2016年10月12日水曜日

鎌倉 神奈川県立美術館鎌倉別館で開催中の『松本峻介 創造の原点』に行った 2016-10-12 《立てる像》 《画家の像》 《建物》 《Y市の橋》 《橋(東京駅裏)》 《聖橋風景》 『国防国家と美術』と『生きてゐる画家』について(宇佐美承『池袋モンパルナス』より)

10月12日、はれ。
朝からいいお天気なので、予定していなかったけれど鎌倉に出かけた。

お目当ては、
神奈川県立美術館鎌倉別館で開催中の
『松本峻介 創造の原点』

折角の鎌倉なので、
大巧寺~本覚寺~妙本寺~鶴岡八幡宮
を歩いた。

松本峻介のことは、宇佐美承『池袋モンパルナス 大正デモクラシーの画家たち』で知って、
その《立てる像》は閉鎖になった鎌倉館で何度か見た。

何度見ても、新鮮で、若々しくて、ちょっと不安げなところとかも、すごくいい。

聖橋とか東京駅などの街の景色や、子供の情景なども好きだ。





■展示作品
▼《立てる像》

▼《画家の像》

 ▼《建物》

▼《Y市の橋》

▼《橋(東京駅裏)》

▼《聖橋風景》

■『国防国家と美術』と『生きてゐる画家』
松本峻介に関する有名なエピソードに峻介の『生きてゐる画家』(「みづゑ」昭和16年4月号)のことがある。
これは概要どんなものであったのか、宇佐美承『池袋モンパルナス』によって見てみる。

「みづゑ」昭和16年1月号に参謀本部情報部員鈴木庫三少佐らによる座談会『国防国家と美術』が掲載された。

 麻生三郎はその雑誌をもって竣介のアトリエを訪れ、長時間、ひそひそ話をしていた。麻生がかたらぬ以上、密室での話の内容はわからぬが、のちに竣介は「この座談会記事を読んだ一友人は子供のやうな驚きと怖れを顔に現してゐた」と書いた。

鈴木少佐らの座談会の内容は、以下のようなものだった。

- 絵かきは国防国家建設の思想戦の部門を担当せねばならぬ。できない者は外国にいってもらいたい。

- 絵かきは国家というものを文化創造の手段と考えているが、国家こそ本来的なものである。芸術が尊いというなら国家が存続発展できるようにせねばならぬ。

- いま贅沢は敵だというが、美術は贅沢だ。材料をだれが生産しているかよく考えるべきである。材料は思想戦の弾丸である。

- 一流の画家を目ざすよりも、国家のために等を揮(ふる)うべきである。一流の画家の作品は博物館にいかねば見られないが、たとえ二流の絵でも満人や半島人の家の壁に貼れば喜ばれる。

- 芸術に国境なしというが、自分の国を忘れてフランスの植民地になっている。二科を見たが、亡国的な絵が非常に多い。民族的な理想を抱いて天をにらんでいる絵は一枚もない。松沢病院の狂人が描くような円とか三角を描いて、だれが見てもわからぬのに芸術家だけが価値ありとしても実に馬鹿らしい遊びである。

- 芸術家の団体は数百あって、勝手なことをして喜んでいる。諸団体は国家のために袋の中に入れねばならぬ。いうことをきかないものには配給を停止してしまう。展覧会を許可しなければよい。そうすれば飯の食いあげだから、ついてくる。

- 創造の世界は、自由主義、個人主義以外にないのか。ないなら絵画、彫刻はやめてもらう。


 竣介は元旦早々に筆をとった。なんども書きなおし、一カ月かかって四百字づめ原稿用紙二十枚にまとめ、末尾に「この一文は私一個の責任で、私の所属する団体には何の係はりもないことを後記する」と書き、『生きてゐる画家』のタイトルをつけてポストにいれた。このタイトルは、厭戦を理由に発売禁止になった石川達三の小説からとったものにちがいなかった。『生きてゐる画家』は四月号に掲載された。

 竣介はまず「沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ。・・・けれど今たゞ沈黙することが凡(すべ)てに於いて正しいのではないと信ずる」と書いたうえで論を展開した。若ものらしく生硬、難解な文章を噛みくだけば、つぎのようになる。

- わたしたちも国家を思い、国民の生活生成のために心身を削る苦業をしている。今後五十年、百年間に、ヨーロッパをして拝跪(はいき)せしめるかどうかが決るだろう。わたしたちが貪婪(どんらん)にヨーロッパを吸収するのは、かれらをわれに混淆(こんこう)し、克服せんがためである。もしここ十年、二十年間に空白が生じたら、それはわが国のものではなくなるだろう。

- アジアの民族が文化を求めようとして日本へ来ず、アメリカやヨーロッパに走ったなら、日本は武力でアジアを統一できても、本当の高度国防国家はできないだろう。芸術における普遍妥当とは、ヒューマニティだとわたしは思っている。どんなに国家民族性を強制しようとも、ヒューマニティの裏づけがなければ中身はふくらまない。

- わたしは比較的わかりやすい絵を描いていて、円や三角の抽象画は描かないが、絵かきが素材をみて自分の感懐を表現するとき、素材と自分とのつながりや連想が重大な役割を果す。近代美術はこのような意図のもとにうまれ育ってきた。素材の形態を純粋につきつめていった結果、円や三角で自分の精神を表現するようになった。

- 新体制下、高度国防国家におけるわたしたちの働きは、世界的普遍性のある新日本の理念完成にあると信じている。わたしたちに、国家百年のために筆をとれというのか、目先のことを筆にしろというのみ。目先ということなら、かつてのプロレタリア美術と同じである。国家百年のためにというなら、わたしたちの営みは、人間の本源的な問題にむけなければならない。

- 鈴木少佐は「国策のために筆をとってくれ、それが同時に世界的な価値を表現するようなもの」といったが、そうした作品をつくるには、充実した伝統と、無数の人のあらゆる性格の作品が生かされねばならない。

- わたしたち若い画家が、困難な生活環境のなかで、なお制作を中止しないのは、それが人間としての生成を意味しているからである。たとえわたしが何事も完成しなかったとしても、正しい系譜が生きるならば、やがてだれかがこの意志を成就してくれるだろう。わたしは信じる。わたしたちもまた国家百年の営みに生きているものであることを。

 著者(宇佐美さん)は言う。

 これは抵抗の文章だろうか、迎合の文章だろうか。竣介は、軍人に盾つけば命も危ないあの時代に十分に勇敢だったのだろうか。それとも危険を感じて論を弱めたのだろうか。

 「抵抗」でも「迎合」でもないように見えるし、「勇敢」だったかというと、そうかもしれないが、悲壮さよりも「まっすぐさ」が見て取れるように思う。

 そして、以下の記述が続く。

 竣介はその年の秋、「航空兵群」という絵を二科内のグループ九室会の航空美術展に出品した。それは『生きてゐる画家』が「みづゑ」に掲載された半年後であり、日米開戦の二カ月あまりまえであった。十人ほどの航空兵が出撃前に決意を固めているかにみえる絵であった。

 難しい時代だ。






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