2024年6月9日日曜日

長徳2年(996)5月1日 伊周・隆家の捕縛、配流。 動員された「つわ物ども」源頼光・頼親、平維叙・維時 中宮(定子)御所の二条邸(東三条院東町)が全焼 「古人云はく、禍福は糾纏のごとし、誠にゆゑなるか」(『小右記』) 道長、内覧・左大臣、正二位(朝廷第一の座につく) 密かに都に潜入していた伊周が太宰府に送られる 中宮定子(伊周の妹)が女子脩子内親王(一条天皇の初めての子)を産む。      

東京 北の丸公園
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長徳2年(996)
5月1日
・遂に強行捜索の宣旨が下る。
検非違使は「ただいまから屋内を捜します」と断って、まず中宮を用意した車に迎え入れてから乱入、扉を破り、床板、天井を引き剥して徹底的な捜索を開始。
中納言隆家以下みな検非違使に捕われ、隆家は直ちに網代車に乗せられ配所出雲へ向かい、高階信順らは一室に監禁された
しかし、伊周は前夜に脱出しており捕らえられなかった。

この日、中宮定子(21歳)は悲嘆に耐えず、自分で髪を切って尼の姿になった。
伊周は、従者の言では京都の西北方、愛宕山に行ったというのでその方面の捜索が行なわれたが、見つからなかった。

しかし、逃げおおせることは明らかに不可能、4日、彼は出家入道の姿で網代車で帰ってきた。母貴子も同じく尼になって乗っていた。
伊周は直ちにそのまま西に向けて京を離れたが、宣旨が出て母の同行は許されなかった。
伊周・隆家は共に西に向かったが、2人とも病気と称して容易に動かず、5月15日、しばらく伊周は播磨に、隆家は但馬に置くことに改まった
信順も重病だからということで、配流は見合わせなった。伊周との同行を禁ぜられた母貴子も、実はこっそりついていっており、伊周の播磨逗留の決定に安心して帰京した。

しかし10月、伊周が密かに播磨から入京して、中宮御所に隠れていることがわかり、こんどは大宰府まで下されることになった。
『小右記』には、「積悪(せきあく)の家、天譴(てんけん)を被むるか」と、非常に厳しい。
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この月、内裏警固に動員された「つわ物ども」として、源満仲の子の備前前司頼光・周防前司頼親、貞盛流平氏の平維叙(これのぶ)・維時があげられ、「皆これ満仲・貞盛子孫也」とある。
承平・大慶の乱を平定した「兵の家」出身であることが、このような変事に際して召される条件であった(『栄花物語』巻五)。

伊周・隆家は平将門の乱で将門と戦った平良兼の孫致光(むねみつ)を組織していた。
また、隆家はのちに博多湾に刀伊の海賊が侵入した際、大宰権帥として武士を叱咤し賊徒を撃退したことで知られる武的で勇猛な人物である。

そこで、朝廷は不測の事態に備えて多くの武士を集め厳重な警戒態制を敷いた。
朝廷を警護したのは、平貞盛の子孫維叙・維時、そして武門源氏の頼光・頼親であった。
頼光ら武門源氏は公的に動員されたのではあるが、元来道隆と対立する道兼に祗候していたという経緯もあって、道隆の息子伊周・隆家を積極的に支援していなかったのであろう。伊周・隆家が平致光を組織したのもこのためと考えられる。

『続本朝往生伝』にも、一条天皇(在位986~1011)の時代に、天下に聞こえた「武士」として、源満仲・満正・頼光、平維衡・致頼(むねより)があげられる。
致頼以外は、いずれも経基・貞盛の子孫あるし、致頼についても、系図に混乱はあるが、平良兼、公雅の子孫と考えられる。

「兵のイエ」ということ
弁官の某が、薬師寺の最勝会に使者として派遣された帰り道、奈良坂で盗賊につけ狙われた際、従者に対して「私は、奈良坂で衣櫃(ころもびつ)を取られたと騒ぎ立てれば済むことだ(誰も自分を責めたりしない)。ここで盗人と戦い、射られたといわれたならば、永く汚名が残るだろう」と述べた後で、自分は「満仲・貞盛ガ孫ニモ非ズ」としている(『今昔物語集』巻19)。

源氏の祖、経基
源氏は、鎌倉時代には、源頼義・義家を祖と仰いでいるが、永承元年(1046)に、源頼信が氏の繁栄を願って氏神の八幡神に奉じた告文では、祖を経基に求めている(『平安遺文』六四〇号文書)。
源氏の場合、満仲の子の頼光・頼親・頼信がそれぞれ摂津源氏・大和源氏・河内源氏に分かれて必ずしも関係が良好ではなく、前九年・後三年合戦が源氏の東国進出に大きな役割を果たしたために、後世には、頼義・義家父子を祖とする場合もあるが、それ以前は経基を祖としていた。

源氏と摂関家
安和の変(969年)後、源満仲とその子どもたちは摂関家を中心とする朝廷に奉仕して、中央軍事貴族として重視され、坂東中心に活動する桓武平氏より優勢であった。
特に、満仲の長子・次子である頼光・頼親は、藤原道長と密接な関係があった。
頼光は、備前・美濃・但馬・伊予・摂津守などを歴任する受領としての活動が顕著にみえ、焼亡した道長の土御門第再建にあたっては、伊予守であった頼光が家中の雑具いっさいを献上した。
頼親も大和守に三度補任されたほか、周防・淡路・伊勢・信濃守などを歴任し、道長の外孫敦成(あつひら)親王五十日祝(いかのいわい)には、大和守としての豪華な献上物を用意している。
道長の親近者の邸宅に虹が立ったとして、実資が『小右記』にその名をあげている中にも含まれている。
三子の頼信は、兄である頼光・頼親たちほど道長との関係は深くはないが、やはり、上野・常陸・伊勢・甲斐・美濃・河内守など受領を務めていた。

頼光・頼親・頼信たち兄弟の活動は、受領としてのものが多いが、武士としての活動もみえる。
しかし、摂関期には、「兵の家」出身者は必ずしも武官に任官されているわけではなく、就いている官職の仕事が優先するのであり、中央軍事貴族としての活躍はあくまで緊急時に限定されている。

平氏の祖先、平貞盛と平貞盛の子孫
「其ノ国ニ、平維茂(これもち)卜云者有ケリ。此ハ丹波守平貞盛卜云ケル兵ノ弟ニ武蔵権守重成(盛)卜云ガ子上総守兼忠ガ太郎也。其ヲ曾祖父貞盛ガ甥并甥ガ子ナドヲ皆取り集メテ養子ニシケルニ、此ノ維茂ハ・・・甥ナルニ、亦中ニ年若ケレバ、十五郎ニ立テ養子ニシケレバ、字(あざな)ヲ余五君(よごのきみ)トハ云ケル也。」(『今昔物語集』巻二五)。

貞盛は、近親を集めて養子としたという(説話集であるが、史実を反映していると考えられる)。貞盛流平氏の系図をみるとわかるが、貞盛の子孫がほとんど「維」を通字としている。逆にいえば、平姓で「維」字を持つことが、貞盛流平氏のトレードマークであったということである。

また、貞盛流平氏は武器・武具を伝来・伝承させているという。
『平家物語』巻10で、
「唐皮(からかわ)という鎧(よろい)、小鳥(こがらす)という太刀は平将軍貞盛より当家について維盛まで嫡々して九代にあたる。」
と、平重盛の子維盛が語っている。
貞盛を平氏の祖と看做すとともに、その象徴として、唐皮という鎧、小鳥という太刀が伝来していたという。
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6月7日
・藤原教通(道長五男)、生。
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6月8日
・深夜、中宮御所の二条邸(東三条院東町)が全焼。
焼け出された定子は、叔父高階明順の家に移り、その後、中納言平惟仲(中宮大進である平生昌の兄)の邸宅へ移った。
『小右記』にはこれを評して「昨(さき)ごろ家を禁じ、今滅亡す。古人云はく、禍福は糾纏(きゆうてん)のごとし、誠にゆゑなるか」と記す。
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7月
・大納言藤原公季の娘の義子(ぎし)が入内し女御となる。
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7月20日
・道長が左大臣に転じ(内覧、左大臣)、正二位に叙せられ朝廷第一の座につく。藤原顕光が右大臣となる。
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10月中旬
・定子中宮らの母・貴子、歿。
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この月
伊周が俗人の姿で密かに入京して中宮定子のもとにいるとの密告がは平孝義たちからあった。早速検非違使に調べさせると事実であった
10月10日、朝廷は、こんどは容赦なく大宰府まで送ると決め、その命を下し、先に免除になっていた高階信順たちの配流をも改めて実行することにした。

伊周に上京の理由は、老母貴子が重病であり、中宮定子のお産も迫っているので、様子を見に来たとのことであった。
12月8日、伊周は大宰府に到着し、大宰大弐藤原在国の厚遇を受けた。
密告者の平孝義は、賞として位を従五位上に進められたが、父親信はこれを喜ばず、密告などとは市井下賤の輩のすること、つまらぬことを言いたてて人に嘆きを見せるとは、無情な奴めと叱責し、孝義は閉口して逃げ出したという。
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11月
・右大臣顕光の娘元子(げんし)が入内し女御となる。
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・着鈦勘文が整えられる。
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12月16日
・中宮定子(伊周の妹)が女子脩子(しゆうし)内親王を産む。一条天皇の初めての子。
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