2023年10月31日火曜日

〈100年前の世界110〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(2) 二村一夫『亀戸事件小論』(要旨) 3.警察発表の検討 (2)殺害の理由 (3)事件を一ヵ月余も隠蔽した理由 4.事実に関する異説の検討 (1)殺害者は誰か       


 亀戸事件の報道

〈100年前の世界109〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(1) 二村一夫『亀戸事件小論』 1.自由法曹団の調書 2.警察発表と政府の答弁書 3.警察発表の検討 (1)検束の理由 より続く

大正12(1923)年

9月4日 亀戸事件(2)

二村一夫『亀戸事件小論』(要旨)

3.警察発表の検討

(2)殺害の理由

 政府の答弁書によると、平沢らの殺害理由は彼等が検束後も革命歌を高唱し、多数の収容者を煽動し軍の制止に対しても反抗したためであるという。またその法的根拠は衛戌勤務令第十二であるとしている。

 川合らが革命歌を高唱したり、収容者を煽動して「名状すべからざる混乱」をひきおこしていたとの主張に対する有力な反証は全虎岩(立花春吉)の聴取書である。

 全は1921年、苦学するために日本に渡った朝鮮人で、亀戸町の福島ヤスリ工場に工員として働く南葛労働会の会員である。全は、震災のときは、工場の友人十数人にまもられて自ら亀戸署に保護を求め3日午後から6日朝まで亀戸署内にあって、当時の署内の状況について知る数少い証人の一人である。彼は犠牲者の遺族に裁判の証人になってほしいと希望されたため、帰国の予定を中止して、この証言をのこした。朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実体」のなかに、同氏の体験記がある。

また、かりに、川合らが革命歌をうたい、収容者を煽動したことが事実であるとしても、それが彼等全員を殺害する正当な理由にはならない。殺害の法的根拠として主張された衛戌勤務令第十二は次のとおりで、これは兵器を使用しうる条件を規定しているのであって、人を殺すことを認めているのではない。


 衛戌勤務ニ服スル者ハ、左ニ記スル場合ニ非ザレバ、兵器ヲ用ユルコトヲ得ズ

一、暴行ヲ受ケ、自衛ノ為止ムヲ得サルトキ

一、多数聚合シテ暴行ヲ為スニ当リ、兵器ヲ用ユルニ非ザレバ鎮圧スルノ手段ナキトキ

一、人及土地、其他ノ物件ヲ防衛スルニ、兵器ヲ用ユルニ非ザレバ他ニ手段ナキトキ

衛戌勤務ニ服スル者、兵器ヲ用ヰタルトキハ、直ニ衛戌司令官ニ報告シ、衛戌司令官ハ之ヲ陸軍大臣ニ報告スベシ(後略)


 平沢らは軍と警察の力で一旦監房外に連れ出され、他の収容者とは隔離された上で殺されている。もしかりに、彼等が収容者を煽動し「名状すべからざる混乱」をひきおこしていたことが事実であるとしても、他の収容者から切り離されてしまえば、その力は武装した軍人や警官にとっておそるるに足りないものになる筈である。また、一部の新聞(東京日日)が伝えるように、彼等が房外に連れ出されたとき、薪をもって抵抗したことが事実だとしても、武装した兵隊にとって、彼等全員を殺す以外にこれを鎮圧しえず、また自衛しえなかったとはとうてい考えられない。さらに、労働組合員が殺された僅か数時間前に、自警団員4人が同じく薪をもって抵抗したためとして殺されている。薪がそれほど危険であるなら、自警団員を殺害した後で、これを他の収容者から遠ざけるなどの措置がとられてしかるべきであったろう。平沢らが薪で抵抗したとの説は疑わしい。

(3)事件を一ヵ月余も隠蔽した理由

事件を10月10日まで隠蔽されてきたことに対する警察当局および政府の弁明は、事件を直ちに発表した場合は人心の動揺を惹起し、公安を害するおそれがあったという。しかしこれを正当な弁明とは認められない。警察に事件を隠蔽する意図がないとしながら、各人の死体について検視あるいは検証調書を作成していないし、死体の焼却にあたっては各人を区別せず、遺骨が誰の者かまったくわからない状態にしてしまっている。警察は意識的に証拠の湮滅をはかったものとみるしかないだろう。

事件が発表された10月10日は、当局にとっては好ましい時期ではなかった。10月8日には大杉事件の第一回公判の開かれた、新聞は毎日「甘粕事件」と、その公判廷の様子を詳しく報道していた。そのさなかに公表された亀戸事件は、「第二の甘粕事件」として大々的に報じられた。軍や警察への信頼を失わせるような事件を相ついで発表することは、当局にとつて決して得策ではなかつたと思われる。

 では、なぜそんな時期に発表したのだろうか。

大杉事件は9月20日に時事の号外によつて報じられたが、これは直ちに発禁になり、事件に関する記事差止が解除されたのは、公判がはじまった10月8日で、この記事差止解除と同時に、つぎのような注意が発せられた。


 「甘粕事件ニ関シ第二回被告調書中森慶次郎陳述ノ『隊内ニテ主義者ヲヤツツケタホウガイイトイウ話ハ毎日ノヨウニ云々』オヨビ該人訊問調書中小山介蔵陳述ノ『一日夜云々』ヲ掲載シタル時ハ場合ニヨリ禁止処分ニ付セラルル趣ニツキ左様御了知相成リタシ」(美土路昌一『明治大正史-言論篇』)


しかし、時事新報はこの注意を無視して号外を出した。問題の箇所は次のところである。


「問 尚、今月〔9月〕十日前頃のことであるが被告は憲兵隊にて甘粕大尉に向ひ、淀橋署にては、大杉を遣付けたい意向であるとのことだが、四谷憲兵分遣所よりの特報に出てゐると云ふことを話さざりしや。

答 私は話したことはありませぬが、他の者が話したかも知れませぬ。…併し隊内では主義者を遣付けた方がよいといふやうな話は、毎日のやうに皆が雑談して居りました。又、亀戸警察署では八名計りを遣付けたと言ふやうな話も、皆が致して居りましたやうな状態でした」


この森訊問調書の内容は、時事の号外が出る前に山崎今朝弥を通じて南葛労働会にも伝わっていた。

南葛労働会「亀戸事件日誌」(『社会運動通信』1924.1.1、『解放』1925年10月号に再録)の10月5日の項には「山崎氏より甘粕の調書中に八人やつつけたとあるのは、誰と誰が知り度しとの手紙来る。」とあり、さらにそれより先9月25日の項には「山崎今朝弥氏の端書により愈々虐殺の事実なるを知りますます運動を進む」とある。9月24日には大杉事件が一部発表になっているのでおそらく、この時に山崎はどこからかこの調書の内容を知ったものであろう。

 加藤たみ聴取書によれば、10月7日に警視庁は宇都宮署を通じてのたみの問い合わせに対し「この事件は解決が長びく」と回答している。おそらく、この時点では事件の公表はもっと先のことと考えていたのであろう。ところが、10月9日には、各新聞社の記者が南谷検察正に亀戸署での自警団員殺害のうわさを問いただしたのに対し、検事正は次のように答えている。


「明日中に該事件に関する憲兵の報告がある筈になっているから当局としては其の報告をまって後方針を決める積りだ」(「自警団員殺害事件に付当局者に質す」『法律新聞』第2171号)


 7日から9日の間で急に方針が変ったとすれば、やはり8日の時事の号外で虐殺の事実が公になったため、急遽、警察は軍と打合わせて公表に踏み切ったと考えられる。


4.事実に関する異説の検討

(1)殺害者は誰か

 警察発表その他では、殺害者は田村春吉少尉のひきいる習志野騎兵第十三聯隊の兵士であるとされているが、指揮官の田村春吉少尉以外の兵士の氏名や田村少尉の経歴などの詳細は不明である。但し、実際の殺害者かどうか不明だが、当時亀戸署にいたことが確かな兵士の名は、勤労者として表彰されているので知ることができる。その勲功具状は・・・。


「 騎兵第一三聯隊第四中隊

      陸軍騎兵二等卒 郡司初太郎

                外一名

 右は今回の大震災に際し東京救援の為出動したる騎兵第十三聯隊の亀戸付近警備中大正一二年十月四日午後七時亀戸署内に於て衛兵服務中、暴漢が突然鉄拳を以て飛付き暴行するや、沈着克く事を処し以て、騒擾を未然に防止し得たるは、服務の方法機宜に適せり。其の行動は衆の模範とするに足る。」(『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人』133ページ)

次に亀戸警察署員の関与について、古森亀戸署長、正力警視庁官房主事は談話のなかで、警察は留置場からひきずり出すのを手伝っただけで手は下していないことを強調している。甘粕事件の公判において、淀橋警察署員が大杉殺害を依頼したか否かで軍と警察との間で激しい対立をひきおこしていた時だけに、この言い分は認められるかも知れない。しかし、甘粕事件に懲りて、亀戸事件の場合は衛戌勤務令第12で片づけることで警察と軍とで打合せのうえ発表し、かりに対立があっても裏で取引していたことは充分考えられる。

 だが、かりに古森らの云い分を認めたとしても、警察が殺害を軍隊に依頼したのではないかとの疑問は残る。この点では古森署長はじめ亀戸署員、なかでも安島、北見、蜂須賀、小林、稲垣、深沢ら高等係刑事、伊藤巡査部長らはシロとは、云い難い。明確に殺害を依頼しないまでも、彼らが特定の人間を選んでこれを「鎮圧」あるいは「制止」することを軍に依頼したにちがいない。7~800名もいた在監者のなかから、平沢や南葛労働会員を選び出すことは習志野から来たばかりの軍人に出来ることではない。

 いずれにせよ、警察が平沢らの殺害を制止しなかったことは明白である。そればかりか、報知新聞(10月11日付)によれば、「警察側から『銃殺は音が立って困るから剣で刺殺して貰いたい』と申し出」ている。

 鈴木文治は、この事件において亀戸警察署が果した役割を考える上で重要な指摘をしている。


 「私の想像するところでは、平沢君等と亀戸署員とは、平素決して親善の間柄ではない。否、或は却って犬猿も啻ならざる間柄ではなかったか。さうした平素の事情がアノ際あのドサクサの際かかる結果に導いたものではないか。

 亀戸の署長古森君は、以前警視庁の労働係長を勤めた人で、労働運動の実情には精通していゐる人である。そこで係の高等刑事等は労働運動の取調や取締について屡々その不成績を詰責されたと伝へられる。」(前出「亀戸事件の真相」)。


 平沢、中筋を除く8人が属した南葛労働会は、渡辺政之輔を指導者とし、暁民会系の川合、北島、吉村らをはじめ数十人の先進的労働者が結集した思想団体的色彩のこい労働組合であった。南葛労働会は悪法反対運動、メーデーなどの示威運動で警察と対立していた。また震災当時は広瀬自転車製作所で工場閉鎖をめぐって争議中であったが、これには亀戸署高等係が介入していた。さらに、この年の6月、第一次共産党事件で渡辺政之輔が逮捕されていた。

 平沢、中筋の所属した純労働者組合もまた日本鋳鋼争議、大島製鋼争議などで亀戸署と対立していた。とくに1922年の大島製鋼争議では、亀戸署長のひきいる警官隊と激しい乱闘を演じ、120余人が検束され、うち63人が騒擾罪で起訴され、13名が拘留されている。この大島製鋼争議では、布施辰治ら自由法曹団は亀戸署の人権蹂躙、不法拘引を問題としてたたかつている。

 このような警察との緊張した関係が、震災下で調書附録「官憲ノ検束者ニ対スル暴状」のような不法な官憲の人権蹂躙をひきおこしている。亀戸署に検束された南厳氏は、高等係主任安島から「今晩はおまえの死刑執行だ」と云われてリンチを加えられたことを述べているが(「南葛労働会と亀戸事件」労働運動史研究37号)、検束者に対する警官のこのような言動が虐殺につながったことは否定し難い。直接手を下した殺害者は習志野第13聯隊の兵士だけであるとしても、亀戸署員らはその共犯者であつた。


つづく

0 件のコメント: