2023年1月14日土曜日

〈藤原定家の時代240〉文治2(1186)年4月22日 後白河法皇(60)、寂光院の建礼門院徳子を訪問(「大原御幸(おはらごごう)」) 

 

「大原御幸絵巻」(寂光院蔵)後白河法皇が訪ねると、阿波の内侍という旧知の老尼が出迎えた(中央)。折しも建礼門院は、故安徳天皇の乳母大納言佐と二人で山に入り(左上)、花かごを下げて岩躑躅など、花を摘みに出かけていた (京都新聞「文遊回廊」より)

〈藤原定家の時代239〉文治2(1186)年4月5日~4月20日 頼朝・政子、静に鶴岡八幡宮の廻廊で舞を奉納させる 頼朝、摂関家領相続をめぐる争いに関して摂政兼実を支援する

 より続く

文治2(1186)年

4月22日

・後白河法皇(60)、寂光院の建礼門院徳子を訪問(「大原御幸(おはらごごう)」)。

『平家物語』は、壇ノ浦で捕らえられた建礼門院のその後、往生までの章段5曲(女院出家、大原入、大原御幸、六道之沙汰、女院死去)を集め、特別の1巻にまとめ、大原御幸はそこに含まれ、この巻をとくに灌頂巻(かんじょうのまき)と呼ぶ。このため、本巻の12巻とあわせると実質13巻となる。

頼朝に憚りあり、清原深養父(清少納言の曽祖父)が建立した補陀落寺に御幸する名目で大原方面に赴き、ついでに女院を訪ねる形式をとる。ルートは、「鞍馬通りの御幸なり」とあるように、上賀茂神社の背後を北に二軒茶屋に出、市原、静原から江文(えぶみ)峠を越えて大原の里に出る道を通って寂光院に着いた。

「西の山の麓に一宇の御堂あり。即ち寂光院これなり。古う造りなせる泉水木立、由ある様の所なり。甍破れては霧不断の香を焼(た)き、扉(とぼそ)落ちては月常住の燭(ともしび)を挑(かかぐ)ぐ、ともかやうの所をや申すべき。庭の若草茂り合ひ、青柳絲を乱りつゝ、池の浮草、浪に漂ひ、錦を曝(さら)すかとあやまたる。中島の松にかゝれる藤波の、裏紫に咲ける色、青葉交りの遅桜、初花よりも珍しく、岸の山吹咲き乱れ、八重立つ雲の絶え間より、山ほとゝぎすの一声も、君の御幸を待ちがほなり」

法皇が内に向かって、「人やある、人やある」と問うたところ、年老いた尼が一人出てきて、女院は裏山に花摘みに出かけられていると答える。法皇は、「さやうの事につかへ奉るべき人もなきにや。さこそ世を捨る御身といひながら、御いたほしうこそ」と嘆くと、この尼、「五戒十善の御果報つきさせ給ふによッて、今かゝる御目を御覧ずるにこそさぶちへ」、さらに悉達太子の例を引き、「難行苦行の功によッて、遂に成等正覚し給ひき」と申す。この返答が実に弁舌爽やかであるので、法皇はいかなる人物かと尋ねたところ、前には法皇の懐刀と噂された、故少納言入道信西の娘「阿波の内侍」であると告げる。

庵室に招じ入れられ中を見回すと、「来迎の三尊」「普賢の画像」「善導和尚并びに先帝(安徳帝)の御影」「八軸の妙文」「九帖の御書」等が掛けられ、次いで「彼浄名居士(維摩詰)の方丈の室の内に三万二千の床をならべ、十方の諸仏を請じ奉り給ひけむも、かくやとぞおぼえける」と評語があった。

さらに「おもひきや……」という女院御製の御歌もあった。また寝所の粗末なありさまには、思わず涙を誘う哀れさがあった。やがて「こき墨染の衣きたる尼二人」、岩のがけ道を下りてくるのが見えた。建礼門院と大納言佐(内侍)である。都人の滅多に通わぬこの大原の里に、突然の法皇の御幸とは女院にとって思いもよらぬことであったろう。

女院は法皇との対面を憚ったが、「阿波の内侍」の進言で対面することになる。女院は衆生救済、一門成仏菩提を願っての念仏であったにもかかわらず、法皇の御出などは思いもよらなかったと語り出す。女院も法皇も涙。女院は、「こうした境遇は一時の嘆きではありますが、死後の極楽往生のためにはかえってよい機縁になりました。一門の成仏を祈り三尊の来迎を待っております。ただ、いまだに先帝の面影が忘れられませんが、朝夕の勤めを怠らないことは仏道への導きと思います」と述べる。

そして女院は、わが身の半生の境涯(栄華をきわめた宮廷生活から西海での漂泊流浪を経て一門の滅亡離散にいたる過程)を、天上・人間・餓鬼・修羅・地獄・畜生の仏教で説く「六道」になぞらえながら、内乱中に体験した苦難を淡々と述懐する。

家運全盛のころ、「長生不老の術を願い、蓬莱不死の薬を尋ねても、ただ久しからんことをのみ思えり。明けても暮れても楽しみ栄えし事、天上の果報もこれには過ぎじと」おぼえた(天上遺)。

義仲に追われて都落ちしてからは、人間のことは愛別離苦のすべてをわが身に知った。四苦八苦のひとつもあまさず体験した(人間道)。

浪の上にて日をくらし、船の内にて夜をあかし、貢物が集まらず食事ができなかった。たまたま材料があっても、水がないので料理できなかった。大海にうかぶといえども、潮だったから飲めなかった(餓鬼遺)。

室山・水島の戦いに勝ってから勢いをとりもどし生色もよみがえったというのに、一の谷で一門多くほろびて後は直衣束帯を鉄のよろいに着かえて、戦き呼はいの声が絶えなかった(修羅道)。

さても門司・赤間の関にて戦さは今日を限りとみえ、先帝がまず東をふしおがみ伊勢大神官においとまし、ついで西にむかって念仏をしたあと、二位尼に抱かれて海に沈んだ。その面影は忘れんとすれども忘られず、忍ばんとすれども忍ばれず。残りとどまった人々のおめき叫んだ声は、地獄の底の罪人もこれには過ぎじとおもわれた(地獄道)。

壇浦で捕えられ上京する途中、明石浦でまどろみながらみた夢には、先帝はじめ一門の公卿殿上人が竜宮城で礼儀を正していた。かつて見知った昔の内裏にはるかにまさる城だったから、「めでたい所ですが苦はありませんか」と問うと、二位尼とおぼしく、「経典のなかに竜宮の苦が説かれている。よく後世をとむらいなさい」と答えたので、その後いよいよ読経と念仏にはげんでいる(畜生道)。

女院の物語をきいて法皇は、高僧が六道の相を目撃することをきっかけとして悟りをひらく例があるときく、ついては女院がこれほどまのあたりにその全相を見たのはかたじけなくありがたくおもわれると述べ、涙にむせんだので、お供の公卿殿上人ももらい泣きした。

そうするうちに時が過ぎ、「寂光院の鐘の声、今日も暮れねとうち知られ」、法皇は還御した。

「女院は、いつしか昔をや思し召し出させ給ひけん、忍びあへぬ御涙に、袖のしがらみせきあへさせ給はず」。

女院の歌。

いざさらば涙くらべんほとゝぎすわれも憂き世に音(ね)をのみぞ鳴く

この年の晩秋、かつて女院に仕えた右京大夫が女院の閑居を訪れる。「建礼門院右京大夫集」(下)には、女院の侍尼は、「わずかに三、四人ばかりぞ侍はるる。」と記す。「今や夢昔や夢と迷はれて いかに思へどうつつともなし」。「建礼門院大原におはしましける頃」との詞書があり、その後、女院はここから移ったという

右京大夫は、昔にかわるその暮しを見て、「ためしなく悲しみ」、

今や夢昔や夢と迷はれていかに思へどうつつともなし

とうたっている(『建礼門院右京大夫集』)。過ぎた時間が長かったというのではない。長いと思わせるほどに、過ぎたヒト現実とが隔絶し過ぎていた。すべてが夢であった。"


大原御幸にかかわる記事は、他では貞応(じょうおう)元(1222)年に成立した仏教説話集「閑居友(かんきょのとも)」に見えるだけで、同書は「かの院(後白河院)の御あたりの事をしるせる文」によったとあり、『平家物語』も同じ材料に基づいたと推測されている。『閑居友』が記録的であるのに比べ、『平家物語』とくに語り本系では、多分に唱導(しょうどう、一定の法式によって説法を行なうこと)色の濃いものになっている。

これらは他の確かな史料には見えないので、作家永井路子氏などは、御幸自体がフィクションであるとされる。氏はいくらお忍びでも、公卿6人・殿上人8人がお供についた院の御幸が、驚くべき情報網をもつ九条兼実の『玉葉』などに記されていないのはおかしいし、覚一本などで女院の大原の住まいをたいそう物寂しく、生活もひどく貧しげに書いている点も、後世の付加された物語である可能性を感じさせるという。

この地は、延暦寺の別所で、発心者たちが庵生活をするところであった。近くには後世三千院の本堂となる平安後期の代表的な阿弥陀堂建築、往生極楽院もあり、まったくの無人境ではなかった。


高橋昌明『平家の群像 物語から史実へ』(岩波新書)より引用

「それよりむしろ、後白河法皇の彼女を見るまなざしに尋常でないものがある。治承五(一一八一)年、内乱二年日の正月、以前から重篤であった高倉上皇の病がいよいよ重くなった時、上皇が亡くなったら中宮徳子を法皇の後宮に納めるという策が持ち上がり、徳子の頑強な抵抗で立ち消えになった。法皇は男色にも手を染めたが、女色についても旺盛であった。彼は平家にたいして悪感情をもっていたが、徳子個人には興味があった。そうでなければ法皇の後宮に入れようという策が思いつかれるはずがないだろう。また『山丞記』には、前年一一月一三日夜、徳子が重衡率いる勇士に護衛されて法皇のいる六波羅池殿に行啓した、これを「最密の儀」であるといい、また翌々日のたそがれ時、法皇が中宮の方に渡御した、など思わせぶりな記事が見える。両者の関係はただの噂にとどまらないかもしれない。

もちろん筆者はこれらをいいたて、女院の性のルースに及ぼうとするものではない。ただ、彼女の出家や大原入りの背景に、内乱期の苛酷な現実、女性なるがゆえに負わされた悲しみや強いられた屈辱を感知すべき、と思わざるをえないのである。そして女院の述懐には、このような物語を創作し、彼女への陋劣な好奇心やむごい強い語りを述べることで法皇批判をほのめかし、いまわしい過去からの解放を願った彼女に同情と共感を寄せた人びと、あるいは逆に愛欲に生きた高貴な女性の零落を想像し、卑俗で残酷な興味を満足させた人びとがいることを、ともども読み取りたい。

この後、語り本系『平家物語』 では、建久二(一一九一)年、女院が寂光院阿弥陀三尊の中尊の手に五色の糸を結び、往生への仏の迎えを願いながら没したとする。しかし事実は女院は姉妹のつてで京に戻り、法勝寺あたりや東山の鷲尾に移住し、貞応二(一二二三)年に亡くなったらしい。大原の寂光院に隣接する大原西陵は女院の陵墓だが、彼女はここで死んだわけではなかった。

大原の地は、彼女のメタモルフォーゼのために用意された、つかの間の宿りにすぎない。」


つづく









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