2018年6月26日火曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート09 (明治39~41年)

片瀬西浜
*
明治39年
蒋介石(19歳)の来日
明治39年、清国で日本留学ブームが起きていた年、蒋介石(19歳)は、軍人に憧れて矢も楯もたまらず、なんの準備もなく郷里の浙江省を出てきてしまった。
そして、日本に来てみて分かったこと。日本陸軍士官学校へ入学できないのは無論のこと、その前段階として日本にある清国人専用の軍人予備学校にも入る資格がない。しかも清国人専用の軍人予備学校へ入るには、まず清国国内の軍人学校の学生になり、清国政府の実施する選抜試験に合格して正式に派遣される必要があった。

途方に暮れたが、気を取り直して日本語でも勉強しようと、日本へ亡命した改良派知識人・梁啓超が創設した清華学校へ入学した。
・・・清華学校は日本語以外に英語や代数、三角、幾何、物理、化学などの全科履修生がいたほか、1科目だけ選択する専科履修生もいた。蒋介石がどのような身分で在籍したかは不明だが、子供時代から頑固で気性が荒く、勉強嫌いで落ち着きがなかったというから、日本語だけの専科履修生だったと推測される。清華学校は、蒋介石が学んだ後に短期間で閉校されてしまう。

蒋介石は1887年10月31日、浙江省奉化県(現、奉化市)渓口鎮の塩商人の家に生まれた。父・蒋粛菴は働き者だったが、次々に妻に死に別れ、三番目の妻・彩玉との間に蒋介石を長男として4人の子供が生まれた。蒋介石、幼名は周泰、学名を志清、字は瑞元、号を介石という。後半生は、辛亥革命後に孫文から拝命した「中正」をずっと名乗りつづけた。

彼は幼時より頑強な体格で、無鉄砲なうえに人一倍我が強かった。5歳から家庭教師についたが長続きせず、祖父と父親がつづけて亡くなったことから家産が傾いた。
母は孤軍奮闘して子供たちを養い、14歳になった蒋介石に4歳年上の毛福梅を嫁に取らせたが、遊びたい盛りの蒋介石は結婚に興味がなかった。16歳になった1902年、母は家庭教師毛思誠先生をあてがい、科挙の第一段階の子供用試験である「童試」を受けさせたが不合格。蒋介石は「もう二度と受験などしない!」と宣言して、勝手に新式教育を行う鳳麓学堂へ入学したが、激昂型の性格に手を焼いた周囲の学生たちから「紅臉将軍」(真っ赤な顔をして怒る威張り屋)とあだ名をつけられ、ここも2年で退学。
今度は軍人になりたいと言い出して、勝手に日本へ行ってしまった。後のことだが、母親から子供を作るよう懇々と説得された蒋介石は、日本と郷里を行ったり来たりしながら、1910年3月、22歳のときに長男を授かり蒋経国と名付けた。

初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。

陳其美(30歳)は、「冒険こそ天職なり」と公言して憚らず、上海の裏社会とも通じていた。蒋介石はすっかり魅了され、周淡游と3人で義兄弟の契りを結び「桃園の義兄弟」と豪語した。だが年の瀬になり、母からもらった留学資金もそろそろ底をつく頃、郷里の母から妹が結婚するから帰国せよと言ってきた。

1906年12月、蒋介石は日本滞在僅か9ヶ月にして帰国した。
帰国後は、郷里でぶらぶらしていた時、清国初の近代的な陸軍士官学校・通国陸軍速成学堂が創設されることになり、第一期生を募集するとの情報を耳にした。勇んで応募した蒋介石は首尾よく合格し、さらに日本語を少し話せることを売りにして、日本留学の選抜試験にも合格した。2年越しの日本への軍事留学の夢を叶えた。

明治41年
蒋介石の二度目の来日
1908(明治41)年3月、蒋介石ら一行62名の軍事留学派遣団は大連港から出発すると、長崎経由で神戸へ上陸し、鉄道で東京へ向かった。同行の学生だった張群と親しくなり、これ以後、辛亥革命期から国民政府時代まで苦楽を共にし、終生の親友になった。

東京の牛込区市谷河田町(現在の東京女子医大がある)にある振武学校に入学。1903(明治36)年に創立された振武学校は、清国人専用の軍事予備学校で、3年制をとり、学校運営は日本陸軍の現役武官が行っていた。卒業後は日本陸軍に配属されて士官候補生となり、その後の試験に合格すれば、正規の陸軍士官学校の学生になれると規定されていた。
授業内容は軍事課程と普通学課程に分けられ、軍事課程として典令教範と体操、普通学課程には日本語、歴史、地理、数学、物理、化学、博物、図画などがあったが、3年間の授業でもっとも多かったのは日本語で、授業時間は全授業時間の39.7%を占めていた。次いで理数系科目が30.1%。軍事科目は三番目で授業時間は20.2%に過ぎない。しかも軍事科目の約7割は体操に当てられていたというから、レベルは中学校に近いものであった。
だが、中学校レベルとはいえ、勉強嫌いの蒋介石にとって授業は難しかったようだ。

蒋介石と同郷出身で第一高等学校学生・郁輔祥。

一九〇九年、私は日本の東京高等学校で学んでいて、神田の下宿屋のひとつに住んでいた。ふたりの同郷の友人の紹介で、蒋介石と知り合った。蒋介石の言うには、自分は北洋練兵処から振武学校へ派遣されて勉強しているとのことだった。・・・・・蒋介石は科学的頭脳がひどく悪く、とくに数理方面が劣り、よく教科書持参で友人に教えてもらいにいった。知り合って以来、彼はしばしば我々を訪ねてきた(「関与蒋介石二、三事」郁輔祥著、1986年)。

軍事留学生62人全員、振武学校から徒歩15分ほどの寄宿舎(住所は豊多摩郡大久保村字東大久保307番地。現、新宿区新宿7丁目26番。新宿の大久保通りと明治通りが交差する地点から道一本入り、細い路地を抜けた小高い丘の中腹にあった)に入った。

現在、丘の反対側には巨大な団地の戸山ハイツが広がっている。蒋介石が留学した頃は、ここには日本陸軍の戸山学校があった。今では広大な敷地に戸山公園が広がるが、かつて軍事訓練に使われた箱根山や野外演奏場の跡地があり、将校集会所の跡もそのまま残されている。当時、戸山学校では射撃や銃剣術、体育、歩兵訓練のほか、軍楽教育も行われていた。

蒋介石の日記によれば、彼は軍事教練や軍楽隊の演奏をよく見に行ったという。
寄宿舎の団体生活は規則ずくめで、平日は授業に忙しかったが、毎週日曜日には親友の張群と江の島へ遊びに行ったり、神田の中華料理屋や銀座の飲み屋で騒いだりと、日本生活を楽しむ余裕もあったらしい。

(つづく)





0 件のコメント: