2022年7月5日火曜日

〈藤原定家の時代046〉治承4(1180)2月 清盛の摂津大輪田泊修築計画 その経緯と関わる人々 高倉天皇(20)、言仁親王(3)に譲位 

 


治承4(1180)

2月20日

・平清盛、摂津大輪田泊(おおわだのとまり)を修築を計画。宣下。清盛の要請により、大輪田泊石椋修造のため諸国雑物運上船の梶取・水主に夫役が課される(「東大寺文書」)。また、河内・摂津・和泉・山陽・南海道諸国より田1丁、畠2丁ごとに各1人の夫役を徴し、大々的な改修に着手。その結果、宋船が入港できるようになる。

清盛から出された解状(ゲジョウ)によると、輪田岬は上下する人々や公私の船の往来が頻繁であるのに、東南の大風が激しい為に波が荒く、諸国の嘆きと諸人の怖を除く為に清盛が新島を築いてきた。しかし石掠(イシクラ)が完全でないので、朝廷の援助を求める。

畿内・山陽道・南海道の諸国について田1町別、畠田2町別に各々1人の人夫役を、東海道・西海道の諸国については雑物を運上する船が下る時に梶取(かじとり)と水手(かこ)に3日間の人夫役を賦課することを申請し、太政官符により認められる。この官符は在京の知行国主に伝えられ、日向国を知行する藤原忠親もその官符に対して承知する旨の請文を3月5日に提出(「山槐記」)。

平氏の経済的基盤たる日宋貿易のため。

これまでの改修は平氏の私力によるものだが、今回は国家権力を挙げてのものとなる。人夫動員は、瀬戸内周辺諸国人民を強制雇用する計画だが、荘園領主・民衆の抵抗が予想される。平氏は武力を用いても断固実行の姿勢を構え、朝廷に提出する実施要望書には平氏筆頭軍団長平貞能の名前が添えられる(「玉葉」同条)。

▽大輪田泊築造~改修の経緯。

[清盛と福原]

12世紀前半、院政の武力的支柱として台頭してきた伊勢平氏は、保元・平治の内乱を経て、強大な政治勢力となる。平治の乱後、二条天皇親政派と後白河上皇の対立が激化。清盛は両派の間で巧みに政界を渡り、急速な昇進を果たす。仁安元年(1166)内大臣、翌2年2月左右大臣を越えて太政大臣となる。公卿の子でない者が大臣に進むのは安和2年(969)以来200年ぶりという(「花園天皇宸記」元応元年6月21日)。太政大臣は一種の名誉職であり、辞任後、前大相国という肩書での発言が重要で、僅か3ヶ月で辞任し、氏長者を嫡男重盛に譲る。しかし、これからという時に大病を患い、翌年2月に出家する。幸い一命をとりとめるが、間もなく(仁安4年正月~2月頃)、摂津国八部(ヤタベ)郡平野(神戸市兵庫区湊山町辺)の福原山荘に移り、以降10年以上ここに居住する。隠退時、清盛と妻時子は、六波羅館を出て重盛に譲り、清盛は福原へ、時子は西八条邸に移る。

清盛は福原転居の7年前の応保2年(1162)、摂津国八部郡の国衙領を得たと推測され、家司の藤原能盛に一郡全域の検注を命じる。八部郡は、摂津の最西部にあり、東は兔原(ウバラ)郡、北は有馬郡・播磨国美嚢(ミナキ)郡、西に明石郡、南に大阪湾がある(現在の神戸市中央区の西半、兵庫区・長田区・須磨区全域、北区の一部)。この検注に際し、郡内7ヶ荘も検注をうけ、九条家領輪田荘の31町が小平野(コビラノ)荘・井門(イト)荘・兵庫荘・福原荘の為に横領され、事実上平家領化してゆく。この中で、輪田荘にある和田の浜(その中に古代以来の重要港の大輪田泊がある)も福原荘に横領されたといわれる。

[承安の外交]

大阪湾は注ぎこむ河川の土砂のため水深が浅く、大船の出入りには難があり、京への物資は兵庫津で小船に積替え、淀川を溯上するのが定法である。つまり、大輪田は瀬戸内海を東進する大型船の最終寄港地となるため、ここの掌握は西国物流の掌握を意味する。それ故に、清盛はこの大輪田泊の北2.5kmにある福原山荘に居を定めることにする。この西国物流掌握は、単に内海水運掌握のみでなく中国貿易(日宋貿易)による巨万の富の源泉の掌握となる。

また嘉応2年(1170)9月には宋人が福原に来訪する。京都では城南寺の競馬の最中であったが、後白河法皇はそれが終るや福原に駆け付け、直接宋人を「叡覧」(「百練抄」9月20日条)し、右大臣九条兼実は「未曾有の事」「天魔の所為か」と仰天(「玉葉」9月20日条)。更に、承安2~3年、日宋関係は、貿易開始の前提として海賊除去を求める宋と、伝統的外交姿勢を踏み越えて行こうとする清盛・後白河の動きが一致し、以降日中貿易は大幅に拡大したと推測できる。

「平家物語」巻1「吾身栄花」で平家の繁栄は、「楊州の金(コガネ)・荊州の珠(タマ)・呉郡の綾・蜀江の錦、七珍万宝一として欠けたる事なし」と記され、清盛の中国貿易から得る富を示す。中国からの流入品の一番は銅銭で、これが日本国内で流通する。この大量の宋銭流通は社会問題の発生を伴っていたらしく、前年治承3年(1179)お多福風邪らしきものが流行した際、人々は「銭の病」と呼んで忌避する(「百錬抄」6月条)。一方、日本の輸出品は、砂金・真珠・硫黄と杉・檜・松などの板・角材であった。

[経島築造]

承安2~3年の日宋交渉にあわせ、清盛は大輪田泊の改修を始める。承安3年、兵庫嶋築造に着工(「帝王編年記」)、2年後の安元元年(1175)完成する。大輪田泊は、東南の大風常に扇(サワガ)しく、朝夕の逆浪凌ぎがたし」(「山槐記」治承4年3月20日条)といわれ、その波よけ風よけの為に作られた人工島も、翌年には崩れ去る。そこで、阿波を本拠とし、吉野川下流南岸の沖積地の桜庭を中心に勢力をふるう平家の有力家人で、平家水軍の一翼を担う、田口良成(阿波民部大夫)が、今回の改修工事責任者とされる。彼は、石の表面に一切経を書いて船に積み、船ごと沈める工法を採用(「延慶本平家物語」巻6太政大臣経島を突給事)し、経島と云われる所以となる。尚、阿倍民部大夫は壇の浦では平家に帰り忠を行うことになる。

「平家物語」では、「入道死去」の次の章節で、清盛の生前の事績を語る部分で触れられる。「凡そは最後の所労の有様こそ、うたてけれ、(清盛の臨終の病苦の有様は厭わしかったが)まことはただ人とも覚えぬ事ども多かりけり。・・・又何事よりも、福原の経島築いて、今の世に至るまで、上下往来の船の煩ひなきこそ目出たけれ。彼の島は去んぬる応保元年二月上旬に築き初められたりけるが、同じき年の八月に俄かに大風吹き、大波立って皆ゆり失ひてき。又同じき三年三月下旬に阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなんど、公卿僉議ありしかども、それは罪業なりとて、石の面に一切経を書いて、築かれたりけるゆゑにこそ、経島とは名付けたれ」とある(但し、年代表記は全て誤り)。

そしてこの年、最後の大輪田泊の改修が行われれるが、これは石椋(イシグラ)を修造する大々的な改修で、その結果、宋船が入港できるようになる。

□この時の修築に関わる平貞能と重盛。

[平貞能]

石椋築造の為の課役を諸国に充てるよう請う解状の奥に「前筑前守貞能」の加署があったという(「玉葉」治承4年2月20日条)。これからみて、大輪田泊修築の奉行は貞能であったと推定できる。また、貞能は「前筑前守」であったことから翌治承5年の鎮西の謀反に対して派遣される(「玉葉」治承5年8月1日、9月6日条)、或いは鎮西における平家没官領には、貞能が領家の免を得て知行していた所領が相当数ある(「吾妻鏡」文治元年5月8日条)などからみて、貞能が持つ鎮西~京とを結ぶ交通・軍事上支配の役割をみてとれる。更に、平氏都落ち後、鎮西に拠を据えている時期の貞能の活動もあげられる。但し、その後、平氏が鎮西を追われると、貞能は平氏一門と離れてゆく(「玉葉」寿永2年閏10月2日条)。

[「平家物語」巻3「金渡」(内大臣平重盛が金数千両を宋の育王山に寄進し、後世をとぶらわしめる話)にみる重盛・貞能、奥州の金と日宋貿易]

「惣て此大臣は吾朝の神明仏陀に財を投給のみに非ず、異朝の仏法にも帰し奉られけり、去治承二年の春比、筑前守貞能を召て被云合けるは、・・・貞能入唐して計(ハカラヒ)沙汰仕れと宣ひける、折節博多の妙典と串ける船頭の上たりけるを召て、内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年貢に上りたる金を二千三百両妙典に賜て宜けるは、此金百両をば汝に与ふ、二千二百両をば大唐に渡して、二百両をば生身の御舎利のおわします伊王山の僧徒に与へて、長老禅師の請取を可取進、残二千両をば大王に献りて彼寺へ供田を寄て給はるべしと奏よ、とて状を書て妙典に給けり(二本、小松殿大国にて善を催し給事)」(「平家物語」巻3「金渡」)

(大意)重盛は平貞能をめして相談し、奥州の金を唐に渡すことになり、貞能と繋がりのある博多の船頭妙典にこれを指示する。

[重盛・貞能の関係]

寿永2(1183)年、都落ちした貞能は再び都に戻り「小松殿の御墓の六波羅に有けるを、東国の人共が馬の蹄にかけさせむ事口惜しかるべしとて、墓堀をこし骨ひろひ頚にかけ、泣々福原へとて落行けり」(重盛の墓を掘り、骨を持ち去る)と伝える。彼は「故人道大相国専一腹心者」(「吾妻鏡」文治元年7月7日条)と云われ、清盛の筆頭家人であるが、同時に重盛の家人である。重盛没後、子の資盛にも仕え、治承4年3月の伊賀道追討、寿永2年7月、大将軍資盛に従う(「玉葉」治承4年12月2日条、寿永2年7月21日条)。

[厩と厩舎人]

永万2(1166)年正月、平重衡が後白河院に寄進した大田荘(備後国尾道浦を倉敷とする)の年貢納入を巡る史料を検討すると、大田荘には2系列の支配関係がある事がわかる。①院を本家と仰ぎ荘務権を握る領家清盛、預所重衡、申次盛国の系列。②院に付属して年責を収取する院庁(主典代中原基兼)と衛厩(平貞能と舎人)の系列。貞能は、清盛・重衡の系列ではなく、院庁の側で御厩を管轄する側にあったことがわかる。厩と厩に属する厩舎人が注目される。摂関家が奥州に金を年貢とする荘園を多く知行していた時、年貢増徴交渉の為に、厩舎人がしばしば派遣されている。厩の馬は奥州と京を結ぶ交通手段であり、馬を駆使する厩舎人は遠隔地商人の一面を持っている。保元2(1157)、京都の祇園御霊会復興が企てられ、経費を民間の富裕な人々が負担する「馬上役」こととなった時、その第1回の馬上には「後院」の「御厩舎人六郎先生光吉」が差定される。光吉の富裕さは後院の厩舎人としての遠隔地商人であるところから来るものと考えられる。尚この後、治承年間には清水坂の馬借に馬上役が差定される。

「金渡」にある「内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年責に上りたる金」は、かつて左大臣藤原頼長が父忠実から譲られた金を年責とする荘園で、気仙郡近くの磐井郡高鞍荘、本吉郡本吉荘などであり、頼長はこれらの荘の年貢の金をもって日宋貿易に関係していた。保元乱後、これらは後院領に編入されるが、同じ後院領には日宋貿易の根拠地としての肥前国神崎荘がある。奥州の荘の年貢の金は後院の機構を通じて日宋貿易に役立てられたとみられる。

厩舎人は、そうした奥州の金と博多の唐物の輸送に携わる商人を云えるし、六郎先生光吉はその典型。貞能の管轄する厩もこの後院の厩の系譜を引くもの。後院(ゴイン)は天皇の直領(後院とは、在位中の天皇が譲位後の御所として定めた居所のことで、それに付属する所領・荘園などを後院領という。)。荘園所領をさほど多く伝領しなかった後白河天皇は、天皇管轄下にある後院を重要な経済的基盤とし、保元の乱後には頼長の没収所領などを合わせ後院管轄下に置く。その後院領はやがて院政をしく後白河院院領の中核となってゆく。

貞能が日宋貿易に関与するのは、後院の系譜をひく院の厩を管轄していた事が大きな意味を持っている。その上で更に、貞能のその地位は、重盛の代官として与えられたと推測できる。これより前、清盛は平治元年(1159)、後院の別当とな、清盛の日宋貿易は本格化するが、その後この地位は重盛に継がれる。重盛・貞能によって管轄されている後院と厩が日宋貿易の重要な機構であったことをみることができる。

[平貞能(生没年未詳)]

家貞の2男。母未詳。大悲山峰定寺(左京区花背)の仁王像2体の胎内に、「平貞能母尼」が長寛元年(1163)6月28日に寄進したと記す。桓武平氏の血を引く郎等。肥後守であった永暦元年(1160)、同国に妙郎中宮社を建立。高倉帝立太子の仁安元年(1166)、左大夫尉(「兵範記」10月10日条)。同2年、左衛門少尉従五位上に復任(「同」8月18日条)。同4年、筑前守(「同」正月11日条)。養和元年(1181)8月、九州制圧に向かう(「玉葉」1日条等)、目的を達成するが(「同」10月16日、翌2年5月11日条)、都落ち直前の寿永2年(1181)6月の帰還時、期待に反し千余騎の軍勢しか連れていなかった(「吉記」2、18日条)。7月21日、首都防衛の為、資盛(重盛次男)に従い近江へ向かうが、途中の宇治で敵襲に備えて滞留するうち都落ちの25日を迎え、一旦、都にとって返して源氏と一戦を交える構えを見せたものの、翌朝、落ちて行く(「吉記」「玉葉」)。九州に入り、出家してその地に留まったとも、生け捕られたとも伝わるが(「玉葉」9月5日、閏10月2日、翌年2月19日条)、「吾妻鏡」は、恩義を与えたことのある宇都宮朝綱を頼って関東へ下向、そのとりなしで助命されたと記す(元暦2=1185年7月7日条)。

2月21日

・高倉天皇(20)、平清盛娘・中宮徳子の子の言仁親王(ときひと、3)に譲位。

4月22日、安徳天皇即位。

三種の神器の宝剣・神璽(しんじ、勾玉(まがたま))を新帝に渡し伝える儀式(剣璽渡御、けんじとぎょ)では、先例なら幼主はその場に臨まない。しかし、東宮傅(とうぐうふ、東宮の輔導役)の左大臣経宗はあえて臨席させることにし、亮の重衡が天皇を抱き密かに背後から添う形で天皇の昼間の座所に着いた。天皇位継承の瞬間なので当然新天皇からの昇殿の許しはまだない。だから摂政以外の臣下は誰も昇殿できないところだが、重衡の場合は天皇が幼稚ゆえにどうしようもない、との判断によってである。数え年三歳の新天皇が御衣(おんぞ)をむずかったので、重衡は上司の東宮大夫忠親に「袴の上に直衣(のうし、普段着)ばかりをお着せしてはいかがでしょうか」と問い、忠親は「密かに計らえば何も問題はない、単衣(ひとえぎぬ、広袖の肌着)をお着せすべきか」と指示する一幕もあった(『山槐記』)。

(「平家の群像」)

「この日譲位の事有り(御歳三歳)。応徳三年の例を以てこれを行わる(旧主宮閑院第、新主宮五條東の洞院)。幼主の礼、同居の儀、保安・永治共に以て快からず。各別の御所、長和・応徳すでに吉例たり。仍って強いて各別の儀有りたり。」(「玉葉」同日条)。

高倉院政の院庁

執事別当に藤原隆季、別当に大納言藤原実国(サネクニ)、参議同長方(ナガカタ)、大蔵卿同雅隆、中将平重衡、左中弁藤原経房らが任じられ、24日には中納言平時忠、参議源通親、但馬守平経正、右中弁藤原兼光が別当に追加され、御厩(ミマヤ)の別当には知盛が任じられる。

2月23日

・藤原定家(19)、咳病により籠居。この後しばらく病悩。

前日(22日)、幼帝安徳の母儀中宮建礼門院平徳子の行啓があり、定家は、「徒然ニ依りヒソカニ」見物し聞書する。23日、「咳病不快ニ依り籠居」。定家の宿病咳病は、青春の頃からのもの。

2月26日

・藤原俊成、家族と共に藤原盛頼のいる勧修寺に移る。定家は病の為移らず。


つづく

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