2018年6月14日木曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート07 (明治38年)

長谷寺より
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明治38年
日本留学ブーム
弘文学院が開校した1902(明治35)年、清国から500人の留学生が来日し、日本にいる清国人留学生は600人となった。翌年、倍の千人が来日し、1904(明治37)年には1,300人が来日した。
1905(明治38)年、日本が日露戦争に勝利して日本への関心が一気に高まり、同年、清国で300年続いてきた「科挙」制度が廃止され、日本留学ブームに一気に火が付いた。立身出世に不可欠な資格であった「科挙」試験がなくなり、海外留学を立身出世の資格とみなし、「洋科挙」と呼ぶ者もいたほど。
この年(明治38年)の日本にいる清国人留学生は約8千名、翌1906(明治39)年には約1万2千名に急増した。

留学生は、まず東京にできた日本語学校に入学して半年から1年間ほど日本語を学び、その後、早稲田、法政、慶應などの東京を中心とした私学を目指すのが一般的だった。東京や九州、京都、東北、北海道などの帝国大学へ入学するには、まず難関の高等学校に入学しなければならず、合格者はごく限られていた。その点、私学には短期育成の「清国留学生部」や「専門部」が特設され、1、2年だけ学んで帰ろうという学生の受け皿になった。私学の「本科」へ正式入学するには勉強に専念しなければならず、進学したのは全留学生総数の半分にも満たない。その他、軍事教育を専門に行う振武学校や成城学校もあり、軍事教練と基礎教育を受けた後、試験を受けて陸軍士官学校へ進学するのだが、難関の試験に合格する者はほんのひと握りだ。そうした中で、早稲田大学は人気の的であった。もっとも、大学に入っても、無事卒業まで至る留学生はそれほど多くはなかったようだ。

明治38年8月
中国同盟会の結成
明治37年、黄興が2度目に来日した時、日本では湖南省の武装蜂起の様子が清国留学生たちの間で知れ渡り、黄興は「英雄」として大歓迎を受けた。
そして翌38年8月、世界を回って来日した孫文と初対面で意気投合し、革命連合組織の中国同盟会を組織した。

中国同盟会結成後、黄興は早稲田大学に在籍しながら、機関誌『民報』の発行準備にとりかかった。彼は宮崎滔天を介して知り合った福岡出身の志士末永節に、「雑誌の編集部を置くための家を借りたい」と告げ家探しを始めた。末永節は大アジア主義者の頭山満を総帥とする玄洋社社員で、武道家、後に全日本少林寺拳法(現、「全日本少林寺拳武徳会」)の初代宗家となる。

末永節の証言。

『民報』をやったのは牛込の○○というところだった。その家を探す時も黄興と二人であちこち歩き回った。
麹町の大きな門構えのケヤキの巨木のある家をみつけて、この家にしようではないかと言ったが、黄興はこれにするとは言わなかった。それがずっと回って、牛込を歩いておったところが、貸家と書いてあったので、そこに入った。うちに泉水がある家だったが、間取りを見た上で、黄興が、
「此処にしましょう」と言う。
「どうして・・・・・」と問うと、
「あの麹町の家は暗いと思います。目が悪くなります。この家がいいです。ここに水があるでしょう。ここに鯉を入れればよいでしょう。あなたは鯉が好きでしょうが・・・・・。二人で食べましょう」
と言うから、ここを借りることに決めて、その保証人がいるので、古賀廉造さんのところへ頼みに行きました。・・・・・古賀廉造は大審院の検事で、なかなか立派な人だった。家主も快く承諾してくれた。
(浅野英夫編、『無頼放談』社団法人・玄洋社記念館発行、2016年)

こうして『民報』編集部の所在地が決まった。住所は、牛込区東五軒町19番地(現、新宿区東五軒町3番22号)で、末永節が発行人を引き受けた。

明治38年
陳天華(22歳)の抗議自殺
明治38年、日本の文部省は清国留学生の政治活動を封じるために清国留学生取締規則を発布した。宋教仁の親友陳天華(22歳)は、激情のあまり大森海岸で抗議の入水自殺をした。衝撃を受けた留学生たちは一斉に授業をボイコットし、退学届を出し、2千名近い留学生が帰国していった。宋教仁は陳天華の遺体を大森海岸まで引き取りに行き、遺書である「絶命書」に情感のこもった跋文を添えて彼の伝記を書き、その後は革命陣営から距離を置くようになった。

明治38年
総帰国を主張する秋瑾
「清国留学生取締規則」に留学生たちは激しく反発し、清国留学生会館で緊急集会を開いた。
学生たちが問題視したのは、「清国留学生取締規則」第10条、「清国人ヲ入学セシムル公私立学校二関スル規定」の「性行不良」という文言だった。「性行不良」には明らかに革命運動も含まれるとして、授業の一斉ボイコットを呼びかけた。

女子学生の秋瑾は反対運動の急先鋒のひとりだった。秋瑾は、清国留学生会館で開かれた浙江同郷会の席上、留学生の「総帰国」を強く主張。煮え切らない態度の留学生がいるのを見ると、激昂して「死刑!」と叫んだ。
魯迅の弟の周作人は、そのときの様子を『魯迅の故家』にこう記す。

留学生は挙って反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かつたが、それでこの人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳(魯迅の親友)もその中に入っていた。魯迅は彼女が一口の短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している

実際のところ、孫文も留学生の「総帰国」には反対だった。帰国して戦いに参加すれば、無駄に若い命を失うことになり、革命勢力にとっては大きな損失になると考えていた。それゆえ中国同盟会の同志による留学生への説得工作もあったようだ。

しかしながら、授業ボイコット運動は過熱し、全留学生の約半数が帰国を決めると、その年12月、秋瑾率いる「総帰国」賛成派が一斉に帰国した。
秋瑾は故郷の浙江省に戻ると、大通学堂を開校して軍事訓練を行いつつ、安徽省の徐錫麟と呼応して武装蜂起を画策したが、情報が洩れて逮捕され、1907年7月15日早朝、斬首された。31歳の若さであった。
魯迅にとって、秋瑾の印象は強烈で、彼女の死はいかにも無念であった。評論文「「フェアプレイ」はまだ早い」(1925年)では、中国の旧勢力の悪辣さに警鐘を鳴らす一方、秋瑾の死について書いている。

革命は・・・・・すこぶる「文明」になった。・・・・・われわれは水に落ちた犬は打たぬ、勝手に上ってこい、というわけである。そこで、かれら(旧勢力の紳士や官僚)は上ってきた。民国二年の後半期までひそんでいて、第二革命の際、突如あらわれて袁世凱を助け、多くの革命家を咬み殺した・・・・・これすなわち、革命の烈士たちの人のよさ、鬼畜にたいする慈悲が、かれらを繁殖させたのであって、そのため目ざめた青年は、暗黒に反抗するためには、ますます多くの気力と生命とを犠牲に供さねばならなくなったのである。
秋瑾女史は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは「女侠」とたたえられたが、今ではもうその名を口にするものも少なくなった。革命が起こったとき、かの女の郷里には都督 - いまいう督軍とおなじもの - が乗り込んできた。それはかの女の同志でもあった。王金発だ。かれは、かの女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類を集めて、その仇を報じようとした。だが結局は、その首謀者を釈放してしまった。・・・・・ところが、第二革命の失敗後になって、王金発は袁世凱の走狗のために銃殺された。その有力な関係者に、かれが釈放してやった秋瑾殺害の首謀者があった(『魯迅評論集』竹内好編訳、岩波文庫、1981年)。

清国留学生会館は、留学生たちの政治運動の場と化した。四方の壁には日本政府に対する反対運動のスローガンや中国革命を擁護する張り紙、集会の開催予定を記したメモなどがびっしりと張られ、人の出入りが激しくなった。
やがて手入れを忘れた家屋は荒れ果て、留学生の憩いの場でなくなったことで、清国公使館は運営を停止した。
日本に居残った留学生たちは、1907(明治40)年、北神保町(現、神田神保町2丁目)に新設された中華留日基督教青年会館へと移動していった。そこには宿泊施設も食堂も完備されていたため、新たに来日した留学生たちの臨時の宿泊所として機能し、憩いの場となった。

(つづく)

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