2016年9月3日土曜日

【増補改定版】 大正12年(1923)9月4日(その2)~5日 埼玉県熊谷市での朝鮮人虐殺 朝鮮人の習志野移送決定 「9月1日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態」(「読売新聞」) 「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したる事実ありたることを宣伝するに努むること」 旧四ツ木橋 江東区旧羅漢寺付近 藤岡事件 「朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」(萩原朔太郎)     

9月4日 火曜日 夜 熊谷(埼玉県熊谷市)
「万歳」の声とともに(埼玉県熊谷市の中心部にある熊谷(ゆうこく)寺の、1923年9月4日夜の光景)

熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では、1人の朝鮮人を日本人がぐるって取りまいたグループが、5つほど出来ました。そして殺すたびに「わあ、わあ」「万才、万才」と喚声があがるのです。
柴山好之助(熊谷住民)

埼玉県でも東京から流入する避難民を通じて朝鮮人暴動の流言は広まっていった。
「東京では、今朝鮮人と日本の軍隊が戦って、日本の軍隊がだいぶ殺されちやって、朝鮮人は優勢ですよ」といった荒唐無稽な言葉も、着の身着のままの避難民から発せられれば、切迫した信憑性を帯びた。

また、2日には、埼玉県は不逞鮮人に備えよとの通牒を発し、各地には自警団が結成された。
同時に、県は、県内に避難してくる朝鮮人を川口で検束し、蕨に移送。
その後、さらに北への護送を各町村の自警団にゆだねた。各町村の自警団が少数の警官とともに駅伝式に隣町まで護送するというもの。目的地は群馬県の高崎連隊だったと見られる。

残暑の下、家族連れも含む朝鮮人たちは、延々と歩かされ、途中、逃亡した者が合わせて10数人、殺害された。

蕨・大宮・桶川と歩き続け、4日夕方、蕨から50kmを30時間かけて熊谷に到着。
この時、熊谷町の自警団は東京の仇を討とうと殺気立った烏合の衆と化していた。
群衆は、引き継ぎ場所である砂利置場付近に現れた朝鮮人の群れにどっと殺到、20人以上がここで殺害された。
熊谷市在住の研究者、山岸秀はこの時の状況を「中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。」と描写する(山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』)。
逃げずに縄で縛られ、おとなしく連行されていく者も容赦まく暴行を受けた。
「その時私は、眼の前で、日本刀を持って来た人が、『よせ、よせ』というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。家にあった日本刀を持ち出し、こんま時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです」(住民の証言)
彼らが最終的にたどり着いたのが深夜の熊谷寺の境内だった。ここで残りのほとんどの朝鮮人が「万才、万才」の声のなか、殺害された。

山岸は、このとき殺害された朝鮮人の数を、40~80人ほどと見ている。
「殺された人数すらはっきりとわかっていないのだから、名前、年齢、性別、職業、山身地などは何も残されていない」。

熊谷と同じ4日に起こった本庄市(100人前後殺害)や神保原村(現・上里町、42人殺害)の事件をはじめ埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。
それらを裁く公判は11月には判決を迎えたが、最長の懲役4年の1人と、2~3年の懲役が20人、執行猶予が95人と無罪が2人という結果だった。
証人として出廷した本庄署の巡査は「検事は虐殺の様子などに触れることは努めて避けていたようで、最初から最後まで事件に立ち合っていた私に、何ひとつ聞こうとはしなかった」と述懐している。

4日
午後4時、第1師団司令部は朝鮮人の習志野移送を決定、同日午後10時に具体的を命令が下された。内容は、かつて戦時捕虜を収容していた習志野収容所などに朝鮮人を収容すること、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して移送すること、というもの。
自警団による虐殺をこれ以上拡大させないために朝鮮人を習志野に集中隔離しようとした。
実際には、朝鮮人だけでなく、中国人も習志野に送られ、9月17日の収容最大人数が朝鮮人3000人以上、中国人約1700人。

4日、埼玉・千葉両県も戒厳地区に含められる。

4日、警察のトラック5台で護送中の朝鮮人が、埼玉県の本庄・神保原両町の間で群衆に襲撃され21人を除いて皆殺しにされる事件が起る。
夜、船橋送信所長大森良三大尉は流言に脅かされて「SOS援兵たのむ船橋」の電文を送り、これは中国各地でも傍受される。
もっとも兇暴な江東地区の自警団が軍隊に鎮撫され、朝鮮人殺傷が止むのは7日頃。

4日付け「大阪朝日新聞」。
「(見出し)各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」
「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると、内務省警保局では朝鮮総督府、呉、佐世保両鎮守府並に舞鶴要港部司令官宛てに目下東京市内に於ける大混乱状態に附け込み、不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり。中には爆弾を持って市内を密行し、又石油缶を持ち運び混雑に紛れて大建築物に放火せんとするの模様あり。東京市内に於て極力警戒中で
あるが各地に於ても厳戒せられたしとあった」

4日午前10時30分、東北線上り開通。翌5日早朝には下り線も開通。東北線開通により、北への輸送路が開かれ、関西へは信越線篠ノ井駅から中央線に乗り換えて輸送可能となる。また、鉄道省は、4日より、一般避難民輸送を無料化する。
9月末迄に200万人を輸送するが、流言を全国に流布させることにもなる。

朝鮮人関連の報道が解禁された10月20日の翌日、各紙はその模様を大きく伝えた。
「9月1日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態/市内だけで判明した鮮人死体は44名でこのほか土中、河、海に投げ捨てたものを入れると140、150名を下らず、間違へられて殺された日本人さへ30余名あるといふ」
「50余の鮮人は死体となって鉄道線路に遺棄された。これを手初めに或ひは火中に投ぜられ海に投げ込まれたのも多数で神奈川の某会社の〇〇〇〇(原文伏字)80余名は無残一夜で全滅」(読売新聞10日21日)

朝鮮総督府警保局の内部報告書でも、東京出張員の内査の結果として、神奈川での朝鮮人被殺者180人という数字を出している。だが、朝鮮人殺害の罪で起訴されたのは神奈川県全体でたったの1件で、その被害者数は2人にすぎない。
神奈川県では中国人も多数殺された。中国側の調査は、県内の被害者数を死者79人、負傷者21人と伝えている。だが、中国人殺害についても、起訴されたのは1件だけで、その死者数は3人であった。

4日
・ウラジオ郊外セダンカで亡命生活の荒畑寒村らに大震災の一報入る。
10月中旬、上海に移動。

5日
・言論統制により、警官・軍隊・自警団による朝鮮人虐殺の事実を隠し、また新たな流言を流す事でこれをを正当化する工作。外国政府・内外世論・植民地支配への影響を危惧。

5日
各省と戒厳司令部との協議機関の臨時震災救護事務局警備部は、次の事項を事件の真相として宣伝し始める。
「鮮人に対しことさらに大なる迫害を加えたる事実なし」
「朝鮮人、暴行または暴行せんとしたる事実を極力調査し、肯定に努むること」
「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したる事実ありたることを宣伝するに努むること」。
この決定は、存在しない朝鮮人暴動の背後で社会主義者が糸をひいていたのだ、との新しい流言が生む。

5日
・警視庁、正力官房主事と馬場警務部長名の通牒。社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ。

「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めるまで来たとき、大勢の人が下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」
(篠塚行吉 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』)

9月5日 水曜日 午後4時半 旧・羅漢寺付近(東京都江東区)
差し出された16人
千葉街道に出ると、朝鮮人が1000人に近いをと思うほど4列に並ばされていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。
もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。(中略)僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。(中略)
ここ(羅漢寺隣の銭湯前)まで来たら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵がたしか2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。
銭湯に朝鮮人を入れたんです、民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野(収容所)に送るんだなあと、よかったなーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしをいうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。
何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。
16人完全にね、殺したんです。5、60人がかたまって、半狂乱で。
(中略)ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます。自警団ばかりじゃなく、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も、「こいつらがやったんだ」って夢中になってやったんです。
浦辺政雄(16歳、『風よ鳳仙花の歌をはこべ』)

習志野収容所に送られる途中の、1000人近いと思われる朝鮮人の列から、憲兵が16人だけを抜き出して銭湯の建物に入れ、さらにその裏口から「放免」することで、群衆の殺すがままに任せた。
5日
・この頃から、近藤憲二・福田狂二・浅沼稲次郎・稲村順三・北原竜雄らの社会主義者たちが続々検束される。総同盟麻生久夫妻は、足尾銅山鉱夫がダイナマイトをもってきて騒擾を起すとのデマの為に赤ん坊づれで収容。

5日
・この日、内閣告諭第2号(「震災に際し国民自重に関する件(鮮人の所為取締に関する件)」)及び関東戒厳司令官(福田雅太郎大将)命第2号。

「内閣告諭第二号 今次ノ震災ニ乗ジ 一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗ル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所為若シ不穏ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其処置ニ俟ツベキモノナルニ民衆自ラ濫リニ鮮人ニ迫害ラ加フルガ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラズ 又諸外国ニ報ゼラレテ決シテ好マシキコトニアラズ 事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ基因スト認メラルルモ刻下ノ非常ニ当り克ク平素ノ冷静ラ失ハズ慎重前後ノ措置ヲ誤ラズ以テ我国民ノ節制卜平和ノ精神ヲ発揮セムコトハ 本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ 内閣総理大臣伯爵 山本権兵衛」
(民衆が朝鮮人を迫害するのは、韓国を併合した日本の「善意」に反し、外国で報道されるのは好ましくない。虐殺の事実が諸外国で報道され、日本の不利益になることを恐れた。)

「一、自警ノ為団体若クハ個人毎ニ所要ノ警戒方法ヲ執リアルモノハ、予メ最寄警備隊、憲兵又ハ警察官こ届出其指示を受クベシ 二、戒厳地域内ニ於ケル通行人ニ対スル誰何、検問ハ軍隊、憲兵及警察官二限り之ヲ行アモノトス 三、軍隊、憲兵又ハ警察官憲ヨリ許可アルニ非ザレバ、地方自警団及一般人民ハ武器又ハ兇器ノ携帯ヲ許サズ」

5日
夜、栃木県の東那須駅(現・那須塩原駅)前で、朝鮮人の馬達出と、一緒にいた日本人の宮脇辰至が駐在所近くで殺された。

5日
群馬県の多野郡藤岡町(現・藤岡市)において、藤岡警察署に保護されていた朝鮮人17人が乱入した群衆によって殺される。詩人萩原朔太郎(1886~1942)はその憤りを詩にしている。

「藤岡市史」や「群馬県警史」によると、9月5日、安全のために藤岡警察署が朝鮮人十数人を留置場に収容していたところ、地元の自警団員らが「朝鮮人を引き渡せ」と署に押しかけた。群衆は阻止する署員を振り切って乱入し、朝鮮人を竹やりや日本刀、猟銃で惨殺した。殺害は次の日も続き、計17人が犠牲となった。集まった群衆の数は約1000人といわれる。

 朝鮮人あまた殺され
 その血百里の間に連なれり
 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ
(萩原朔太郎「近日所感」 雑誌「現代」第5巻第2号 1924年2月)

震災当日、朔太郎は郷里の群馬県前橋の自宅にいた。震災のあまりにも大きな被害に驚愕して、米と食料品をリュックで背負い東京に向かった。幼少のころから慕っていた母方の叔母と従兄を見舞うためで、汽車と荷車をのりつぎ、大宮からは歩いたという。
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