2022年9月20日火曜日

〈藤原定家の時代124〉東大寺・興福寺再建纏め その2 治承5/養和元(1181)年8月10日~ 造東大寺知識詔書 勧進上人重源 南宋の商人・工人、陳和卿 一国平均役化する造営費用      

 


〈藤原定家の時代123〉東大寺・興福寺再建纏め その1 治承4(1180)年12月~治承5/養和元(1181)年6月26日 南都焼討 所領返還 東大寺復興勘文 再建体制整備(組織、費用) より続く

【東大寺・興福寺再建纏め その2】

造東大寺知識詔書

養和元(1181)年8月10日

大仏殿の木造始(こづくりはじめ)があった。

8月20日

造東大寺知識詔書が覆奏(ふくそう)された。覆奏とは、草案を作成し、大臣らが署名したうえで、詔書を施行する旨を天皇に奏上すること。天皇はこれに「可」の一字を自筆して奏上を認可する。安徳天皇はこのとき数え4歳、満年齢では2歳9ヶ月のため、摂政近衛基通が御画可を行った(「吉記」)。

勧進上人重源

この月(8月)

俊乗坊重源が「勧進上人」の肩書で、天皇の命のままにすべての人々が「同心合力」し、「必ず勧進の詞の答へ、おのおの奉加の志を抽(ぬき)」んずるよう訴え、応えた「与善(よぜん)の輩(ともがら)、結縁の人」には、「その福無量」を約束し、それによって全事業が無事終了するよう祈願している。

重源は武士の出身、醍醐寺で出家、青壮年期は諸国の霊山・名跡を巡って山林修行をし、時に人に喜捨を勧めて如法経書写や普段念仏を行い、勧進上人の途を歩んだ。安元2年(1176)までに入宋三度、高野山に新別所(専修往生院)を開いている。61歳の高齢だが、建築に明るく、経営の才に恵まれていた。

二度目の中国入りは、後白河院の、明州(のちの寧波)の名刹阿育王寺(あいくおうじ)に舎利殿を寄進したいとの希望を叶えるため頼盛ら平家の支援を受けて行われた。この時、かれは大勧進職(勧進聖集団の頭目)に補任されたとされる。

重源は諸国勧進のため6台の一輪車を作り、同朋50余人とともに費用を集め始めた。

「玉葉」養和元年10月9日条には、「東大寺奉加の聖人(重源)」が、法皇はじめ洛中諸家を廻り奉加を請うた、皇嘉門院は銅10斤、他所からは銭1000貫文、黄金6両の奉加があった、という記事が見える。

南宋の商人・工人、陳和卿

事業はひどく損傷した大仏の鋳造から始まった。

10月6日、大仏の螺髪(らはつ)を鋳はじめる儀式が行われ、戒師が鋳工に戒をさずけ、蹈鞴(たたら)を踏んで螺髪三個を得た。しかし、本体の鋳造は高度な技術が必要で、鋳物師たちは早くから「この事人力の及ぶ所に非ず」と尻込みし、「巧手(巧者)に仁(ひと)無く、歎きて日を送」っていた時、陳和卿が現れる。

彼は、平安末期に来日した南宋の商人であり、工人でもある。重源に見出され、寿永元(養和2)年(1182)7月22日、大仏の前で重源と陳和卿が鋳造作業の相談をしている(「玉葉」7月24日条)。

以下、陳和卿とその弟ら7人の中国人が、日本人14人と共に修理にあたり、右手から順に鋳造が進み、寿永2年(1183)4月から5月にかけて面・頭が鋳造された。重源はその費用は大部分知識物によると述べている(「玉葉」養和2年2月20日条)。

首の鋳造には熟銅8万3950斤、仏身に塗る黄金1000両、仏身に押す金箔10万枚、水銀1万両が施入されており、頼朝や藤原秀衡も金・米・絹などを奉加している。

5月18日に鋳造完了。39日間、四度の工程を要する作業だった。陳和卿はその功により、駿馬1頭、美絹10疋を賜っている。

次に、左手の補修、大仏後方の築山(高さ約18m、巾30m以上)の撤去と背面の補修修理が行われた。奈良期に鋳造された大仏には、随所に鋳造面での欠陥があり、亀裂損傷が出始めていた。左手が抜け落ちたり、斉衡(さいこう)2年(855)の大地震で大仏の首が落ちたりもした。これらの補修のため、大仏の後ろに小山を築いたので、背面の補修をするには小山を撤去しなくてはならない。
小山の撤去と補修が始まったのは文治6年(1190)3月で完了には3ヶ月を要した。

一国平均役化する造営費用

興福寺については、治承5年6月15日に造営費の国宛が決まったが、これは永承2年(1047)の先例(前年に北円堂以外が全焼し、これを再興するために造興福寺司を定めた時の例)を踏襲したもので、現実には中には義仲や菊池隆直の支配下にある国もあり、うまく機能しなかった。

8月11日、興福寺講堂再建に、安元3年(1177)の大火で焼失した大極殿のために用意していた材木を充てようとする動きがあり、兼実は「講堂は(氏)長者が私に造営するところなり、あに大廟の材をもって、氏寺の要に宛つるかな」と慨嘆している(「玉葉」)。

寺家沙汰や氏長者による再建が先に進み、同年中に食堂と講堂が上棟し、翌年には東金堂・西金堂が寺家沙汰に加えられ、同年上棟。

これらは、文治2年(1186)までにほぼ完成。

じつは、寺家沙汰といっても、食堂は寺僧領からの段米(段別一斗)の徴収(「寺僧沙汰」)によって行われた。しかも、それにとどまらず大和国の一国平均役(いっこくへいきんやく、荘園・公領を問わず、一国一律に賦課される臨時の課役)としての賦課であったらしい。食堂再建を口実に大和国の支配権を興福寺に取り戻す動きが始まる。
そして、やがて時代が下ると、勧進も一国平均役化してゆく。
勧進といっても、課役の一種、権力を背景にした事実上の強制寄付という面があった。興福寺の堂舎の造営・修理も勧進方式が大きな比重を占めるようになる。それを推進するのは、九条家出身、兼実の腹違いの弟、治承5年1月に29歳で興福寺第44代別当となった信円である。


東大寺・興福寺再建纏め おわり

本記事は全て、高橋昌明『都鄙大乱』(岩波書店)に依る。




0 件のコメント: