2022年1月24日月曜日

いさましい歌 (茨木のり子) 「お待ち いまに息の根をとめてあげる がりがりとたうきびでもかじりたい日だ」(「詩学1950年9月 詩人24歳 はじめて活字になった茨木のり子の詩)    

 


いさましい歌     茨木のり子


お待ち

いまに息の根をとめてあげる

がりがりとたうきびでもかじりたい日だ


だまつて

私の言ふとほりにおなり


お前はけふミケランヂエロの俘虜さ


たくましい肢体をしばりあげられ

馬のやうにけいれんする

心ふるふばかり美しい私の…。


手綱をにぎり

さあ行かうペガススのやうに


蒼窮のはての

あをいあをい透明の世界へ

あたしの髪は煙のやうになびき

お前のたてがみは時空の風を切って飛ぶ


沼の妖気よさようなら


栗色の脾肉よ もつと走れ

捉はれのお前に鞭をあて

まっしぐらにかける

あああたしはアマゾンの女王だ

      わたしのアヒレスよ

      わたしのアヒレスよ


お前の鼓動が哀れに乱れ

お前の翼が折れさうになればなるほど


わたしの鞭は空中で鳴るのだ


岩石を駆け

雲を飛び

星の光度に射られながら

いとしい人よ

あたしは愛した


めくるめくはむらの照明

喘ぎの音符

夜のしじまのホリゾント


そこで主役になりきった白熱の姿態は

こはくのやうに澄みきって

見えない祭壇に捧げられ

消えやうもなく定着されたと知る。


おおどれ位たつたといふのか……

あたしはお前の背中にゆられて行った…‥


お前は笑ってゐたやうだった……


乳母が子供をあやすやうに……。


(「詩学1950年9月 詩人24歳)


茨木のり子の詩がはじめて活字となったのは、雑誌「詩学」の投稿欄、「詩学研究会」である。

表題は「いさましい歌」。一九五〇(昭和二十五)年である。

「「櫂(かい)」小史」 に、詩を書きはじめた当時のことを回想している。

《昭和二十四年の秋に私は結婚していて、所沢町に住み、翌二十五年くらいから、詩を書こうとしていた。詩を書きたいという欲求もさることながら、言葉を鵜匠のように、自由自在に扱ってみたい、言葉をもっとらくらくと発してみたい、言葉に攫われてもみたいという強い願望があり、そのためには詩を書くことが先決のように直感されたからであった。

詩の師を探す気特はさらさらなく、仲間もなく、ただ自分一人でこつこつ書いていこうと思っていた。その頃、本屋に毎月きちんと出ていた「詩学」という詩誌があり、詩学研究会という投稿欄もあって、選者は村野四郎氏だった。

一人で書いているのは、いくらか心細くなったとみえ、どこの誰ともわからない者の詩として、村野四郎氏に一度見てもらいたくなったらしい》

詩学研究会を足場に成長していた詩人は茨木の他、川崎洋、谷川俊太郎、山本太郎などがいる。のちに『どくとるマンボウ航海記』などで知られる作家の北杜夫も研究会への投稿者だった。

(後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社))



「いさましい歌」というのと「閉じこめられて」というのを二篇投稿してみた。本名では何やら恥しかったので、ペンネームをつけようと思い、「何がいいだろう?」と、二、三分考えていた時、つけっぱなしにしていたラジオから謡曲の「茨木」が流れてきた。「ああ、これ、これ」と思って即座に決めた。のり子の方は、本名のまま、しっぽにくっつけてしまった。つい最近、観世栄夫氏にきいたところによると、謡曲に「茨木」というのは無いそうで、長い間、謡曲と信じこんできたものは、あれは歌舞伎の長唄であったのだろうか。
「茨木」は、源頼光の臣、渡辺綱に、羅生門で腕を切り落された茨木童子という鬼が、切られた腕を取り返すべく、渡辺綱の乳母に化けて、館におもむき、殊勲の獲物を見せてもらうことを乞い、見た途端、忽ちに鬼に変じて、その腕を奪い、あれよあれよの綱らを尻目に、もの凄い高笑い、さあっと虚空に舞いあがって消え失せたという物語である。

(略)

私はこの伝説も、歌舞伎の「茨木」もいたって好きである。今になって思うと、たとえ切りとられようが「自分の物は自分の物である」という我執が、ひどく新鮮に、パッときたのは、滅死(ママ)奉公しか知らなかった青春時代の反動だったかもしれない。
鬼の我執というか、自我にあやかりたいと思って、ヒョイとつけたペンネームがその後長い間くっついてくることになろうとは、遂には茨木という判コまで必要になってこようとは、その時夢にも思わなかった。
さて、選者の村野四郎氏は、「いさましい歌」というのを採って下さって、懇切に批評してくれた。昭和二十五年の九月号の詩学であった。はじめての投稿が入ったからそれに勢いを得て、何度か送った。自分の知らないでいる長所、短所を正確に指摘されて、なかなか有益だった。村野四郎氏があの時一篇も採って下さらなかったら、はたして今も詩を書き続けていただろうか・・・・・と思うことが時々ある。
(茨木のり子「「櫂」小史」)


「いさましい歌」は、現在までのところ、読み得る茨木の詩のなかで、もっとも早い時期のものである。「お待ち/いまに息の根をとめてあげる/がりがりとたうきびでもかじりたい日だ」と力強く書きだされる。いまだ日本が占領下にあったなか、前を向いた凛々しい姿勢が示される。
(成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』))


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