ひそかに 茨木のり子
節分の豆は
むかし
ジャングルにまで撒かれたが
巨濤
をみとどけた者はいない
沙漠を行った者は沙漠
スマトラ女を抱いた者は腰のみのり
インドネシアの痙攣はしらず
楊柳の巷を行った者は 飛ぶわた毛
苦力の瞳のいろはしらず
みんなふやけて還ってきた
颯颯と箒でまとめられ
中に一粒のエドガア・スノウすらまじえずに
樫の木の若者を曠野にねむらせ
しなやかなアキレス腱を海底につなぎ
おびただしい死の宝石をついやして
ついに
永遠の一片をも掠め得なかった民族よ
あきめくらは集って
眠たげにコーヒーをすすり
鍬をかつぎ
一羽の鳩も飛ばさない
三文手品師の一行に
故なく花を投げたりする
おお遠く
パピルスから伝わる
彪大な史書に
またひとつのリフレインを追加
使いふるしたリフレインだけを?
葡萄酒のしづけさで
深夜
私の耳もとを染めてくる
この熱いものはなにか!
(第一詩集『対話』 初出「詩学」1953年8月 詩人27歳)
金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)より
当時『櫂』の編集長であった川崎が、『櫂』の創刊号のために茨木の用意した二篇の詩のうち、一篇のみを採用したという逸話がある。一九五三年三月に茨木は、「方言辞典」と「宣言」の二篇を川崎宛に送った。川崎は「創刊号には〈方言辞典〉だけを貰う」(茨木 1969:106)と述べ、「宣言」のほうは茨木に返したという。
(略)
川崎から採用されなかったもう一篇の詩「宣言」についてはどうだろう。「宣言」と題する詩は、茨木の詩集のどこからも見つけることはできない。茨木は次のように言っている。
改めてみると、たしかに良くない。しかし、テーマは捨てがたかったので、それから随分長い間かかって推敲し、同じ素材を練り直して出来たのが (中略)「ひそかに」という詩である。見識ある編集長によって、言わず語らずのうちに推敲の大切さを教えてもらったような気がして、私にとっては忘れがたい一事である。(茨木 1969:107)
では、ここで 「ひそかに」を確認しておこう。
(略)
「ひそかに」は、茨木の社会意識と批評精神がうかがえる作品の一つである。この詩で「節分の豆」は、戦争に行かされた日本の若い兵士たちで、彼らは「撒かれた」ときと同じように、戦争が終わると「箒でまとめられ」日本に還ってきた。戦争でたくさんの若者が命を奪われたが、還ってきたものは「みんなふやけて」いたこと、つまり、戦前、天皇を基軸とした世の中を守るという使命感を持って、命を落とすことをも覚悟して戦場に行った若者たちが、還ってきて無気力でいることに対して、作者は「おびただしい死の宝石をついやして/ついに/永遠の一片をも掠め得なかった民族よ」と嘆いている。そして、第七連の「三文手品師」は、次に挙げる茨木の文章から、「吉田茂内閣」を示していると思われる。「あきめくらは集って」「三文手品師の一行に/故なく花を投げたりする」とあるが、それは自分の目で見ることをせず、だまされるままに投票している有権者の「投票行動」を指している。茨木のこうした激しい詩の表現からは、時代の持つ課題を率直にうたい出そうという作者の意思がみられる。
茨木は、「方言辞典」だけが選ばれたことについて次のように述べている。
創刊号であるからには「宣言」がなくてはいけないだろうと思ってのことだったが、その詩の内容は「吉田内閣ぶっつぶせ」式の勇壮きわまりないものだったから、川崎さんは困ってしまったらしい。彼の美意識からすれば、絶対に載せたくないものだったのである。(茨木1969:106)
*「(茨木1969)」は茨城の「「櫂」小史」を指す
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