2023年10月18日水曜日

〈100年前の世界097〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;墨田区〉 「その半殺しの人を川べりにむりやりひきずってくるんです。その人たちは抵抗するんですけれど、もう抵抗するカもなくて、薪でおこした火の上に4人か5人の男の人が、朝鮮人の手と足が大の字になるように、動かないようにもって下から燃やしているんですよ。火あぶりですよね。・・・そして殺した朝鮮の人が次々に川に放りこまれているのです。」   

「朝鮮人が井戸に毒」100年後の今も…国や新聞も“デマ拡散”関東大震災で起きた虐殺
 

〈100年前の世界096〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;渋谷区、新宿区〉 「このようにして、毎日、東京で在日朝鮮人ばかりでなく、朝鮮人にまちがえられた日本人、朝鮮人を助けようとしだ日本人までが殺されるという数々の悲劇がつくりだされたのである。現に、私がのちに下宿した蛇窪の農家の主人は、自警団員として、日本人をまちがえて殺してしまった。このことで数か月の刑を受けたのである。彼はその後の生活が自暴自棄となり、家族たちまでがながく不幸を背おわされることになった。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈1100の証言;墨田区/吾嬬・小村井〉

南井としを〔労働運動家。当時亀戸の裏町の炭屋の2階に夫・細井和喜蔵と住む。震災後、夜は東京モスリン工場裏手のハス池辺に避難〕

3、4日日ころから、朝鮮の人をつかまえて小松川の方へ連れて行くのを見ました。朝鮮人が井戸に毒を入れたなぞといっているのをききました。在郷軍人だか右翼だか警官だか、その時はわかりませんでした。多い時には朝鮮の人を20人、30人ぐらいずつ麻のひもでじゆずつなぎにして、木刀や竹刀でなぐりながら、小松川の方へ連れて行くのを見ました。池のなかへ逃げこんだ朝鮮の人が、大きなハスの葉の下へもぐっているのを見て、ほんとうにお気の毒で言葉もでませんでした。見かねてにぎりめしと水を少しあげたら、手をあわせておがんでおられましたが、恐ろしいことでした。

(高井としを『わたしの「女工哀史」』岩波文庫、2015年)


司法省「鮮人を殺傷したる事犯」

3日午後3時、吾嬬町大畑509道路で、森田吉右衛門が朝鮮人1名を木棒で殴打し殺害した。

(姜徳相・琴秉洞縞『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

『国民新聞』(1923年10月21日)

9月3日午後1時府下吾嬬町字大畑510番地先にて姓不詳の鮮人を撲殺した犯人同町大畑506車力森田吉右衛門(39)と判明令状執行さる。

〈1100の証言;墨田区/旧御蔵橋・安田庭園〉

篠原京子〔当時11歳〕

朝鮮の人が殺されるのを見たのは3日の日でした。父をさがして被服廠のとなりの安田公園という、いまは本所公会堂になっているのかしら、そこを斜めに通ったところに川があった。隅田川に流れ込んでいるその川に橋があるんです。おくら橋とかみくら橋とかいいましたね。その橋のたもとなんです。

そこに来たとき、「国に妻子がいて、私は何もしていないんだ。日本でこうやってまじめに働いているんだ」って下手な日本語でしきりにあやまっている朝鮮人の声を聞いたんです。それでひょいと見たらテントの下に印半てんを着ている10人くらいの人が血を流しながら「うんうん」うなっているんですよ。

印半てんは、労務者なんかほら、昔よく着ていたでしょう。日本の人も朝鮮の人でも働いている人はね。両親が「見るんじゃない」「見るんじゃない」といったんですけれど、目をはなせなかったですよ。私の考えでは、薪かなにかで相当ぶたれ、いためつけられていてもう半殺しになっていました。テントの中では、「パピプぺポといえ」とか、なにか調べていたらしいです。

その半殺しの人を川べりにむりやりひきずってくるんです。その人たちは抵抗するんですけれど、もう抵抗するカもなくて、薪でおこした火の上に4人か5人の男の人が、朝鮮人の手と足が大の字になるように、動かないようにもって下から燃やしているんですよ。火あぶりですよね。焼かれると皮膚が茶褐色になるんです。だから焼かれている朝鮮人は悲鳴をあげるんですがもう弱っている悲鳴でした。そして殺した朝鮮の人が次々に川に放りこまれているのです。

それをやっていた人はね、おそらく普通一般の人ではないと思うんです。自警団というか在郷軍人かなんかいっちゃ悪いんだけど、戦争がすきな戦争になんか関係のあるような、そういうつながりのあるような人と思うんですよ。普通、警防団の人が着るようなしたくだったと思います。

〔略〕私は終わりまで見ませんでしたが、〔知り合いの〕おじさんが全部見てたら13人とか14人とかその場で殺したのを見たって、母にいったらしいですよ。

(日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)


野上彌生子〔作家〕

どうかとおもっていた河島さんが10日すぎにひょっくりたずねて来た時にはびっくらした。〔略〕河島さんは少し亢奮していたけれども、それでもよくいろいろ話した。

力士たちと炊き出しをしたことの、被服廠に3度も行って見たことの、3日もたって、半焦げになった人間が、一心でふらふらと立ち上がって歩き出すということだの。水をくれ、水をくれといっても水のないこと、3日目の雨が彼等の末期の水となったろうという話、また鮮人を殺ろした血でおみくら橋の下の水が赤くなって、足さえ洗われなかったという話。

(野上彌生子『野上彌生子日記 - 震災前後』岩波書店、1984年)


『萬朝報』(1923年10月23日)

「殺された請負師 鮮人を連れて焼跡へ帰る途中両国付近の自警団に」

神田区錦町3の20土木建築請負師渡邊武(31)は去月1日、焼跡片付けのため、府下南葛飾郡平井村の自己の工事場に使用している鮮人21名と日本人2名を引きつれて神田に帰る途中、3日午前7時頃、両国橋付近小ぐらの渡に差しかかると同所を固めていた自警団のために散々乱打され、武外数名は殺害された。

武の実弟喜代巳はそれとも知らず、本月1日東京憲兵隊に捜査方を願い出たので麹町分隊で取調べた所、武等は全く殺されたると判明喜代巳にその旨を知らせがあったので喜代巳はこの程東京裁判所検事局に訴え出た。

〈1100の証言;墨田区/鐘ヶ淵周辺〉

司法省「鮮人を殺傷したる事犯」

3日午後12時、隅田町大倉牧場附近で、高安芳太郎外1名が朝鮮人1名を日本刀で殺害した。

(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


『国民新聞』(1923年10月21日)

9月3日午後6時頃府下南葛飾郡隅田町に於て鮮人金今劉(27)を日本刀を以て重傷を負わした犯人は府下隅田町字隅田279大工職高澤芳太郎(38)と判明令状を執行され収監。


〈1100の証言;墨田区/菊川橋・錦糸町・亀沢〉

陳福興

3日昼、〔大島〕6丁目157番地から3丁目共済会を経て〔略〕道で3人の同郷人が打たれているのを見た。錦糸堀鉄橋のあたりでまた2人の中国人労働者が陸軍に連れ去られるのを見た。頭部は鮮血淋漓(りんり)。〔略〕菊川橋のあたりで道傍に2人の中国服の死体が血だまりの中にころがっているのを見た。両手は針金でしばられている。

(『時報』1923年10月18日→仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年)


福島善太郎

3日目の夕方、菊川橋際で工場の焼跡整理のかえり、素ッ裸にされて、電線でぐるぐる巻きにされて、鳶口や日本刀を持ったひとたちに、めった殺しにされている2人の朝鮮人をみたのでした。しかしこのときは、怪しいので尋問したところ、濁音が完全にいえないので、朝鮮人だと断定して殺しているんだと、殺気だって見物しているひとたちがいっていたが、当時は日本人でも風采が似ていたり、発音のたどたどしいひとは、朝鮮人と間違えて虐殺されたものもあるので、私はいまもなお、あの虐殺された2人が、どうも朝鮮人ではなかったような気がしている。

(「わたしの虐殺現場の目撃」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

つづく

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