2018年6月7日木曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート05 (明治35年)

鎌倉の街角にて
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明治35年
黄興(28歳)の来日
黄興(28歳)は、湖北省派遣の官費留学生10名のうちの1人として来日し、清国留学生のための日本語学校、弘文学院速成師範科の第一期生になった。

1874年、湖南省の名門の家に生まれ、名を軫、号を克強という。19歳で科挙の試験に合格して「秀才」の称号を得て、湖広総督張之洞の設立した両湖書院で学び、外国人教師ティモシー・リチャードの西洋近代史の講義を受けて、革命の志を立てたという。
辛亥革命では10度もの熾烈な戦いの最前線で指揮を執り、辛亥革命が成功して中華民国臨時政府が樹立すると、請われて陸軍総長に就任する。

弘文学院は、開設初年度に20余名の清国留学生が寄宿生になった。黄興(黄軫)の同期生には、魯迅(周樹人)、横浜華僑の文学者で後に僧侶になった蘇曼殊の従兄・蘇維翰、中国共産党創設メンバーで中心的存在・李漢俊(李人傑)の兄で国民政府軍の重鎮となる李書城など、錚々たる人物がキラ星のように名を連ねている。

黄興の留学は「一時避難」の意味合いが強かった。
清国は1900年の義和団事変での巨額の賠償金のため国力は衰退の一途を辿っており、開明派官僚や知識人は政治改革を模索し、激した青年たちは政府転覆を図って全国各地で暴動を企てた。
湖南省でも、秀才で有名な唐才常が清朝政府から独立することを主張して「自立軍」を組織し、武装蜂起を企てたが失敗し、唐才常は処刑された。唐才常に呼応して蜂起しようとした黄興は機を逸し、再起を図って準備する間、しばらく日本で新知識でも得ようと来日した。
しかし、設立したばかりの弘文学院は、教育方針も経営方法も手探りの状態で、清国留学生たちは日本の風俗習慣に戸惑い、授業のカリキュラムや寄宿舎生活にも不満を募らせた。学校側と折衝したが折り合いはつかず、怒った学生たちは授業をボイコットして宿舎から立ち退くという「退学事件」が起こった。湖北省出身者で作った当時のミニコミ雑誌『湖北学生界』第4期(1903年4月27日)に「弘文学院学生退校善後始末記」として学生側の主張が掲載されている。黄興も深く関わっていたと推測できる。

しかし、黄興は唐才常の「弔い合戦」で頭がいっぱいで、日本語の勉強どころではなかった。日本で知り合った宋教仁ら、同郷の留学生たちを集めて再起を誓い合い、1903年に帰国すると、湖南省で「華興会」を結成して長沙蜂起を画策する。しかし決起直前に情報が洩れて、失敗。黄興は再び日本へ亡命する。

明治35年
魯迅(21歳)の来日
1902(明治35)年3月、魯迅(21歳)が官費留学生として同期生5人とともに来日、東京の弘文学院に入学した。

魯迅(本名、周樹人)は、清朝時代の1881年、浙江省紹興府(現、紹興市)に生まれた。3人兄弟の長男で、実家は地元の名士として知られる高級官僚の家系だったが、祖父の代に没落、父も病没して家産が傾き、魯迅は少年時代から家長としての自覚に目覚めた。
弘文学院では日本語以外に数学、英語、物理、化学など、清国にない近代科目を2年間学んだ後、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)へ推薦入学した。そこで出会った生物学の指導教官藤野教授をモデルにした小説『藤野先生』は有名。

しかし、仙台の医学専門学校を1年半で退学。その理由について、魯迅は『藤野先生』の中で、授業の合間に日露戦争の戦況を知らせる幻燈を見たとき、ロシア兵が清国人スパイを処刑する場面があり、物見高い清国の人々が薄ら笑いを浮かべて見物していたことに衝撃を受けて、近代医学で身体だけ治療しても、精神面から教育しなければ、決して中国人は救済できないと知ったと、書いている。だが、これは後付けの理屈のようだ。刺激の少ない仙台の生活に寂しさが募り、活気のある東京へ戻りたかったのにちがいない。

彼はもともと文芸に強い関心があり、来日当初から留学生たちの発行する雑誌に寄稿したり翻訳したりしていた。東京が新興メディア都市として急成長していく中で、情報にあふれた大都会は刺激的で、最新の文芸に触れる機会も多かった。

明治35年
清国留学生会館の設立
明治35年、駐日清国公使の肝いりで、駿河台鈴木町18番地(現、神田駿河台2丁目3番地、JR水道橋駅からJR御茶ノ水駅方向へつづく坂道を登ったところ)に設立された。
間口5間(約9m)、奥行き10間(約18m)ほどの小さな二階建ての木造家屋で、一階に売店兼事務室、ラウンジ、会議室があり、二階のいくつかの小部屋で日本語の補習などを行っていた。留学生たちはラウンジで中国語の新聞を読んだり、雑談に興じたり、同郷者同士の会合を開いたりと、便利に使っていた。

中国人留学生は最盛期の明治38年には1万人近くいたが、その後、満州事変から上海事変、本格的な日中戦争が勃発するに従い、その数は急激に減少した。しかし、戦時中の40年代まで含めて、戦前の日本には常時、数千人規模で留学生が滞在していた。彼らの多くは東京、とりわけ神田界隈に集まった。清国人専用の日本語学校である東亜高等予備学校、日華学会のほか、明治大学、専修大学、日本大学などがあり、また憩いの場として清国留学生会館があったことからである。

設立直後の明治35年3月に来日した魯迅も、小説『藤野先生』のなかで清国留学生会館を描いている。

中国留学生会館の門衛室ではちょっとした本が手に入ったので、ときどき顔を出してみるだけのことはあった。午前中なら、奥のいくつかの洋間で休むこともできた。だが、夕方になると、あるひと間の床がきまってドスンドスンと鳴り出し、そのうえ部屋中にもうもうたる埃が立ちこめるのである。消息通に尋ねてみると、「なあに、ダンスの練習をやっているんですよ」とのことだった。

留学生の中には、東京で流行っていたダンスホールへ入り浸ったり、日本人女性との恋愛に熱中して本国送還になる者もいて、そうした処分は清国留学生会館の掲示板に張り出された。

(つづく)




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