2018年6月9日土曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート06 (明治36~37年)

鎌倉の街角
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明治36年
清国政府から派遣された駐日学生監督のハレンチ事件
明治36年、清国政府から派遣された駐日学生監督の姚煜(よういく)が、女子留学生にセクハラを働いたことが発覚した。
留学生たちはこれを怒り、弘文学院に在籍していた陳独秀や張継ら革命派5人は公使館へ押しかけ、ナイフをチラつかせて姚煜を脅した。姚煜は跪いて命乞いをしたが、5人は彼の辮髪を切り落とし、意気揚々と引き上げる、清国留学生会館のラウンジの壁に吊りさげた。
清朝時代のプライドの象徴であった辮髪を失った姚煜は、5人を「不良学生」として日本政府に強制送還の処分を要請し、自分も人知れず本国へ帰還した。当時の清国では、性犯罪者が逮捕されると「斬髪の刑」に処せられたため、辮髪のない姿で街中を歩くと、それを見た人々から嘲り笑われるのが常であった。

明治37年9月
宋教仁(22歳)の来日
宋教仁は1882年に湖南省桃源に生まれる。字は得尊、号を鈍初、敦初、筆名は漁父という。友人評は、「身の丈は七尺余、額は広く鼻は隆々とし、眼光炯々としてするどい。天性、闊達にして英敏である。時事問題に深い関心をもち、とくに軍事を好んで議論した」(鴻為鎣の「伝」より、『宋教仁の日記』、宋教仁著、松本英紀訳注、同朋舎出版、1989年)という。

幼時に父を亡くし、母の手ひとつで育てられたが、代々知識階層の家柄で成績優秀、ガキ大将でもあった。地元の漳江書院に入学した後、湖北の文普通学堂で新式教育を受けて革命に目覚めた。同じ湖南省出身の黄興らと華興会を立ち上げて武装蜂起しようとしたが、発覚して上海へ逃亡し、そのまま日本に渡った。

宋教仁は日本語学校弘文学院に入学したが、政治・軍事好きが昂じて、同じ湖南省出身の親友陳天華らと雑誌『二十世紀之支那』を創刊。この雑誌は先鋭的な理論雑誌として注目されたが、すぐに「危険分子」として日本政府の監視対象になり、第2号発行直後に神田警察署に押収され停刊処分になった。考えあぐねているとき、孫文・黄興らが革命組織の中国同盟会を作ったので、名前を『民報』と変えて機関誌とした。執筆・編集は宋教仁がそのまま受け持った。

宋教仁は並み外れた読書家で、最初は清国政府の役人を務める先輩にアルバイトを頼まれ、『各国警察制度』『俄国制度要覧』『澳大利匈牙利制度要覧』『比利時澳匈俄財政制度』『美国制度概要』『澳匈国財政制度』などの本を翻訳したが、それがきっかけで国政に興味を持った。自分では王陽明の思想書や心理学の書籍を熟読する一方、『日本憲法』『国際私法講義』『普魯士王国の官制』『徳国官制』『清俄の談判』などを翻訳して外国の近代科学を吸収し、中国哲学の良い点と結びつけようとした。

宋教仁『我之歴史』は、日記形式で綴られた自叙伝で、1904年9月の湖南省での華興会の武装蜂起失敗に始まり、上海へ逃れた経緯や日本到着後の様子などが記され、1907年4月、馬賊工作のために満州へ赴くまでの約2年3ヵ月、ほぼ1日も欠かさず丹念に書かれている。筆で書いた文字は丁寧で見惚れるほど美しい楷書体で、宋教仁の誠実で几帳面な性格が偲ばれる。宋教仁の思考の変遷や革命活動の内情を知るうえで、第一級の貴重な歴史資料である。
日記には、陳天華の入水自殺の前後3ヵ間が抜けている。それは陳天華の死に際して、中国同盟会のリーダー孫文と黄興が冷淡な態度をとったと感じた宋教仁が反発して、激しい罵り言葉を書き連ねたからではないかと推測されている。宋教仁がずっと抱き続ける孫文への反発心は、この時期に芽生えたもののようだ。

宋教仁は、早稲田大学清国留学生部予科に入学し、早稲田大学の裏手にある「瀛州筱処(いんしゅうゆうしょ)」(豊多摩郡戸塚村大字下戸塚268番地、現、新宿区西早稲田1丁目16番周辺)に下宿した。
彼は勉強に没頭した。詳細な日課を作って分刻みで日常生活を過ごし、厳しく自分を律した。しかし生来の神経質も手伝って、次第に精神的に追い込まれていった。革命陣営から距離を置いてはいたが、『民報』の編集は続けてい。毎日のべつまくなし友人が訪れてきて忙しかった。

明治37年
黄興の二度目の来日
この時、日本では湖南省の武装蜂起の様子が清国留学生たちの問で知れ渡り、黄興は「英雄」として大歓迎を受けた。世界を回って来日した孫文と初対面で意気投合し、翌明治38年8月には革命連合組織の中国同盟会を組織する。

明治37年
秋瑾の来日
秋瑾は、魯迅と同じ浙江省紹興出身、北京で結婚して二児をもうけたが、親の決めた結婚に飽き足らず、明治37年、単身日本へ留学した。「自分は革命のためにのみ存在するのだ」という強い覚悟をもっての来日だった。
日本で弘文学院速成師範科に編入し、青山実践女学校で教育、工芸、看護学などを熱心に学んだ。一方で、中国同盟会に参加して浙江省の責任者になり、神楽坂の武術会に通って射撃の訓練に励み、爆弾製造の技術も学んだ。ずばぬけた美貌と激しい気性、激烈な革命志向をもつ女子学生の秋瑾は、留学生のなかでもひときわ目立つ存在だった。

(つづく)





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