大杉栄とその時代年表(387) 1902(明治35)年1月20日~24日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍①〉 青森第5連隊、天候悪化に遭遇し、第2露営地で多くの死傷者を出す より続く
1902(明治35)年
〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍②〉
1月25日
第31連隊(弘前)、午前7時30分戸来村を出発。
午後4時11分三本木に到着し舎営。移動距離20キロ。三本木で1名離脱。
1月25日
〔第5連隊第3日目〕
午前1時40分頃、第5連隊(青森)第2大隊長山口少佐が昏倒。第2露営地到着以降28人が斃れる(既に損害70、残る140中半数が凍傷)。
午前3時、神成大尉、夜明けまで待てぬとして馬立場方面を目指して前進下命。しかし、方位磁針は凍りついて用を成さず、地図と勘だけに頼った行軍となっていたため、前進・反転を繰返す。神成大尉「天は我を見捨てた」と叫び、反転指示。
凍傷で手が利かず、軍袴のボタンを外せぬまま放尿し、そこからの凍結が原因で凍死する者など死亡者が続出。
彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。さらに後に生存者として発見された数人の将兵を含む十数名が行方不明となった。長谷川特務曹長は雪原を滑落して道に迷い、彼に従っていた数名は午後2時頃に見出した平沢の炭小屋に滞在していた。炭小屋ではマッチで火をおこし暖を取ったが、みな激しい疲労からくる睡魔に襲われ、火の番をするのが困難になったため、翌1月26日午前3時頃に火事を恐れて火を消した。
午前5時半頃、第2露営地に戻る。
午前7時、比較的元気な第8中隊長倉石大尉が指揮官代理となり、斥候隊を募り、田茂木野方面に高橋他一伍長以下7名、田代方面に渡辺幸之助軍曹以下6名の計13名を送り出した。
高橋班の佐々木霜吉一等卒が馬立場付近で帰路を見出し、午前11時30分頃、戻ってきた高橋斥候長が帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中と報告した。
本隊は正午頃出発し、戻ってきた斥候隊について行った。この時点で隊は60名から14名(元の1/3以下)になっていた。
午後3時頃、馬立場に到着し、そこでもう片方の渡辺幸之助軍曹らの合流を待ったが、彼らは戻らなかった。高橋、佐々木の両名も重なり合うようにして凍死しているのを発見された。
隊は行軍を再開したが、中ノ森東方山腹に達したところで日暮れを迎え、さらに午後5時、カヤイド沢東方鞍部に着いた頃、倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が隊列から離れて行方不明となっていた。
〔第3露営地〕
この頃には隊はばらばらになっており、倉石はカヤイド沢に降りて第3の露営地を定め、伝令を送ったが、人員は集まらなかった。
『遭難始末』によれば、午後11時頃、倉石大尉の一行は山口隊の捜索に出発し、午後12時頃に合流を果たして第3露営地に戻った。露営地では互いに大声で呼び、打撃を加えて昏睡を防ぎ、凍死者の背嚢を燃やすなどして寒さを凌いだものの多数の将兵が凍死した。
青森屯営では、天候が前日よりも良かったこともあり、古閑中尉以下40名は幸畑で粥を炊いて帰営を待った。さらに一部の将兵は田茂木野村の南端でかがり火を焚いて夜まで待った。しかし夜半になっても到着せず、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのではと考え、三本木警察に電報を打ったが確認がとれず、翌日救援隊を派遣することを決定した。
1月26日
第31連隊(弘前)、午前8時三本木を出発。
午後2時40分増沢に到着し村落宿営。
福島大尉は他の通過予定地でも1~2名の案内人斡旋の依頼状を送付していたが、八甲田山越えのため事前に登山口の大深内村に下士官2名を派遣し案内人7名(内訳は排雪6名、雪道に詳しいマタギ衆1名)の提供を依頼する公文書と日当その他の費用を立替払いとする念書を持参させている。
1月26日
〔第5連隊第4日目〕
1月26日、『遭難始末』によれば、倉石、神成両大尉と比較的元気だった十数名との協議の末、現在地から田茂木野までおよそ8kmと推測し夜明けを待って出発することとした。
午前1時頃に将兵を呼集すると約30名になっていた。前日の露営で山口少佐が再び意識障害となり、兵卒に背負われて行軍した。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成、倉石と定まっていたが、他の者は所属も階級も関係なく、将兵たちが後から続く形となっていた。神成と倉石は前方高地を偵察しつつ進んでいた。
前日夜、後藤伍長は他の4、5名と共に露営中、飢えと寒さのため昏睡したが、幸運にも凍死せず26日朝に目覚めた。降雪もなく晴天だったが、周りに誰もおらず、見渡すと三々五々、将兵が点在して帰路を見定めようとしていた。そこで自分も高地に登ったところ、神成大尉、鈴木少尉らと出会い、以後行動を共にした。この日の天気は晴れ時々雪だった。
〔第4露営地〕
隊は夕方までに中の森から賽の河原の間(正確な位置は不明)に到着し4度目の露営をした。賽の河原までは通常なら徒歩で2時間の距離だったが、極度の飢えと疲労のために1日を要した。
1月26日
村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は青森屯営を出発。途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、案内人の調達に手間取り出発が遅れたことに加え、この日の気温は零下14℃で風雪も厳しく、案内人および軍医の進言により捜索を打ち切って田茂木野へ引き返した。
1月27日
第31連隊(弘前)、午前6時30分増沢を出発。
午後1時18分田代一軒小屋に着き、田代に向かったが視界が悪化し目標の長内文次郎宅の発見に窮し案内人も動揺したため午後8時50分田代にて露営。大きな枯木を中心に直径4m深さ2mの雪壕を掘り、枯れ枝を薪として火を熾し、隊員は立ったまま焚き火で暖を取った。田代の積雪量は5メートル10センチ、最下降気温はマイナス11度。
1月27日
〔第5連隊第5日目〕
1月27日、生き残った隊は協議の末ふた手に分かれることとした。青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)の一行約20名である。
倉石隊は駒込川方面を進むが、途中青岩付近で崖にはまってしまい、進むことも退くこともできなくなった。日没後、崖の陰に寄って夜を凌ごうとしていたところ、今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い、倉石の制止を振り切り川に飛び込んだ(3月9日、下流で遺体となって発見)。
神成隊は、目標に対し比較的正しい方角へ進んでいたものの、猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出し、隊は4名となった。やがて鈴木少尉が高地を見に行くと言い残し、隊を離れたが、そのまま帰ってこなかった。さらに及川篤三郎も危篤に陥り手当てもできずに死亡。ついには神成も倒れ、1月27日早朝、神成は後藤に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤は朦朧とした意識の中、危急を知らせるために、単身田茂木野へ向かった。
つづく
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