2023年1月20日金曜日

〈藤原定家の時代246〉文治2(1186)年8月15日~9月27日 頼朝、西行に和歌・弓道の道を問う 兼実、家領相続を断念 磯禅師・静親子、帰洛 「御台所ナラビニ姫君憐憫シタマフ」(「吾妻鏡」)    

 

〈西行法師子供に銀猫を与ふるの図〉

〈藤原定家の時代245〉文治2(1186)年閏7月10日~閏7月29日 「前の伊豫の守の小舎人童五郎丸を搦め、子細を召し問うの処、去る六月二十日の比に至るまで、山上に隠居し候の旨、申し上げ候所なり。」(「吾妻鏡」) 静が男子を出産するが、直ちに由比浦に棄てられる より続く

文治2(1186)年

8月15日

・頼朝、東大寺再建勧進(奥州砂金勧進)のため廻国する西行を召し、和歌・弓道の道を問う。

〈『吾妻鏡』の記述〉

頼朝が鶴岡八幡宮を参詣した折り、老僧が鳥居のあたりを徘徊していた。梶原景季に命じて名前を問わせたところ、佐藤兵衛尉憲清という法師で、西行と号しているという。頼朝は宮奉幣後、西行に謁見して、歌道や弓馬のことなどをあれこれ尋ねた。西行が言うには、弓馬の道については、出家するまでの初めの間は家風を伝えていたが、保延3(1137)年8月に出家してから後に、(俵藤太藤原)秀郷朝臣以来9代にわたって相承してきた兵法も焼いて捨てた。また、罪業の原因になるから、それらのことは心の底にも残し留まることのないように、あえて皆忘れ去ってしまった。詠歌については、花や月に対して心揺るがせらる折り節に、ただ31文字を作るだけのことで、深く理解している訳ではないので、あれこれ伝えるようなことはない、などと答えた。しかし、頼朝は等閑にすることなく、あれこれお尋ねたので、弓馬の道については詳しく語ったという。そこで、頼朝は、右筆筑後権守藤原俊兼に命じて西行の言葉を書き取らせた。話はもっぱら終夜に及んだという。

翌日の昼頃、西行は頼朝の御所を退出する。頼朝は銀で作られた猫を西行に贈ったが、西行はこれを拝領し、門外に出て、そこに遊んでいた子供たちにその銀の猫をやってしまった。西行は東大寺再建の勧進のため重源に請われ、奥州へ陸奥守藤原秀衡を訪れようとしていた。秀衡入道は西行上人の一族でもある。


「二品鶴岡宮に御参詣。而るに老僧一人鳥居の辺に徘徊す。これを怪しみ、景季を以て名字を問わしめ給うの処、佐藤兵衛の尉憲清法師なり。今西行と号すと。仍って奉幣以後、心静かに謁見を遂げ、和歌の事を談るべきの由仰せ遣わさる。西行承るの由を申せしめ、宮寺を廻り法施を奉る。二品彼の人を召さんが為早速還御す。則ち営中に招引し御芳談に及ぶ。この間歌道並びに弓馬の事に就いて、條々尋ね仰せらるる事有り。西行申して云く、弓馬の事は、在俗の当初、なまじいに家風を伝うと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因たるに依って、その事曽て以て心底に残り留めず。皆忘却しをはんぬ。詠歌は、花月に対し動感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。全く奥旨を知らず。然らば是彼報じ申さんと欲する所無しと。然れども恩問等閑ならざるの間、弓馬の事に於いては具に以てこれを申す。即ち俊兼をしてその詞を記し置かしめ給う。縡終夜に専らせらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「午の刻西行上人退出す。頻りに抑留すと雖も、敢えてこれに拘らず。二品銀作の猫を以て贈物に宛てらる。上人これを拝領しながら、門外に於いて放遊の嬰児に與うと。これ重源上人の約諾を請け、東大寺料の砂金を勧進せんが為奥州に赴く。この便路を以て鶴岡に巡礼すと。陸奥の守秀衡入道は、上人の一族なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。

8月19日

「申の刻、蔵人次官定経院の御使として来たり。鎌倉の書札等持ち来たる所なり。申状條々の中、諸国に功を付けらるるの中、諸寺及び大内等の修造は、頼朝の知行国に充てらるべき事、記録所を置かるべき事、光雅朝臣昇進の事等、申し上げる所なり。院宣に云く、件の事等摂政殿に申し、急ぎ計り沙汰有るべしと。」(「玉葉」同日条)。

8月20日

・安達盛長、御移徒の儀を沙汰する。

「小御所の東、この程修理を加えらる。今日御移徙の儀有り。籐九郎盛長上野の国役としてこの事を沙汰すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月26日

・「蓮花王院領紀伊の国由良庄に於いて、七條細工字紀太謀計を構え濫妨を致すの由、領家範季朝臣の折紙並びに院宣到来するの間、今日下知せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月5日

・兼実、「近日の事、余(よ)自専(じせん)に及ばざる者か。虎の尾を踏むを危ぶむの故なり」と記す。摂関家領の問題はまさに「虎の尾」だった。後白河の強い反発の前に兼実は戦々恐々で、家領相続を断念せざるをえなかった。

9月5日

「諸国庄公の地頭等、領家の所務を忽緒するの由、その聞こえ有るに依って、有限の地頭地利の外は相交るべからず。乃具以下懈緩を存ずべからず。違越の輩に於いては、殊に罪科有るべきの由定めらると。また賀茂別雷社領の事、院宣到来するの間、地頭の知行を停止し、社家に付けらるるの由下知せしめ給う。この外、同じく社領備後の国有福庄、實平の狼藉を停止すべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月13日

・越前の最勝寺領大蔵荘(鯖江市大倉町)、北条時政が地頭職を知行、時政は一族の平時定を地頭代として現地支配させる。この月、最勝寺が大蔵荘を平時定・常陸房昌明が押領していると後白河院に訴え、頼朝に院宣が下る(「吾妻鏡」同日条)。頼朝は年貢課役を勤めるよう命じる。

「最勝寺領越前の国大蔵庄の事、北條の四郎時政代時定並びに常陸房昌明等押領を致すの由、寺解を副え、院宣を下さるる所なり。仍って御沙汰を経らる。自今以後、時政地頭職を知行すと雖も、本寺の下知を忽緒すべからず。早く新儀の無道を停止し、本寺の進止に従い、年貢課役の勤めを致せしむべきの由仰せ下さるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月16日

・磯禅師・静親子、帰洛のため鎌倉を発つ。政子・大姫は多くの重宝を与える「御台所ナラビニ姫君憐憫シタマフ」(「吾妻鏡」同日条)。その後の静の消息は不明。

9月20日

・義経の郎党堀景光、院近臣藤原範季と連絡をとり京に潜伏中に糟屋有季により中御門東洞院で捕縛。佐藤忠信と従僕2人は自決(「玉葉」同日条)。景光は義経が南都の興福寺聖弘得業のもとにいること、木工頭藤原範季が義経に与同していることを自供(のち処刑?)。なお、『吾妻鏡』はこれを9月22日のこととする。

9月21日、比企朝宗500余、南都に向い奈良興福寺僧侶「周防得業聖弘」の房に入り、義経を求む。聖弘は逃亡、のち自ら出頭。

10月17日、聖弘、京都に召し出される。翌年3月8日頼朝による尋問。

「光綱申して云く、昨日卯の刻、武士二三百騎、観修房得業の聖弘房(放光房と称す)を打ち囲む。忽ち以て寺家を追捕す。何事かを知らず。仍って僧正使者を遣わしこれを尋ねらる。申して云く、九郎判官義行この家に在り。仍って捕取せんが為なりと。その上は是非に能わず。然る間散々に追捕す。聖弘逐電しをはんぬ。武士成る事無く即ち帰洛す。」(「玉葉」同22日条)。

「去る月朝宗等南都に打ち入り、聖弘得業の辺を捜し求むと雖も、義行(本名義経、去る比改名)を獲ざるの間、空しく以て帰洛す。これに依って南都頗る物騒。衆徒蜂起を成し、欝訴を含み維摩大会を停止すべきの由風聞すと。」(「吾妻鏡」10月10日条)

9月21日

・義経、この日以前に南都より伊賀へ?

9月27日

・龍造寺氏創始

南二郎季家、肥前佐嘉郡小津東郷の龍造寺村の地頭職を与えられ、龍造寺氏を創始。①季家は高木氏の出で、高木氏は在庁官人で川上大宮司職(与止日女神社)を持ち、有明海沿岸地域に勢力を伸ばしたとする説と、②父季清や養父季喜が元は北面の武士であり、仁平元年に季喜が源為朝に従って九州下向、久寿元(1154)年に肥前龍造寺村を受領したと言う説あり。


つづく





0 件のコメント: