2022年1月5日水曜日

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー5)1946(昭21)20歳 「その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって・・・。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するがの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったのかもしれない。」   

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー4) 1945(昭20)19歳 「ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった」(「はたちが敗戦」)

より続く

1946(昭21)20歳
4月、帝国女子医学薬学部再開。
東京での滞在時(~1947)、茨木は世田谷区世田谷二丁目(現・世田谷区梅丘)にある民家の二階八畳の間に下宿住まいをした。
家主は土佐林豊夫という画家。

夏、帝劇でシェークスピア「真夏の夜の夢」を観て以来、新劇に熱中。

「茨木 ・・・わたしは戦後すぐの新劇の第一回公演から見てるんです。
・・・
茨木 銀座の焼跡をね、下駄でガラガラ歩いてたんです。下駄しかなくて。それで一番最初は前進座の「ツーロン港」、戦争中のレジスタンス劇だったですね。
大岡 そうそう、作者はフランスの小説家でしたね。
茨木 それが最初。原泉さんが若くてきれいだった。それからあと、イプセンの「人形の家」。あとはダァーツと新劇ばかり見て歩いたんですけど・・・
 だから、一つには時代的な風潮があります。もう一つには、若い時って自分の中にさまざまの矛盾葛藤があるじゃありませんか。どれが自分なのかわからない。その葛藤に形を与えるのに戯曲は一番ふさおしい形式に思えたわけね。そういう自分の内的な欲求と二つの契機があったんでしょう。」
(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって・・・。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか餓死するがの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったのかもしれない。
個人的な詩として書いたのに、思いもよらず同世代の女性たちから共感を寄せられ、よく代弁してもらったと言われるとき、似たような気持で当時を過した人達が沢山居たことを今になって思う。
モンペを脱ぎすて、足を出して、舷しいような思いで、誰の足はすてき、私のは大根だ、牛蒡だなどと、今更ながら足のあったことに気づいて評定しあったりもした。
最低の暮しと荒廃のなか、わけのわからない活力もまた漲りあふれていた時代だった。
いち早く復興したものの中に新劇活動があり、焼け残った有楽座や帝劇で「人形の家」や「真夏の夜の夢」が上演されて、この世にこんなすばらしいものがあったのか? と全身を打ちのめされるような感激で観たのである。暖房もない劇場で観客はオーバー、衿巻をしたままで、休憩時間になるといっせいにアルミの弁当箱をガチャガチャと開き、蒸しパンやら得体のしれないものを取り出してほおばる。舞台と現実の落差はあまりにも大きかったけれど、精神的飢餓状態をとり返そうとする動きはあらゆる面で烈しく、三好達治の詩集一冊が売りに出されると、出版社のまわりを人が延々の列でとりまいたというのも、この頃だったろうか。
(「はたちが敗戦」)


9月、繰り上げ卒業して薬剤師の資格を得るが、その職につくことはなかった。
「年譜」には、「かなりの劣等生、そのうえ、空襲下、逃げまどうばかりの学生生活だったため、みずからを恥じ、以後薬剤師の資格は使用せず」と記している。

9月21日、戯曲「とほつみおやたち」が読売新聞戯曲第1回募集に佳作当選。

三河地方の木綿発祥の民話をもとにした戯曲が「選外佳作」に選ばれる。「暗夜に灯をみつけたような嬉しさだった」と茨木は記している。
いまだ卵とはいえ若い女性の戯曲の書き手は珍しい。山本安英が励ましの手紙をくれた。それがきっかけで、茨木は山本の家を訪ねるようになる。戦後、山本は劇団には属さず、「ぶどうの会」さらに「山本安英の会」を足場に演劇活動を続けていく。
茨木二十一歳、山本四十代はじめの日である。
(『清冽』)

女優・山本安英と出会い、これ以後生涯にわたる親交のなかで「女の生きかた」の一番大切なところを学び吸収していった。
のち、『汲む - Y・Yに -』(第二詩集『鎮魂歌』所収)で、茨木が山本安英の何を見て何を学んだかについて書いている。


大岡 結局女性の場合には後続部隊というか、男の連中が出で立ってゆくのを見送って、口もとまで出てくる悲しみや喜びを全部押しかくして、外には出さない、という形だったでしょう。そこからくる抑圧された思いというのが、戦後になって爆発するわけですけれど、女の人の多くは、風俗、つまりファッション的なもので戦争中の抑圧を解放する。また、恋愛もね。さまざまだと思うんですが、茨木さんの場合は、むしろ稀なケースですね。つまり、言葉というものに初めからぶつかった、という人は、あの当時まだ少なかった。
茨木 ええ、何よりもまず自分のしっかりした言葉がほしいと思った。変わってたかもしれませんね。
大岡 あのころ他の同世代の人で、戯曲を書く女性の仲間みたいな人はなかったんでし
茨木 ええ。一人もいませんでした。
大岡 だから、そのあたりがちょっと、独特だと思うんです。
(大岡信対談)

忘れもしない昭和二十一年の夏、帝劇で「真夏の夜の夢」を観たとき、劇場前に大きな看板が立てられて、それは読売新聞主催の第一回「戯曲」募集の広告だった。私はこれに応募してみようと思った。それというのも私に文学の才能があるかどうか、父に実証してみせる必要があったのである。
薬学は投げみたいな状態、そして今度は文学、わけても芝居などと言い出す娘に、親が心配したのも無理なく、しかし一喝するという態度ではなくで「才能が少しでもあればの話だが」ということになっていた。
卒業試験が近づいて、同室の四人が試験勉強に没頭している時、私は同じように机に向いながら孜々(しし)として生れて初めての戯曲なるものを書きついでいった。テーマは愛知県に伝わった三河木綿発祥の民話が核になった。自分の意志より以前に次々に言葉が溢れ出る不思議を初めて味わって呆然としていた。
数百篇集まった戯曲の中で、選外佳作に選ばれ、読売新聞に発表されたときは飛びあがるほど嬉しかった。化学では落ちこぼれであったけれど、別に私を生かせる道があったという暗夜に灯をみつけたような嬉しさだった。多額の賞金(金額は忘れてしまったが)と、土方与志、青山杉作、千田是也氏のサイン入りの賞状を貰い、私が最年少だったそうで読売新聞の偉い人が大いに励まして下さった。
殆ど同時に受けとった薬学部の卒業証書(これは落第すれすれの線で)と二つを持って昭和二十一年の秋、郷里に帰った。どさくさの中の繰りあげ卒業で、正味三年半だった。
翌年薬剤師の免許証も届いたが、二、三年後には国家試験制度が出来、そうなったら、とても私はパス出来なかったろう。ポツダム将校というのがあったが、私もポツダム薬剤師と思い、以後免状があるというだけでこの世界から別れた。
父もいささか驚いたらしく、行末どうなるやらと案じつつも、以後黙認という形になった。それが契機となって、新劇女優の山本安英さんから一度あいたいというお手紙を頂き、また「夕鶴」が生まれる前の山本さんにお目にかかり、それからずっとおつきあいが続いているが「女の生きかた」の一番大切なところを、私は山本さんから学び吸収しようとしてきたような気がする。
沢山の芝居を観、戯曲を読むうち、台詞の言葉がなせか物足らないものに思えてきた。生意気にもそれは台詞の中の〈詩〉の欠如に思われはじめてきたのである。詩を本格的に勉強してみよう、それからだなどと諸関係の本を漁るうち、金子光晴氏の詩に出逢った。これは戦前、戦中、戦後をいっぺんに探照燈のように照らし出してる強烈なポエジイで、眩惑を覚えるほどだった。このように生きた日本人もいたのかという驚き。
言葉の練習のつもりでみずからも詩を書き始めたのだが、ミイラ取りがミイラのようになって戯曲のほうの志は得ないまま、詩を書きついでアッというまに三十三年の月日は流れ去った。今思うと敗戦迄の八年間と、敗戦後の三十三年間は等価の時間のようにさえ思われてくる。それほど戦後の時の流れは迅かった。
(「はたちが敗戦」)

《参考資料》
後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)
後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)
金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)
成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)
井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)
芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)
中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)
高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)
小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)
蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)
『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)

『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考
長谷川宏「茨木のり子の詩」
若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」
姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」
河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか
 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」
野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」
細見和之「茨木のり子の全人性」

《茨木のり子の作品》
大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)
茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)
茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)
茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)
茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)
茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)
茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)
茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)
茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)
谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)
高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)



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