2023年1月10日火曜日

〈藤原定家の時代236〉文治2(1186)年2月1日~2月30日 義経主従、奥州平泉へ出立 「今日、廣元肥後の国山本庄を賜う」(「吾妻鏡」) 「二品の若公誕生す。御母は常陸の介籐時長の女なり」(「吾妻鏡」)  

〈藤原定家の時代235〉文治2(1186)年1月2日~1月29日 義経家臣佐藤忠信(28)、逃亡中の京都で襲われ討死 「豫州の在所今に聞かず。而るに猶推問せらるべき事有り。静女を進すべきの由、北條殿に仰せらると。」(「吾妻鏡」) より続く

文治2(1186)年

2月1日

「今日北條殿、六条河原に於いて群党十八人の首を刎ねる。凡そ此の如き犯人は、使の廰に渡すべからず。直に刎刑に処すべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。

「正月二十三日、同二十八日、洛中に群盗蜂起す。則ちこれを搦め獲て、去る一日十八人梟首しをはんぬ。」(「吾妻鏡」同13日条)。

2月2日

「二位家諸国宰史の事に就いて、條々京都に申せしめ給う事有りと。 一、前の対馬の守親光を以て、還任せらるべき由の事・・・一、散位源邦業国司の事・・・下総の国は同じく御分国たるの間、これを挙し申さると。 一、毛呂の太郎藤原季光国司の事。これ太宰権の師季仲卿の孫なり・・・御分国たるに就いて、豊後の国を挙し申せしめ給うと。 一、御家人官途の事。各々遠国に住せしめ、久しく顕要の官を帯すべからざるの由、慎み存ぜしめ給うに依って、辞書八通これを献覧せらる。 以上経房卿に付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月2日

・義経主従、山伏の出立ちで奥州平泉へ出立。

義経一行、粟田口、松坂、逢坂の関を経て大津の浦に着。大津領主山科左衛門が園城寺の僧を騙って待ち受けるところを、大津の豪商大津次郎の計らいで船で海津の浦に着。海津から愛發山(あらちさん、敦賀市、荒乳山)の難所を越え越前に入る。愛発関を過ぎて敦賀へ向かう一行に井上左衛門の下僕の平三郎が、この先に義経を待ち構える者が大勢いるため、一旦戻って、この山の峠から東方へ、能美越えの道をとる方がよいと一行を欺く。弁慶はこれを見破り、平三郎を斬り、雪の中を敦賀へ向かう。荒乳山の北麓近くの「三の口」(道口)は、若狭と能美山へ行く三叉路で交通の要衝で関が造られているが、関守の兵に囲まれながら弁慶の機転で難を逃れる。敦賀の港まで下り、気比菩薩に夜どおし祈った後、出羽へ行く船を探すが、2月初めのため見付からず、翌日、木ノ芽峠を越え、越前国府に着。国府で3日留まる。後、平泉寺~菅生天神(加賀市)~金津~篠原(加賀市)に泊。

2月6日

・一条能保、京都守護のため鎌倉発。(3月27日鎌倉に戻る)時政の後の時定と共に義経探索にあたる。

「左典厩能保帰洛す。・・・また左典厩昇進の事、及び同室家禁裏の御乳母たるべきかの事、二品執り申せしめ給う所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月7日

・大江広元による「義経・行家謀逆の間計らい申す事等」が「始終符合」することに大いに感心した頼朝は、恩賞として肥後国山本荘を広元に与える。山本荘は、本家職(ほんけしき)を八条院が領有していた荘園。この恩賞給与は、単に守護・地頭制設置の献策のみならず、義経対策全般への広元の関与に対する恩賞といえる。『吾妻鏡』は、この時広元に与えられた所職名を明記していないが、「地頭職」であったことが確かめられている。山本荘の地頭職は、平家方についた菊池氏の所領であった。

「今日、廣元肥後の国山本庄を賜う。これ義経・行家謀逆の間計り申す事等、始終符合す。殊に感じ思し食さるるに就いて、その賞に加えらるるの随一なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月9日

「北條殿の飛脚京都より到来す。院宣を持参す。御熊野詣での事、定長の奉書此の如し。今春中遂げしめ御わんと欲す。御山の供米等沙汰し進せらるべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月13日

・京都の北条時政、静を鎌倉に送るべきか尋ねる書状が届く。

2月18日

・義経の多武峰潜伏の報あり。義経師の鞍馬の東光房阿闍梨や興福寺の周防得業(すおうとくぎよう)を、義経に同意したとの疑いで鎌倉に召し下すことを決す。

「豫州多武峯に隠住する事風聞す。これに依って彼の師壇鞍馬の東光坊阿闍梨・南都の周防得業等、同意の疑い有り。これを召し下さるべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月24日

・兼実、先に夢想のことを告げた仏厳上人を請じて、怨霊鎮撫のための祈祷を求める。

「近日天下の乱、偏(ひとえ)に保元の怨霊の所為の由、夢想等有り。仍つて且は天下を鎮めんために、且は冥途を訪はんため、殊にこの仏事を修する所なり。」(『玉葉』)

2月24日

・後白河(60)、院宣を下し、新に国司等を任じ成功を募り諸社を修造させる

2月24日

「申の刻、頭の左中弁光長来たり條々の事を申す。その中左馬の頭能保衛府の督に任ぜらるべきの由、関東より師卿に付き院に奏す。而るに当時闕無し。何様行わるべきやの由院宣有りと。・・・ただ御定有るべし。また対馬の守親光還任すべきの由、同じく関東より申せしむと。・・・余云く、これまた勅定在るべし。また云く、行家・義経等猶尋ね捜すべきの由同じく奏聞す。・・・余云く、大事なり。宣旨を賜うべきかてえり。」(「玉葉」同日条)。

2月26日

・頼朝と常陸介娘(頼朝の自邸に仕えていた女房・大進局(だいじんのつぼね))との間に貞暁、誕生。正妻の平政子は、これに激怒し、彼女を邸より追い出し、長門江七こと大江景遠の浜の宅で出産させたが、御産に伴う一切の儀式を省略させた。

この頼朝の三男は、建仁3年(1203)6月、18歳のとき隆暁大僧都について出家し、法名を能寛と称した。後に師の暁字をとり、法名を貞暁(じようぎよう)と改めた

「二品の若公誕生す。御母は常陸の介籐時長の女なり。御産所は長門の江七景遠が浜の宅なり。件の女房殿中に祇候するの間、日来御密通有り。縡露顕するに依って、御台所御厭の思い甚だし。仍って御産の間の儀、毎事省略すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月27日

「安達の新三郎飛脚として上洛す。申さるる條々、摂政の詔を右府に下さるべきの事、その内有るか。右府は法性寺殿の三男なり。和漢の才智頗る人に越えしめ給うと。当摂政殿本より平氏の縁人たり。関東に御隔心有るの処、去年義経逆心を顕わすの時、追討の宣旨、偏に彼の御議奏に依るの由風聞す。仍って挙し申さるべきの趣、内々右府に啓せらる。而るに時宣に叶うべからざるの旨、右府御猶予有りと雖も、遂にこれを申せらるるかと。また北條殿早く帰参せらるべきの由仰せ遣わさる。関東の事に於いて御談合有るべき事数有り。洛中守護は、すでに左典厩に仰せらるべきが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月28日

・頼朝、諸国荘園の兵粮米停止を奏上 (3月21日、勅許)

「京都に申さるる条々、その沙汰有り、治定すと。 一、五畿七道諸国の庄園に仰せ、兵粮米の進を免除し、土民を安堵せしむべき事・・・一、肥前の国神崎御庄、武士の濫行を停止すべき事・・・一、上皇御灌頂の用途、早く沙汰し進上すべき事 一、筑後の介兼能使節の間、無実を称すこと有り。すでに叡慮に背くの由ほぼこれを承るに就いて、永く召し仕うべからざる事 以上の両條、師中納言に申さるべしてえり。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月30日

・行家・義経探索宣旨(「衾の宣旨」)。熊野・金峯山・大和・河内・伊賀・伊勢・紀伊・阿波に義経捜索の宣旨下る。

2月30日

・正五位下右衛門佐藤原隆雅、能登権介の兼任命じられる。平家に好意的な隆房の同母弟。能登に配流中の平時忠への配慮もありうる。


つづく

 


0 件のコメント: