方言辞典 茨木のり子
よばい星 それは流れ星
いたち道 細い小径
でべそ 出歩く婦人
こもかぶり 密造酒
ちらんばらん ちりぢりばらばら
のおくり
のやすみ
つぼどん
ごろすけ
考えることばはなくて
野兎の目にうつる
光のような
風のような
つくしより素朴なことばをひろい
遠い親たちからの遺産をしらべ
よくよく眺め
貧しいたんぼをゆずられた
長男然と 灯の下で
わたしの顔はくすむけれど
炉辺にぬぎすてられた
おやじの
木綿の仕事着をみやるほどにも
おふくろのまがつた脊中を
どやすほどにも
一冊の方言辞典を
わたしはせつなく愛している。
(『対話』 初出「櫂」1号1953年5月 詩人27歳)
金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)より
当時『櫂』の編集長であった川崎が、『櫂』の創刊号のために茨木の用意した二篇の詩のうち、一篇のみを採用したという逸話がある。一九五三年三月に茨木は、「方言辞典」と「宣言」の二篇を川崎宛に送った。川崎は「創刊号には〈方言辞典〉だけを貰う」(茨木 1969:106)と述べ、「宣言」のほうは茨木に返したという。
*茨木1969;茨木のり子「「櫂」小史」
「方言辞典」の主題は、方言の見直し。この詩で言うところの方言とは、「おやじの/木綿の仕事着」や「おふくろのまがつた脊中」のような、生活に密霜した「せつな」い言葉なのである。幼い時代を大阪と愛知で過ごした茨木にとって方言とは、東京語よりもなじみ深い日本語であったと思われる。そして、こうした方言に対する愛着に関しては、川崎も共感するものがあったに違いない。川崎は東京生まれではあるものの、十代後半の言語発達期を九州で過ごした。また、前述したように、彼は全国各地の方言採集にも力を注いでいる。『櫂』の創刊は一九五三年で、まだ川崎は方言をテーマにした詩を発表してはいないが、茨木が送った二篇の詩のうち「方言辞典」だけを採用したことは、日本各地の方言に対する川崎の関心が背景にあるものと思われる。
『詩のこころを読む』(*茨木のり子、岩波ジュニア新書)に、川崎が全国を回りながら方言を採集していたとき書いた「海で」という詩が紹介されている。
(略)
この詩について茨木は次のように記している。
彼は今、全国を歩きまわって、豊かな方言を拾い集めることに熱中し、つぎつぎたのしい本を出しています。言語学者の研究とはまた角度の異なるつかみかたで、本来、詩人は母国語に対し、こういう仕事をしなくちゃならないはずですが、ようやく、魚を生けどりするような、どきどきする喜びでつかまえる人が出てきたわけです。(茨木1979:103)
「本来、詩人は母国語に対し、こういう仕事をしなくちゃならない」という文章から、言葉と丁寧に対崎する茨木の姿と、そうした仕事に情熱を傾ける川崎への敬愛がうかがわれる。
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