『朝日新聞』2017-08-18
戦争を語る【3】
韓国人元戦犯の闘い
韓国人元BC級戦犯 李鶴来さん
日本人として動員
捕虜監視の軍属に
苦しんだ死刑判決
この夏も、国会を、市民集会を、90歳を超えた男性が歩いている。
第2次大戦中の日本軍軍属で戦後、連合軍の裁判により捕虜虐待の罪で死刑判決を受けた元BC級戦犯、李鶴来(イハンネ)さん(92)だ。
いまも日本政府に謝罪と補償を求めてあきらめない。
ー 映画「戦場にかける橋」で知られ、戦争中、タイ・ミャンマーを結ぶ泰緬鉄道の工事で、ヒントク捕虜収容所の監視員をしていましたね。過酷な労働で、捕虜5万5千人のうち1万人以上が死亡しました。
「私は日本軍の軍属でした。下士官が足りず、朝鮮人6人で捕虜約500人を管理した時期もあります。私が世話役で、現場の鉄道隊からの要求を受け、出動を指示していました。人数が足りないと、『病人も出せ』と。密林での労働はきつく、食糧や医薬品も足りず、多くの捕虜が亡くなりました。日本軍の体制の問題ですが、身近な私たちが憎まれました。戦争が終わって、故郷に帰れると思っていた私は、B級戦犯としてタイで逮捕されたのです」
《戦後、捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪(B級)」、一般市民の虐殺など戦争行為以外の「人道に対する罪(C級)」に問われ、日本軍の軍人軍属5700人が横浜、シンガポール、マニラなどで裁かれた。900人以上が処刑されている。刑死者の数は、侵略戦争を開始した「平和に対する罪」で元首相らA級戦犯が裁かれた東京裁判の7人をはるかに上回る。また戦犯裁判には、戦勝国による「報復」という批判も根強い。》
ー 取り調べも厳しかったそうですね。
「私を管理将校とするなど起訴状に間違いも多く、釈放されましたが、香港で再び逮捕されました。食事は1日2食でトウモロコシの粉などを水に溶かしたものや、ビスケットだけ。暴行もありました。公判は2日間。判事も検事もオーストラリア人でした。私を告訴した9人の捕虜は帰国し、反対尋問もできませんでした。わずかな審理で、判決は『デス・バイ・ハンギング(絞首刑)』。頭の中が真っ白になりました」
「死刑囚の監房に移され、いろんな人を見ました。『君たちまで道連れにして申し訳ない』と元中将は部下にわびていました。朝鮮人の友人は『そんなに悪い人間じゃなかったと伝えて』と言い残しました。最後に『皆さん、元気で』と言って連れ出されていく。我々は『元気でいけよ』と。そして、『がたん』という音。その後は、深い静寂でした」
ー その生活が8ヵ月続いたのですね。
「いつ自分の順番が来るのか、花壇の赤い花が咲くまで生きているだろうか。日本人なら無理にでも『日本のために死ぬ』と考えたでしょう。でも私は何のために、誰のために死ななければいけないのか。苦しかった。捕虜虐待などで戦犯にされた朝鮮人148人のうち23人が処刑されました」
「その後、懲役20年に減刑されました。理由は、はっきりしません。釈放後の再逮捕という経過から、裁判所に『死刑は重すぎる』という判断があり、弁護士も減刑を働きかけてくれたようです」
■ ■
外国籍を理由に
援護なき不条理
謝罪求め続ける
ー なぜ、捕虜監視員に応募したのですか。
「戦争のはじめ、日本はマレー半島やフィリピンなどで大勝し、30万人もの捕虜を得たため、監視員が足りず、急きょ朝鮮で3千人、台湾でも募集しました。農家に生まれた私は面事務所(村役場)から『受験しろ』と言われました。2年の約束で給料も出すと言われ、徴兵や徴用よりまし、と考えたのです。17歳でした」
「2ヵ月の教育は軍事訓練ばかり。銃の使い方、行進、毎日のビンタ……。命令は絶対服従です。靴までなめさせられた。『生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ』という戦陣訓を暗唱させられましたが、捕虜の人道的扱いを定めたジュネーブ条約は教えられませんでした」
「監視した捕虜は体の大きな西洋人です。ビンタ教育を受けた私は、たしかにビンタもしました。でもビンタが死刑に値しますか」
ー 1951年8月、東京の巣鴨プリズンに移されました。
「横浜港には、日本人戦犯の家族が出迎えに来ていた。私にとっては初めての日本。翌年、サンフランシスコ講和条約発効で日本が独立すると、外出も出来るようになった。中で数学や英語を勉強し、車の運転免許も取りました」
「日本社会は戦犯に同情的でした。歌手の美空ひばり、プロ野球の川上哲治らが慰問に来ました。朝鮮人の所には誰も来ませんでしたが、ある耳鼻咽喉科医が私たちの存在を知り、交流が始まりました。釈放後の生活のため、タクシー会社を起こした時は、資本金200万円を出してくれました。そんな日本人もいたのです」
ー 講和条約と同時に朝鮮、台湾人は日本国籍を失いました。
「条約には『日本は、日本で拘禁されている日本国民に刑を執行する』とあります。それなら、なぜ私たちは拘禁され続けるのか。台湾人と一緒に提訴しました。けれども、いきなり最高裁が『刑確定時は日本人だった』などとして棄却。私の出所は56年でした」
「日本政府は旧軍人軍属や遺族に対し、援護や恩給支給を始めました。戦犯にも適用した。でも外国籍の私たちは対象外でした。日本に身よりもなくどうやって生活するのか。ある友人は出所を拒否し、2人が出所直後に自殺しました。55年4月、約70人で『韓国出身元戦犯者同進会』を結成し、補償を求める運動を始めました」
ー 日本政府は65年の日韓協定で対日請求権は消滅し、この問題も解決済み、という立場です。
「私たちは日本人として動員され、罪に問われ、死刑や長期刑を科されました。精神病を発症して、亡くなった友人もいる。一方で刑死者は靖国神社に合祀され、取り下げはだめだという。ある時は日本人、ある時は違う。あまりに不条理です」
「ただ、当初は政府も高圧的ではなかった。首相官邸前に座り込んでも排除しませんでした。さすがに『ひどい目に遭わせた』という負い目があったのか。鳩山一郎首相は直接、話を聞いてくれ、政府の窓口も決め、『善処する』と約束しました。生活支援の財団が作られ、旧朝鮮総督府の元幹部が会長になりました。保守系を含め理解者がいました」
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ー 近年、韓国での運動が活発です。
「韓国では『親日派』扱いで、声を上げにくかった。私たちも祖国の復興に貢献できず、負い目がありました。でも2005年、日韓協定交渉の外交文書が公開され、『戦犯問題は別途協議する』とされていたことが分かった。『解決済み』ではなかったんです。韓国政府も06年、『強制動員の被害者』に認定し、名誉回復してくれました。感謝していますが、さらなる日本政府への働きかけを求め、14年に韓国の憲法裁判所に訴えています。遺族も韓国で『同進会』を結成しました」
ー 日本でもようやく議論が本格化しつつあります。
「日本政府を相手に91年、補償と謝罪を求め、提訴しました。敗訴でしたが、最高裁も判決で『深刻な被害』を認め、立法府に問題解決を促してくれたんです。民主党(当時)が動き、08年に関連法案を国会提案。いま再び、超党派国会議員連盟が法案を作り、次の国会での成立をめざしています」
《朝鮮半島や台湾出身の元BC級戦犯計321人に対して「人道的精神に基づき」、1人260万円を支給する法案。必要額は2億5千万円。あの戦争の処理はいまも尾を引き、日本のあり方を問うている。先の国会でも、提案に至らなかったが、民間の空襲被害者の救済立法も検討された。》
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ー ご自身も加害者、として発言されています。
「91年、オーストラリアで開かれた泰緬鉄道をめぐる元捕虜、研究者らのセミナーに参加しました。そこで『加害者側の一員として、心からおわびしたい』と言いました。直前まで参加を迷っていた。元捕虜の告訴で友人たちは処刑され、私も死刑判決を受けたのです。ただ、ひどい目にあった元捕虜からみれば、私も加害者の側だろう、そう考えたのです」
「にらみつける元捕虜もいましたが、握手もできました。その一人が外科医で作家のエドワード・ダンロップさんです。彼は収容所時代の日記を戦後、発表し、私を『トカゲ』と呼び、『本当に心の小さいやつだ』と書いています。でも私が死刑判決を受け、戦後帰国できなかったことは知らなかった。『自分にできることはないか』と伝えてくれ、感動しました。再会の時、私が『ノー・モア・ヒントク、ノー・モア・ウォー』と刻んだ時計を贈ったら、彼から、許す、と手書きした著書をもらいました。勇気をもってオーストラリアに行き、謝罪してよかった。2年後、彼が亡くなるまでやり取りした手紙に、あの時計のことがいつも書いてありました」
(聞き手 編集委員・伊藤智章)
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