より続く
大正12年(1923)9月5日
〈1100の証言;荒川区〉
岩尾研
浅草に行ったところが、浅草はまるやけ。そこで三河島にいった所が、こんどはこっちが朝鮮人に間違われて、自警団にひっぱられた。朝鮮人にまちがえられたのは、九州から出てきてから2、3年しかならないんでことばが九州弁で、ことばがおかしいということでまちがえられた。それに服装が、学生服でわらじばきでしょう。だいたい、三河島は馬車引きとか、朝鮮人の多いところでね。それから台東の下町の方もね。
ほんとうは大道を通った方がよかったのに、近道をして、小さな路地を通ったものだから、つかまっちゃった。足早でにげていくではないか、ことばもおかしいということで、まちがえられた。そん時は5日だったから良かったけれど、もうちょっと早かったら、完全に朝鮮人だってんでたたき殺されるところだった。
(「朝鮮人とまちがわれたわたし」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
桜井鯛吉〔新潟県小間町より調益のため上京〕
9月5日 〔略〕日暮里駅長の報告によればその筋の警告として〔上野〕山中に毒薬入麺包及饅頭及爆弾携帯の鮮入潜伏すこぶる危険となし警戒厳なりと。
(桜井鯛吉「復刻・関東震災救護上京概況-大正十二年九月壱日:小出町救護班」小出町教育委員会、1998年)
〈1100の証言;北区〉
江口渙〔作家〕
〔5日〕汽車が荒川の鉄橋を渡っているときだった。100メートルぐらい上流の川口町の岸に近く、何か白い細長いものが流れてくるのが眼に入った。岸の上では竹槍やとび口をもった一団が、その白いものを追いかけながら、やたらに石をぶつけている。石がとぶごとに水しぶきが白いもののまわりで上る。雨もよいの夕暮どきのよどんだ空気と、うすくにごった用水のせいで、その白いものがはじめは何だかわからなかった。よく見ると死人である。白いのは服の色で血が赤くにじんでいるようにさえも見える。
「あれ、朝鮮人でしょうか」
私の言葉にそばの男がすぐ答えた。
「そうですよ。それとも主義者かな。殺されて川へはうりこまれたんですね」
殺しておいて荒川に捨てただけでは満足せず、さらにあとを追いかけて、みんな石をぶつけるのだ。ぶつける石の一つ一つが「チクショウ」「チクショウ」と叫んでいるようである。
「やあ。鮮人だ、鮮人だ」
「何だ。鮮人だって。どこに」
「あれ見ろ。川の中を流れてらあ」
こんな叫が一どに湧き上った。と、思うと車内はたちまち総立ちになった。そして、誰も彼もが窓からやたらに首を出して川の上の屍骸をながめた。
(「関東大震災回想記」『群像』1954年9月→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、1996年)
宮本武之輔〔土木技術者〕
〔大震災の報を聞き出張先の京都から戻った〕9月5日〔略〕荷物を持ちて暑さにあえぎながら荒川の洪水敷を辿り、やっとの思いにて荒川改修の岩淵工場につきし頃は卒倒せんばかりの苦しさなり。冷き麦湯を3、4杯立て続けに飲み裸体になりて川水に漬る。荒川には殺戮せられし鮮人死体川に流れつつあり。軍人は銃剣を翳(かざ)して露営に任ず。
(「東京地方大震災の記」宮本武之輔『宮本武之輔日記 - 大正九年~十二年』電気通信協会東海支部、1971年)
氏名不詳〔5日函館に入港した罹災早大学生〕
「大昔の姿 荒川の曝し首」
川口でも機関車の下に密んでいた鮮人が発覚した事もあった。また荒川堤にさらし首がしてあり、不逞鮮人の首が竹槍の先に高く見えていました。死体の臭気、血痕などで凄惨を極めている。
(『函館新聞』1923年9月6日)
〈1100の証言;江東区〉
木戸四郎〔木戸四郎が丸山信太郎らに11月18日に話した内容〕
5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200名ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、鳶口、竹槍、日本刀を持って、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。2発の銃声がした。あるいは逃亡者を射撃したものか、自分は当時わが同胞のこの残虐行為を正視することができなかった。
〔略〕虐殺しただけでなく、競って財産を掠奪した。大島付近には朝鮮人は少なく、中国人は近年多数この付近に定住しているので、これを朝鮮人と混同することはありえない。〔死体は5日夜半から7日までかかって警察の指揮の下に、大島町の仕事師田中伝五郎が人夫を使って焼却〕署長は自動車ポンプに乗って現場を監視した。
(関東大震災80周年記念行事実行委員会『世界史としての関東大震災 - アジア・国家・民衆』日本経済評論社、2004年)
小林〔仮名〕
震災前、韓国人よりも支那人のほうが多かった。大鳥はぐるっと川に囲まれているから、工場は深川より多かった。材料なんか船で運ぶから、船の荷揚げ人夫なんかやっていた。住んでいるところは一つのところに5、6人でかたまってほうぼうに住んでいた。長屋のような集合住宅はなかった。私は韓国の人に家作を貸していた。一人ね、労働者で奥さんも韓国人。女の人もけっこういたね。女の人は労働しないしね、韓国の服装をして歩いていたね。中国人はたいていは単身だった。若い人、300、40、50歳くらいまでいた。働きざかりで国に送金していたんだろう。
〔略〕私は9月1日の夜は大島7丁目の生家にいた。在郷軍人だったので1日の夜から炊き出しを始めた。玄米を炊いて、焼け出された人に食べさせました。
焼け出された人がこっちに来るでしょ。流言蜚語というんでしょうか、朝鮮人が井戸に毒薬を入れているんだ、朝鮮人が放火した、われわれをこんな目にあわせたのは彼らが原因だ…‥、という意識をもたせるような宣伝をしたわけだ。それは日本人がしているわけですよ。こちらの被害のないところもそういう気持ちが沸き上がるような。そのときは軍隊も警察も出てこない。みんなが自分の家を守るのが精いっぱいでしたから。流言は焼け出された人が一日中そういう事を言って騒いでおった。われわれもそういう人の言った言葉を聞いたんだからね。
〔略〕「支那人、朝鮮人をやっちやえ」というのは、焼け出された人が多く騒いだね。このまわりの人はべつだん被害がないんだから、その必要はないし、やるのを見ていたほうだからね。
〔略〕たくさんの殺された人の死体を焼いた広場は、いま、日石のガソリンスタンドのあるところ。忠実屋の前あたりです。そこで焼いたのは朝鮮人も中国人も両方でした。焼いているところは見ましたよ。焼いたのは民間人です。だんだん警察なんかがやかましくなって、民間の人が焼いたんです。べつだん軍隊とか警察とか、公務員とかが焼いたというんじゃなかったですよ。
焼きはじめたのは地震から5日か6日たっているね。殺しはじめたのが2日、3日、4日ぐらいだから。死体をどんな人が運びこんできたのかわからないんですよ。夜持ってくるんだか朝持ってくるんだかわかんないしね。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
〈1100の証言;江東区/旧羅漢寺〉
浦辺政雄〔当時16歳〕
〔5日の夕方〕千葉街道に出ると、朝鮮人が千人に近いなと思うほど4列に並ばせられていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある種度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。
もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。
〔略〕羅漢寺は当時はいまの江東総合区民センターのところにありました。
ここまできたら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が、8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵がたしか2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がゾロゾロついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。
銭湯に朝鮮人を入れたんです、民衆を追っ払ってね。〔略〕何分もしないうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。
何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちやって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。16人完全にね、殺したんです。50~60人がかたまって、半狂乱で。
<抗はぬ朝鮮人に打ち落ろす 鳶口の血に夕陽照りにき>
これはこのときを詠んだものです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
つづく
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