2018年6月2日土曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート03 (明治32年)

皇居平川濠畔(代官町通り)
*
明治32年
亦楽書院の開校
日本留学生の様子を見て、『勧学篇』を記して海外留学を提唱した清国の湖広総督・張之洞が地方財政の中から奨学金を捻出して留学生を送り込んできた。嘉納治五郎は専任者を同居させた宿舎を設け、明治32年10月、亦楽(えきらく)書院を開校した。名前の由来は論語の一節からとった。

有朋自遠方来、亦不楽也
(友あり遠方より来る、また楽しからずや)

嘉納の熱い気持ちがあふれている命名である。

明治32年
梁啓超、華僑子弟のための高等学校「東京高等大同学校」設立
明治32年1月7日、梁啓超(25歳)は牛込区早稲田南町42番地に移った後、1月30日、小石川区表町109番地の柏原文太郎(29歳)の自宅に移動した。

*柏原文太郎は、明治26年に東京専門学校英語政治科を卒業後、朝鮮国政府農商務省の招聘を受けて韓国へ渡り、帰国後は駐日朝鮮政府公使館顧問になった。明治29年、東京専門学校の講師に就任して支那研究会を組織し、翌年、東亜同文会を設立して幹事に就任した。梁啓超を自宅に迎え入れたのはこの頃で、ふたりは意気投合して義兄弟の契りを結んだ。
梁啓超は柏原から日本語を教わりながら、日本語の単語帳を作成して、自己流の「日本語速読法」を編み出した。従来のように漢文式に返り点を打って読むのではなく、日本語の助詞と少数の言葉だけ覚えたら、日本文をそのまま中国語で読み下すという方法だ。これで日本語の大意が理解できるという。やがて梁啓超はこの方法をまとめて『和文漢読法』として出版し、清国留学生たちの間でベストセラーになった。
一方、日中関係に強い関心を抱いていた柏原は、梁啓超からたくさんの中国知識を授けられ、中国事情に精通することになった。
明治42年、相原は、細川護成とともに目白中学(現、中央大学付属高校)を創設して私学教育の向上に尽力。1912年には立憲国民党から立候補して衆議院議員を2期務め教育政策の分野で活躍した。

*東京高等大同学校は、のちに同志の麦孟華が「日文専修学校」と改名して経営するが、経営資金に行き詰まり、柏原文太郎が引き取って明治33年に「東亜商業学校」として再開。しかし、それも経営に行き詰まり、清国駐日公使の蔡鈞が改めて「清華学校」として運営した。明治41年までは清国政府から補助金が出ていた記録が確認できる。
同書によると、清華学校は日本語以外に英語や代数、三角、幾何、物理、化学などの全科履修生がいたほか、1科目だけ選択する専科履修生もいた。蒋介石も一時在籍したことがある。

半年近く柏原の家に同居した梁啓超は、明治32年9月4日、牛込区東五軒町35番地に転居して一人暮らしに入った。その後、東京に華僑子弟のための高等学校「東京高等大同学校」を設立したほか、神戸にも「同文学校」を作って、華僑子弟の教育に力を注いだ。
11月、アメリカ華僑の招きで渡米、アメリカ各地で「清朝の政治改革」を講演してまわった。この時、パスポートは柏原文太郎のものを借用しての「なりすまし」であった。

日本へ戻った後、梁啓超は広東省から妻子を日本へ呼び寄せ、ひたすら研究にのめりこみ、経済、金融、法律、歴史から時事問題まで、幅広く近代的知識を蓄積した。代表作『自由書』は、ヘンリー・バックルや福沢諭吉、徳富蘇峰らの影響があるとされる。ダーウィンやスペンサーの「進化論」に基づく論文も発表した。財政改革に関する論文も多数執筆した。それらの論文は膨大な量にのぼり、現在、『梁啓超全集』(全10冊21巻、北京出版社、1999年)に収められている。

明治32年
維新號、神田に開店
明治32年、神田区今川小路(現、神保町3丁目)に開店した維新號は、最初は名前もない小さな店だった。留学生が足しげく通って中国食材や雑貨品を買ううちに、求められて簡易食堂も兼ねるようになった。ピータン、塩卵、焼き飯、肉入り麺、豆腐料理、豚肉野菜炒めなど、ごく簡単な料理を出すだけだったが、下宿先で油物を口にできない留学生たちは喜び、評判になって繁盛した。
「『維新號』という屋号も、実は留学生がつけたものです」と言う(維新號の3代目経営者鄭東耀氏)。
開店当時、留学生たちは店に集まって中国料理を食べながら、祖国の未来について話し合った。日本が明治維新で近代化を成し遂げたように、祖国の未来もそうであってほしいと願い、我が家同然のこの店に『維新號』と名づけた。
維新號に集まる留学生たちの話題は時代とともに変化した。創業初期の明治時代にはもっぱら清朝打倒運動に花が咲いた。大正半ば以降は、日本の中国侵攻と留学生に対する思想統制が厳しさを増すに連れて、反日運動や反帝国主義運動について議論沸騰することが多くなった。

大正中期には、中華料理は日本人にも親しまれるようになり、神田には「維新號」のほかにも「中華第一楼」「会芳楼」「漢陽楼」など中華料理店が十数軒に増え、日本人が経営する日比谷の「陶々亭」「山水楼」、虎ノ門の「晩翠軒」、茅場町の「偕楽園」などは、中国人コックを雇って大規模に営業した。
こうして神田には、大正時代以降、一説には140軒もの大小さまざまな中国料理店ができた。その頃の中華第一楼は神田区神保町のすずらん通りにあり、現在では中央区銀座に移転している。漢陽楼は神田区猿楽町から小川町に移転し、今日も営業している。

(つづく)

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