2018年1月8日月曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(11) 第二章 スペイン領中南米地域 Ⅰメキシコ(2終)

千鳥ヶ淵戦没者墓苑
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スペイン語の文献により明らかになった日本からメキシコへの渡航者
1609年、フィリピンの元総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・べラスコがメキシコへ戻る際、太平洋沖で座礁し、ガレオン船サン・フランシスコ号が房総の御宿に漂着した。ドン・ロドリゴは、同地の領主本多忠朝から歓待を受け、駿府にいた徳川家康にも紹介された。家康は家臣のイギリス人三浦按針に船を建造させ、これにドン・ロドリゴ他船員を乗せてメキシコへ送った。
1610年8月、船長田中勝介ら日本人23人が乗船し、サン・ブエナベントゥーラ号と名付けられたその船はアメリカ大陸に向けて出航した。ナウ族出身のメキシコ年代記家ドミンゴ・チマルパインは、日本人23人のうち17人が、ドン・ロドリゴ救援に対する返礼の使節として、国王フェリペ3世が送ったセバスティアン・ビスカイノらと共に、メキシコからガレオン船で日本へ帰った、と記している。チマルパインは日本人3人がメキシコに残留したとも記している。残りの3人は死亡したのかもしれない。

ビスカイノ使節と慶長遣欧使節
返礼使節セバスティアン・ビスカイノには、日本とスペインの友好親善の名目で徳川秀忠に謁見し、ドン・ロドリゴが家康から借りた4000ペソを返済するという目的の他に、日本近海にあると言われる金銀島を探検・発見し、また金銀豊かな島である日本列島の地図を作成するという目的があった。
1611年3月、ビスカイノはアカプルコを出発し、2ヵ月半かけて浦賀港に到着、日本国内に2年間滞在した。

そして、1613年10月28日、セバスティアン・ビスカイノ、フランシスコ会士ルイス・ソテロ、日本人約180人らはサン・フアン・パウチスタ号でアカプルコに向けて出港した。この航海は、慶長遣欧使節として知られ、日本の使節団長は伊達政宗の家臣支倉六右衛門常長であった。
1614年1月25日、船はアカプルコに到着し、一行はすぐにメキシコシティに向かった。アカプルコには日本人約80人が滞在し、支倉の帰りを待つことにした。

1614年3月24日、使節団は正式にメキシコシティにおいて副王以下、スペイン当局に謁見した。同時に、日本において教会が破壊され始め、殉教者が出ているという知らせが、メキシコシティへ届いた。カトリックへの忠誠心を示すため、多くの日本人がサン・フランシスコ教会で受洗した。支倉常長は日本人随行員20~30人と修道士ルイス・ソテロと共にスペインに向けて出発した。日本人凡そ120人以上がメキシコに残留し、費用負担軽減のため、翌年日本へ戻された。

スペイン、フランス、イタリアを回った一行の中には帰国せずに、セピーリヤ近くの町、コリア・デル・リオにそのまま滞在し続けた者もいた。
1616年、一行はスペインの港、サンルーカル・デ・バラメーダを出発し、1617年にメキシコに帰還した。アカプルコに残っていた日本人の多くは、マニラ経由、ガレオン船で日本へ戻った。残った者のうちの少数は現地で結婚し、子をもうけ、港近くに住み、残りはヌエバ・エスパーニャ内地へと向かった。彼らの大半の行方は不明だが例外もある(後述)。

1618年6月20日、支倉使節はようやくマニラへ辿り着いが、日本での禁教政策の詳細情報がマニラに伝わっており、しばらく滞留を余餞なくされ、1620年9月22日に長崎に辿り着いた。
支倉使節の興味深いところは、日本人180人が仙台藩月の浦を出航しが、随行員が続々と減少したことにある。多くが航海中あるいは異郷で病没した可能性が高いが、スペインに残留した者(後述)、メキシコに残留した者も相当あった。メキシコに残留した者のうち、詳細が判明する者も若干いる。

グアダラハラの福地源右衛門
メキシコ中央部のグアダラハラはヌエバ・エスパーニャにおいて、メキシコシティ、アカプルコに次ぐ重要都市で、そこには1624年~42年、小さな日本人コミュニティがあった。
福地源右衛門(スペイン名ルイス・デ・エンシオ)に関する記録の最初のものは、1624年2月付のアワカトラン(現在メキシコ南東部ナヤリット州)にいる日本人の洗礼記録(1620年に洗礼を受けた)である。

ルイス・デ・エンシオは、1595年生まれ、出身地は仙台藩福地村(現在石巻市福地)と推定される。慶長遣欧使節に関する史料では確認できないが、おそらくその随行員としてメキシコに到着し、他の日本人と共にメキシコへ残ることになったと思われる。
彼は「ブホネロ」(「行商人」)と呼ばれていた。これは後述する他の日本人ドン・ディエゴ・バエズとドン・ディエゴ・デ・ラ・クルスの職業とも一致する。アワカトランで、ルイス・エンシオは現地のインディオ女性カタリーブ・デ・シルバと結婚し、2人の間には、一人娘マルガリータ・デ・エンシオが生まれた。
数年後、一家はグアダラハラに移住し、1634年、フランシスコ・レイノーゾとの共同経営により、自分の最初の店を開いた。
1647年にはフランシスコ・デ・カスティーリャ・チーノ(当時は日本人もチーノと呼ばれることがあった)と共に店を開き、その地で日本人フアン・デ・バエズに出会った。

フアン・デ・パエズは1608年に大坂で生まれ、1618年、アメリカ大陸へやってきた(凡そ10歳でおそらく奴隷か奉公人として売られたのであろう)。そして、グアダラハラで1635年~36年の間にルイス・デ・エンシオの娘マルガリータと結婚し、ルイス・デ・エンシオの婿となった。

滝野嘉兵衛
また支倉常長の護衛隊長ドン・トマス・フェリペ・ハボン(滝野嘉兵衛)はスペイン国王フェリペ3世の宮廷で洗礼を受け、スペインに留まる決心をしたが、1623年にはメキシコに向かった。以降の彼の足取りは途絶えている。

メキシコ社会に散在する日本人
修道士ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ
1615年、この修道士はアカプルコから日本に向けて出発した。日本に到着後、ヌエバ・エスパーニャへ戻る予定であったが、その際、日本人を乗船させてはならないと禁じられていたにもかかわらず、日本人商人数名が隠れて船に乗り込み、新大陸へ渡った。この人々のそれから先の運命については情報がない。

年代は不明だが、日本人の自由民ルイス・デ・ラ・クルスは、メキシコの王立大審問院に対し、自分の商売で、商品の輸出入をおこなう許可を求めている。

日付は不明だが、ドン・ディエゴ・バユズとドン・ディエゴ・デ・ラ・クルスという日本人2人が、メキシコ市の書記官に対し、(近距離の)航海をおこなう許可を求めている。2人とも「ブポネロ(行商人)」の職にあり、共同事業者であった。

日本人フアン・アントニオ・ハボンは1624年2月3日付で、メキシコの王立大審問院の聴訴官(オイドール)を手伝った報酬として、5000ドゥカドを国王から受け取ることになった。
同一人物であるかは不明であるが、同じフアン・アントンという名の日本人に関する記録が、1631年頃のものとしてある。彼はもともと、ドン・フアン・ビスカイノという名の黒人の奴隷であったが、100ペソの支払いを条件に解放された。

1644年、グアナフアトのサルパティエラ侯爵(ガブリエル・ロペス・デ・ベラルタ)が、フランシスコ・デ・カルデナスという日本人に、グアトゥルコ港(現在のオアハカ)における火縄銃の使用許可を与えた記録がある。この許可は、敵との戦いに参戦したことへの謝礼として与えられたものであった。

16世紀半ば以降、多くの日本人がポルトガルとスペインの商業ネットワークの中で奴隷としてアメリカ大陸へ運ばれた。彼らは、運ばれる道中でキリスト教に改宗し、日本人名は捨てられ、ポルトガル人やスペイン人のような名前に変わってしまったので、資料から彼らの出身や来歴、生活の詳細を描き出すのは、ほぼ不可能である。部分的に、日本人という属性が示されることがあるので、彼らがメキシコ社会の形成初期に存在したことは確認できるが、彼らの生涯を継続的に観察するのは、ざわめて困難な作業である。




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