子供らしい絵を
描いたことがなかった

子供たちのように
描けるようになるには
一生かかった
(ピカソ)

《自画像》1901年(20歳)



《若い画家》1972年(90歳)

亡くなる前年の自画像《若い画家》。
ピカソの到達点。



0 件のコメント: