2023年1月24日火曜日

〈藤原定家の時代250〉文治3(1187)年3月5日~4月29日 栄西、再び入宋 義経を匿った容疑で捕らわれた興福寺僧侶「周防得業聖弘」、頼朝に対面 壇ノ浦で没した幼帝に〈安徳〉という諡号が贈られる    

 


〈藤原定家の時代249〉文治3(1187)年1月1日~2月28日 義経(29)、伊勢・美濃など経て北陸路から陸奥に至る(藤原秀衡を頼る) 源通親従二位 丹後局従三位 九条兼実の嫡男良通急没 より続く

文治3(1187)年

3月

・栄西、再び入宋

3月5日

・義経が奥州にいるとの諸人の申状が一致(「吾妻鏡」同日状)。頼朝、義経が陸奥に所在し、藤原秀衡が義経に与同との情報に基づき、義経を召尋するよう京都に申し入れ、一条能保からの返書により、義経の奥州入り判明。

3月6日

・幕府、美濃の守護大内惟義の申請で同国に新駅を設置。

3月6日

・高野山で、保元以来の争乱で戦死した人びとのための追善と、頼朝と対立して姿をくらましている義経追捕のため、祈祷がおこなわれる。高野山の長者御室であった心蓮院俊証から検校のもとに院宣が伝えられ、それに基づいて行われた法要であった。

3月8日

・鎌倉、義経を匿った疑いで捕らえられた奈良興福寺僧侶「周防得業聖弘」、鎌倉に送られ、小山朝光に預けられ、この日頼朝と対面。

頼朝は、義経のために祈祷をし、しかも同意結構した真意を問う。聖弘は、祈祷の件は、義経からの慇懃なる依頼により、平氏追討の成功を祈ったまでで、それは報国の志である。また、義経が関東の譴責を受けて、師檀の関係から私(聖弘)を頼ってきたので、頼朝に謝るように諭して、下法師を副えて伊賀まで送り、後は音信がない。謀反を祈ったわけでもなく、諭して逆心を宥めたのに、どうして与同といわれるのか。と、自分の立場を弁明したうえで、頼朝に対して痛烈な批判を浴びせる。

関東の安全は、ひとえに義経の武功によっている。ところが、貴方(頼朝)は、讒言を真に受け、それまでの義経の奉公を忘れ、恩賞の地を召し返した。それでは、義経に逆心が起るのも当然のこと。すみやかに怒りを鎮め、和平の心をもって義経を呼び戻し、兄弟が魚水の思いをなせば、それこそ治国のはかりごとというものだ。これはけっして義経に同情して言っているのではない。天下が鎮まることを願ってのことだと述べる。

これには頼朝も感心し、勝長寿院の供僧職(ぐそうしき)に任命し、関東の繁栄を祈ることを命じたという(『吾妻鏡』3月8日条)。

聖弘の言い分はまさに正論であり、聖弘のように頼朝に面と向かって言う人はいなかったにしても、当時そういう思いを抱いていた人は多かったのでないだろうか。しかし、頼朝は感心こそすれ、それに従うはずもない。聖弘を罰せず、勝長寿院供僧職に任命したことは、頼朝の評価される行為として肯定的に解釈するのが普通であるが、興福寺の僧である聖弘からすれば、それは鎌倉拘禁にも等しく、頼朝は体よく聖弘を罰しているという解釈も成り立つ

「凡そ倩々関東の安全を案ずるに、ただ豫州の武功に在らんか。而るに讒訴を聞こし食し、忽ち奉公を忘れ、恩賞の地を召し返さるるの時、逆心を発すの條、人間の所堪然るべき事か。速やかに日来の御気色を翻し、和平の儀に就いて、豫州を召し還され、兄弟魚水の思いを成さしめ給わば、治国の謀りを為すべきなり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月10日

・夜須の七郎行宗は、壇ノ浦で岩国兼秀・兼季兄弟を生け捕りにするという功を立てるが、これは行宗の手によるものではないと主張する梶原景時との間で激しい論争となる。論争の結果は行宗の勝ちと判定され、景時は讒訴の咎で道路工事を命ぜられ。建久元年(1191)、頼朝によって正式に所領を安堵される。

「土佐の国住人夜須の七郎行宗と梶原平三景時と対問を遂ぐ。二品直にこれを決断せしめ給う。行宗壇浦合戦の時、平氏の家人周防の国住人岩国の二郎兼秀・同三郎兼季等を生虜り召し進せをはんぬ。その功に募り賞に行わるべきの由、日来言上するの処、景時支え申して云く、彼の合戦の比、全く夜須と称するの者無し。件の兼秀等は、自然帰降の輩なり。年序を経るの後、行宗奸曲を廻らし、子細を申すの由これを訴え申す。而るに行宗彼の時は、春日部兵衛の尉と同船に乗らしむの由、陳謝せしむの間、春日部を召し出し尋ね問わるるの処、勿論の旨を申す。すでに分明の證人たり。仍って賞に加えらるべきの趣、行宗に仰せ含めらる。景時讒訴の科に依って、鎌倉中の道路を作るべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月11日

・藤原定家(26)、石清水臨時祭も舞人欠如により領状す(「玉葉」)。

3月17日

・藤原成範(53)没

3月18日

・一条能保の使者が、天台座主全玄の請文を持って鎌倉着。頼朝の命により義経に同意の比叡山の僧民部禅師の捕縛を座主全玄に命じたが、姿をくらましたというので、再び禅師を捕らえるように後白河を通じての下知に対しての請文(『吾妻鏡』3月18日条)。

3月27日

「人告げて云く、法皇去る二十二日より御不予の事有り。大略瘧病の如しと。今旦洛に入御す。昨日大事発せしめ給う。今日無為すと。」(「玉葉」同日条)。

「酉の刻人告げて云く、大略御平復か。頻りに御尋ね有りと。仍って宮参す(秉燭の程なり)。兼雅卿を以て仰せ下されて云く、只今の如きすでに平復なり。・・・」(「玉葉」4月13日条)。

4月1日

・頼朝、京都周辺に邸宅建立許可を求める(「吾妻鏡」同日条)。紆余曲折の末、平頼盛邸の池殿(平氏の六波羅邸)とされ、建久元年の頼朝上洛時、ここが与えられる。

4月3日

・藤原定家(26)、所労の兼実の使として鳥羽殿祇候(「玉葉」)

4月4日

・義経の所在が不明のため鶴岡八幡宮以下の神社仏寺に発見の祈祷を行わせる。鶴岡八幡若宮別当が上野金剛寺で義経に遭う夢想を得たと報告(「吾妻鏡」同日状)。

4月19日

・「前の大蔵卿泰経出仕の事、勅許有るべきの趣、去る月六日の院宣到着せしむ所なり。而るにこの事度々仰せ下さるるの上、二品の御欝憤漸く休ましめんと欲するの間、帰京を免さるべきの由、内々これを申さるると雖も、また与儀有り。昵近奉公の事に於いては、暫く勅許有るべからざるの旨申さるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月23日

・壇ノ浦で没した幼帝に〈安徳〉という諡号が贈られることになる。

「権大納言実家卿参入、尊号の事を行ふ。〈先帝を安徳天皇と号す〉」(『百錬抄』)

「又先朝の諡号の勅を下さる。〈延暦の例なり〉上卿新大納言実家卿、内記内覧のため持ち来たる。見了り返し給ふ。仰せ、清書の内覧を免ずる由仰せ了んぬ。抑近例勅書御画(おんはかりごと)無し。然れども大事に於ては、若しは御画あるべきか。大唐六典の文かくの如しと云々。仍つて参内せんとする処、猶不審に依り、勘例所見無し。随つて又公式令の説、延長・天暦等の例に依り、御画無き由所見あり。仍つて参内せず。」(『玉葉』)

〈延暦の例〉というのは、藤原種継の暗殺事件に連座して皇太子を下ろされ淡路に配流される途中船の中で自殺した早良(さがら)親王の霊を慰めるため、延暦19年(800)に淡路の墓を修理して山陵と称し、崇道天皇という追号を贈ったことを指したものであるが、2年前の建議の折に〈追而書〉として兼実が書き加えた、「崇遺天皇以下の例、或は太子たり、或は親王たり。依って帝王の号を贈る。その理然るべし。今度の儀に似ず。院号の条、又物議に叶はざるか。何ぞ只諡号を以て詮となすべきか。かくの如き間の事、委しく沙汰あるべきか。廃朝錫紵の事、専ら行はるべからざるなり」という意見が考慮され、〈太子〉でも〈院〉でもなくはっきりと〈天皇〉としての諡号が贈られた。〈徳を安ずる〉というその名に、非業の死を遂げた幼帝に対する鎮魂の祈りが込められている

4月23日

「周防の国は、去年四月五日、東大寺造営の為寄付せらるるの間、材木の事、彼の国に於いて杣取り等有り。而るに御家人少々武威を輝かし、妨げを成す事有るに依って、勧進聖人重源在廰等の状を取り、公家に訴え申すの間、その解状を関東に下さる。子細を尋ね仰せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月24日

「晩頭権の弁定長来たり。語りて曰く、頼朝卿上洛料の地を申請す。親能を以て申す所なり。山科沢殿の辺を指し申すと。而るに許さず。事の次第、凡そ左右に能わずと。具旨記し尽くし難きなり。今夕左大臣の意見到来す。武士濫行の事、委しくこれを注し申す。万人憚りてこれを申さず。元老の臣、猶直に謂うべきものか。」(「玉葉」同日条)。

4月29日

「三月の公卿勅使駅家の雑事、伊勢の国の地頭御家人等、多く以て対捍するの間、在廰等の注進状を召しこれを下さる。仍って今日二品彼の目録を覧る。不法の輩に仰せ、向後の懈緩を誡めらるべきの由、厳密の御沙汰に及ぶと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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