2023年1月7日土曜日

〈藤原定家の時代233〉元暦2/文治元(1185)年11月25日~11月29日 定家(24)、殿上での争いにより殿上人除籍 文治の勅許 「件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣べて以て田地を知行すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。」(「玉葉」)

 


〈藤原定家の時代232〉元暦2/文治元(1185)年11月24日 時政による苛烈な平家残党狩り(2) 〈『源平盛衰記』にある阿証房上人の話;内裏女房の左衝門佐〉 〈平宗実の場合〉 〈維盛の子、六代の場合〉 より続く

元暦2/文治元(1185)年

11月25日

・頼朝、御家人に対して、狼籍しないという心遣いは敵のいない時の話で、狼籍するなという院宣があっても敵を捜し出せ、と厳命。戦時での幕府の軍事行動の性格を表す。(「大江広元奉書案」)

11月25日

・夜、藤原定家(24)、少将源雅行と殿上に争い殿上人除籍さる。翌年3月、除籍解除。

五節の舞姫の試(こころみ)が行なわれた際、少将源雅行が定家をひどく愚弄し、大変な狼籍に及んだので、定家が怒りを抑え切れず脂燭で雅行を打った(面を打ったとも)。このことで定家は除籍された(『玉葉』)。事の発端が分らないが、雅行の方から仕掛けたトラブルと思えるのに定家が処罰されたのは、ひとえに暴力に及んだからであろう。時に定家24歳、相手の雅行は18歳で、年下だったのが定家には許せなかったのかもしれない。 

喧嘩相手だった雅行とは諸行事に一緒しており、以後トラブルを起こすことはなかったようだ。しかし雅行自身についていえば、後年、息子と娘の近親相姦を知って激怒し、二人を殺害して道路に晒すという事件を起こしている。さすがに過行く人が見かねて、全裸の遺体に布をかけたという。親の雅行は京都から追放されている。『明月記』は、深刻な事件も種々書き留めているが、これは最も陰惨な事件の一つである。(『明月記の世界』)

「伝へ聞く、御前試の夜、少将(源)雅行、侍従定家と闘擾の事有り、雅行定家を嘲弄の間、頗る濫吹に及ぶ、仍て定家忿怒に堪へず、脂燭を以て雅行を打ち了ぬ(或は云く、面を打つと云々)、この事により定家除籍と云々、…」(「玉葉」)。

11月26日

・高階泰経の書状を受取った頼朝、使者を京都に派遣。この日院御所に赴き泰経に書状を渡す(実際は、この時泰経は伺候していなかったので、使者は書状を中門廊に投入れる)。頼朝追討院宣を出させた者こそ天魔であり、日本一の大天狗であると記す。

後白河院側が義経・行家の反乱を「天魔の所為」と弁明したことに対して、「日本国第一の大天狗は、更に他者にあらず候か」(『玉葉』11月26日条)と院を揶揄する頼朝書状が院御所に投げ込まれる。

「去る夜鎌倉より泰経卿の許に書札有り。院の御所に於いて相尋ねるの処、当時祇候せざるの由、人々これを答う。時に大怒し文筥を中門廊に投げ逐電しをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

11月29日

文治の勅許

北条時政、朝廷と折衝(頼朝追討院宣に対する責任追及と引替に)により、義経行家追捕のため諸国に守護・地頭の設置権と兵糧徴収権を朝廷に認めさせる。「日本国総地頭」「日本国総追捕使」の地位獲得。

既に支配下にある東海・東山・北陸道を除く畿内5ヶ国をはじめ西国4道に、謀叛人跡の没収地の荘郷地頭を指揮する国地頭、荘郷惣追捕使の指揮権を掌握する国惣追捕使設置を認めさせる。⇒都市貴族を中心とする諸権門の荘園支配と対立。

28日「諸国平均に守護・地頭を補任し、権門・勢家・庄公を論ぜず、兵粮米段別五升を宛て課すべきの由、今夜、北条殿、藤中納言経房卿に謁し申すと云々」。

29日「北条殿申さるるところの諸国守護地頭兵粮米の事、早く申す請うに任せて御沙汰あるべきの由、仰せ下さるるの間、師中納言、勅を北条殿に伝えらると云々」(「吾妻鏡」同日条)。

「伝へ聞く、頼朝代官北條(時政)丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻(ただ)に兵粮の催しに非ず。惣べて以て田地を知行すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。」(「玉葉」同28日条)。

「玉葉」記事による勅許の内容。

①五畿内・山陰・山陽・西海諸国の北条時政以下の頼朝家人への分与(義経・行家に与えた「九国地頭」「四国地頭」の否定と、彼らの追捕及び治安維持権限)。

②荘園公領を論ぜず、段別五升の兵糧米徴収。

③田地知行の権限。

現在の研究成果。

①地頭職の設置範囲は、旧平家支配地(平家没官領)や平家与同者をはじめとする所領(「謀反人跡地」)に限定。

②地頭職の性格は、広域的地域ブロックを対象とする占領軍政官的性格を有し、「国地頭」「惣追捕使」と呼ばれ、系譜的には守護の流れに属する。

これを踏まえるなら、①②は、従来より私的成敗という実効支配はなされており、文治勅許はこれの追認ということになる(私法世界から公法世界へ転換)。但し、王権との対立に孕む武権の可能性をはじめから放棄する思考に繋がる。

1185年末~86年6月、在地社会の混乱・恐慌の中で路線は修正される。中世領主権は、荘園制破壊の上にではなく、それとの癒着の上に成立する道を選択する。1192年頃には、頼朝の「諸国守護権」(、①謀反人発生の予防、②謀反人の討伐、③凶悪犯の追捕)程度に後退。

12日付大江広元の守護・地頭設置献策文(「吾妻鏡」)。

天下反逆の者を鎮めるためにその都度関東武士を派遣するよりは国が荘園ごとに守護地頭を設置するほうが、煩わしさ・費用の点で安心である。

守護:

謀反人・殺害人・大番催促の取締り(軍事・警察権、御家人の統率)。

大番(役):

京都の警備、催促は過怠なきよう催促する仕事。他に「鎌倉番役」があり。

地頭:

荘園の管理(税の徴収等)・荘園内の治安維持(義経を捕縛の名目)、任命権は鎌倉方にある。

全国に守護・地頭を配置する予定であったが、荘園領主の猛反対のため、旧平家方所領、義経随伴者の所領等に限定。但し、平家所領は膨大であり、部分的ではあるが、実質的に頼朝(武家)による全国支配が整備されたことになる(寿永2年の宣旨では、東国地域の行政支配権を認知され、文治元年の勅許ではそれを畿内四道(山陽・山陰・南海・西海)に広げる)。


11月29日

・義経、多武峯の十字坊の言に従い、十津川へ向かう。僧8人を付けてもらう(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

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