文治3(1187)年
1月1日
・「二品鶴岡宮に御参り、その儀例の如し。御台所並びに若公同じく参り給う」(「吾妻鏡」同日条)。
「営中の心経会なり。」(「吾妻鏡」同8日条)。
「二品並びに若公御行始めなり。」(「吾妻鏡」同12日条)。
1月20日
・頼朝、義経の叛逆を伊勢神宮に報告(「吾妻鏡」同日条)。
1月23日
・源(久我)通親、従二位となる。
1月29日
・藤原定家(26)、九条良経(兼実の子)従二位拝賀に供奉(「玉葉」)。
2月
・義経(29)、伊勢・美濃などの国を経て、陸奥の藤原秀衡を頼る。妻子を伴い、一行は山伏や稚児の姿に身をやつしていたという(『吾妻鏡』2月10日条)。
この逃避行は『義経記』(巻7)に詳しく、のちの『勧進帳』に代表される多くの伝説を生む。一行は、『義経記』に記されているように北陸道を辿っていたと考えられる。
義経一行を奥州へ送ったのは、比叡山の悪僧俊幸とその伴党であったらしい(『吾妻鏡』文治4年(1188)10月17日条)。伝説の弁慶像には、こうした俊幸のような存在が投影されている。
秀衡は義経一行の平泉入りを歓迎し、義経を大将にいただき頼朝と一戦を交える覚悟があることを諷し、中尊寺の門前近くの高館に義経を住まわせる。
2月1日
・頼朝、建礼門院徳子に女院領として平宗盛の旧領地摂津真井・嶋屋荘を贈り、ある程度の体面を保てるよう取り計う(「吾妻鏡」同日条)。
2月1日
・「夜に入り、権の弁定長院の御使として来たり曰く、義顕の間の事、今一度議定有るべし。申して云く、院の殿上に於いて候すべきなり。定長云く、院の僉議叶うべからず。明日以後十六日に至るまで次第指し合い、御所定まらず。一日休閑の隙無し。仍って御直廬に於いて議定有るべきの由仰せ下さるるなりと。」(「玉葉」同日条)。
「親経来たり院宣を伝えて云く、猶汝の直廬に於いて義顕の事を定むべし。人々に問わるべきの趣、申す旨然るべし。早くその趣を以て尋ね問うべしてえり。」(「玉葉」同4日条)。
2月8日
・公卿、院宣により義経追捕とその御祈りについて議す(「玉葉」同日条)。
2月12日
・平信範(76)没
2月10日
・義経、伊勢美濃を経て奥州に下る噂あり。
「前伊予守義顕日来所々に隠れ住む。…遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州に赴く。…妻室男女相具す。皆姿を山伏ならびに児童等に仮ると云々」(「吾妻鏡」同日条)。これは結果に基いて作成された記事。この時点では詳細不明。
2月19日
・丹後局(後白河院愛妾、高階栄子)、従三位に叙任。
「殊寵無双、李夫人・楊妃に異ならざるか」(「玉葉」同日条)。
2月20日
・九条兼実の嫡男良通、急没。次男良経に希望を託す。
2月20日
・兼実、「近年無きが如し」という御厨子所(みずしどころ、天皇の食事を掌る役所)の復興を命じる。兼実は「公事興行(くじこうぎょう)」と称して、廃絶・形骸化していた制度や政務の復興を進めてる。
2月28日
・里内裏(さとだいり、本来の内裏の外に設けられた皇居)である閑院第(かんいんてい)に記録所(きろくしょ)が設置され、訴訟の裁定や荘園券契(証拠文普)の調査などに当たる。これは、頼朝の申請によっておこなわれたが、実は兼実の提案によるものであった。従来、訴訟の裁定は院の評定でおこなわれており、記録所の設置は、院に代わって兼実のもとで訴訟を裁定しようという意思のあらわれであった。
記録所は後三条天皇のとき以来、たびたび設置されているが、今回の記録所は、従来の記録所とは違い、公事用途勘申(くじようとかんしん、政務・儀式の費用の調査)の機能もあわせもっていたことが知られる。内乱によって朝廷財政が逼迫する中で、兼実は記録所に費用を調査させ、政務・儀式の財源確保を図った。
しかし、記録所は文治年間(1185~1189)にはほとんど機能しなかった。専門職員である寄人は、裁定の場である評定にやって来ず、勘文(かんもん、調査書)の提出も遅れ、提出されたとしても不十分なものであったという(文治4年5月17日条)
つづく
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