2023年1月13日金曜日

〈藤原定家の時代239〉文治2(1186)年4月5日~4月20日 頼朝・政子、静に鶴岡八幡宮の廻廊で舞を奉納させる 頼朝、摂関家領相続をめぐる争いに関して摂政兼実を支援する   

 

歌川国芳〈十賢女扇 静御前〉

〈藤原定家の時代238〉文治2(1186)年4月4日 頼朝、長谷部信連を御家人として召し使うことになった旨、西海の土肥実平に通達 〈長谷部信連のこと〉 より続く

文治2(1186)年

4月5日

・藤原頼輔(75)没

4月8日

・頼朝・政子、静に鶴岡八幡宮の廻廊で舞を奉納させる。

頼朝や政子が静の舞をみたいといったが、はじめ静は病気と称して応じなかった。義経の妾としての自分が、そんなことをするのは恥辱であるといってしぶっていた。しかし政子が、静はたまたま鎌倉に来ていて、近く帰京するので、その舞をみないのは残念だ、是非みたいとしきりに頼朝にねだったので、この日、頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣したついでに静を回廓に召し出し、これは自分達がみるのではない、八幡大菩薩に奉納するのであると屁理屈をつけた。静は尚も固辞していたが、頼朝の再三の催促に、やむなく立って舞った。伴奏の鼓(つづみ)は京都に長くいて歌曲に堪能であった工藤祐経がうち、畠山重忠は銅拍子をうつた。

静はまず、

よし野山 みねのしら雪ふみ分て いりにし人のあとぞこひしき

とうたい、つぎに別離の悲しみをよんだ曲をうたったあと、

しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな

と歌って舞おさめた。歌は聴衆を魅了(みりよう)した。ところが、頼朝は、おれの目の前で、義経をしたい、別れの曲などをうたうのはけしからん、怒った。政子は静の行為は貞女の姿であると諭し、頼朝は怒りを静めたという。

「二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。・・・身の不肖に於いては、左右に能わずと雖も、豫州の妾として、忽ち掲焉の砌に出るの條、頗る恥辱の由、日来内々これを渋り申すと雖も、彼はすでに天下の名仁なり。適々参向し、帰洛近くに在り。その芸を見ざれば無念の由、御台所頻りに以て勧め申せしめ給うの間これを召さる。偏に大菩薩の冥感に備うべきの旨仰せらると。近日ただ別緒の愁い有り。更に舞曲の業無きの由、座に臨み猶固辞す。然れども貴命再三に及ぶの間、なまじいに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。左衛門の尉祐経鼓たり。・・・畠山の次郎重忠銅拍子たり。静先ず歌を吟じ出して云く、 よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき 次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、 しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな

誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云く、八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚らず、反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州多年の好を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉げて賞翫し給うべしと。時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。これを纏頭せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月10日

・重源、陳和卿・番匠・弟子らを率いて周防に下向し、杣山から良材を搬出しようとする。しかし、周防もまた「天下の騒動(内乱)以後、いよいよ作田畠荒廃し、土民無きが如し」(「鎌倉遺文」109号)といわれる状態で、この日の出来事として、「国中の飢人が雲集」した。「源平合戦の時、周防国、地を払ひて損亡す。故に夫は妻を売り、妻は子をウル。或は死亡、数知れざるものなり、わづかに残る所の百姓、存するがごとし、亡きがごとし」という悲惨な状況。重源は船中の米すべてを彼らに施行した。このような施行が度々に及び、さらに農料・種子を配布し人民の生活が成り立つように尽力したという。

4月13日

・「北條殿京都より参着す。京畿沙汰の間の事、條々御問有り。また子細を申さる。就中、謀反の輩知行の所々を注し、その地を検知すべきの由言上すと雖も、これを聴されず。次いで前の摂政殿の家領等を仰せらる。当執柄の方に付け渡され難き由の事、潤色の詞を加え計り申さる。次いで播磨の国守護人国領を妨げる由の事、在廰の注文・景時代官の状これを下さると雖も、未だ是非を申し切らず。次いで今南・石負両庄並びに弓削杣兵粮の事、度々院宣を下さるるの間、早く停止すべきの由、請文を捧げ下向しをはんぬ。凡そ條々、去る月二十四日伝奏を蒙るの由、毎事二品の御命に違わずと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月20日

・頼朝、摂関家領相続をめぐる争いに関して摂政兼実を支援する。また、義経・行家がなお洛中におり、叡山に義経に同意する僧がいると朝廷に訴える。頼朝は朝廷に然るべき処置をするように指示し、実行しないならば、比叡山に武士を送って捜索することを告げる。


〈摂関家領相続をめぐる争い〉

頼朝の政治介入は不十分で、後白河の政権はそのまま残っていた。同じく、摂関家の権力継承も完全には実施できなかった。

法住寺合戦の勝利によって、後白河院政を停止させた義仲と結んだ基房は、基通から摂関家領や日記、文書といった代々の家産を奮い取って摂関家嫡流の地位を手中に収めた。ところが、兼実の場合、摂政には任じられたものの、基通から家産を奪い取れるような強制力はなく、摂関家代々の家産は依然として基通のもとに留め置かれた。

そこで、兼実は頼朝を後ろ盾に家産の接収を図った。頼朝も、基実没後、後家の盛子が家産を相続し、摂政基房は「氏寺領」しか知行できなかったことがあったが、そのときのことは、平氏による「極めて無道の邪政」だったと言って、兼実を支援した(『吾妻鏡』4月20日条)。

ところが、基通はこれに強く反発して後白河に愁訴した。後白河はこのことを鎌倉に伝えたので、頼朝は摂関家領を分割するという案を提示する。摂関家領の中には、正月儀礼をはじめとする摂関家年中行事の財源として固定された京極殿領という所領群があり、これだけを切り離して兼実に相続させるというかたちで譲歩しようとした。

しかし、京極殿領は摂関家領の核心だけに、基通はこれにも納得しなかった。これ以前、京極殿領は摂関家代々の文書や日記とあわせて相続されていた。したがって、京極殿領が兼実に接収されたとすれば、文書や日記についても兼実に接収された可能性が高い。だとすれば、家産もなく、政務・儀式作法に疎い基通やその子孫はとても摂関家の家格を維持できなかったはずで、これが実現すれば、基通が没落するのは目に見えている。

そこで、基通を寵愛する後白河も頼朝の提案を受け入れようとはしなかった。文治2年7月3日、後白河が頼朝の提案に対して送った最終的な回答は、「大略所領の事、一向前長者(基通)に付すべし」というもので、結局、兼実は日記・文書・荘園といった代々の摂関家に伝わる家産をなに一つ相続できないままに終わった。基通は摂関の地位を追われたものの、摂関家嫡流としての地位を保持し、兼実は摂関になったものの、嫡流になれないという不安定な状能がそのまま固定化することになった。

「摂録の御家領等の事、二品京都に申せしめ給う。その趣、前の摂政殿白河殿領と称し、氏寺の社領等を除く外は、皆御押領と。尤も以て不便の次第に候。摂政家爭か御家領無く候や。平家在世の時、中摂政殿後室と号し白河殿悉く領掌し候所なり。松殿纔に氏寺領ばかり知行し給う。その時の事極めて無道邪政に候や。代々の家領、新摂政家領掌せしめ給うべく候。ただ知足院殿御附属の高陽院の御庄五十余所と。それを以て前の摂政家御領掌有るべく候か。最も道理に任せ仰せ下さるべく候かてえり。また今日行家・義経猶洛中に在り、叡岳の悪僧等同意結構するの由、その聞こえ有るの間、殊に申し沙汰せらるべきか。然らずんば、勇士を彼の山に差し登せ、件の悪僧等を捜し求むべきの由、師中納言の許に仰せ下さる。これに依って源刑部の丞為頼(元は新中納言知盛卿の侍。故為長親者なり)使節として上洛すと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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