2025年3月31日月曜日

みなとみらいの桜 万葉倶楽部脇のソメイヨシノ(ほぼ満開) 日本丸メモリアルパークの横浜緋桜(満開) 汽車道の桜木町側の桜(満開) ホテルインターコンチなだ万でランチ 2025-03-31  

 3月31日(月)曇り

今日はあいにくの曇り空。予報ではもう少し青空も出る筈だったが、雨が降り出してもおかしくないほどの曇り空。

みなとみらいの桜を見に行った。

ランチはホテルインターコンチのなだ万にて。

▼万葉倶楽部脇の桜

尖端にはまだ蕾がたくさんあるけれど、満開或いは満開近しというところだろうか。





▼日本丸メモリアルパークの横浜緋桜は満開

なお、毎年遅いけやき通りの桜並木はまだ二分咲き以下の様子だった。



▼汽車道、桜木町側の桜
両側に、ソメイヨシノではない桜があり、これは満開。


▼ランチはホテルインターコンチネンタルのなだ万にて



▼ホテルエントランスの啓翁桜


ウクライナに関する米ロ首脳の発言は何も信じられない NYTコラム(朝日);「通訳者がトランプ氏に「プーチン氏が、ウクライナの『平和(peace)』のためなら何でもする用意があると言っている」と語ったとき、プーチン氏が本当に言ったのは、「ウクライナの『領土の一部(piece)』のためなら何でもする用意がある」ということだったと私は確信している。」

トランプ大統領、3期目「冗談ではない。目指す方法ある」(日経 会員限定) / トランプ大統領3期目を目指す可能性否定せず「方法はある」 憲法では2期までしか認められず NBCテレビのインタビューで(FNN)

米フロリダ州の一委員会で、不法移民追放で働き手がなくなったキツい仕事を、14歳以上の子どもにさせてよいという法案が通過。一晩中働かせることもできる案だとのこと。今後採決に向かう。米国はどこへ行こうとしているのか。(森岡正博」)

大杉栄とその時代年表(451) 1903(明治36)年7月11日~30日 小村寿太郎外相、栗野慎一郎駐露公使にロシアに日露交渉開始を提議するよう訓令。 「日露戦争開幕ノ合図音」(桂の述懐「一たび談判を開始せんとせば、戦争は最初に於て決心し置かねばならなかった」)。

 

栗野慎一郎

大杉栄とその時代年表(450) 1903(明治36)年7月1日~10日 「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」 より続く

1903(明治36)年

7月11日

日本、清国に対露強硬を勧告。

7月11日

京都平安紡績の職工、積立保信金・未払給料を要求して暴動。~24日。

7月11日

甲府の草薙社製糸女工900人、監督の排斥と賃下げ反対を掲げてストライキ(妥結)。

7月12

伊藤元老、枢密院議長就任上奏

13日、枢密院議長就任就任。

14日、政友会総裁更迭(伊藤博文から西園寺公望へ)。

15日、西園寺は政友会在京議員総会で総裁就任演説。

①「私は私の力の有らん限りの勇を奮い、私の有らん限りの智恵を尽して之を本会に捧げ」る、

②いわゆる「策略」などということは時代遅れであり、かつ私はそういうことのできる人間ではない、と抱負を述べる。

この時、旧自由党系実力者星亨(前逓信大臣)は1901年6月暗殺されており、政友会総裁を支える最高幹部は、原敬(前逓信大臣、陸奥宗光の腹心)と西園寺のフランス留学時代の友人松田正久(前蔵相、旧自由党系)の2人の常務委員で、なかでも原敬が実権を掌握。原は、伊藤系官僚として政友会に入党したが、凡帳面さと官僚として鍛えた予算作成などの実務能力を生かし、旧自由党系等の党人派の求める鉄道建設要求などを支持し、伊藤総裁との媒介役を果たすことで、党の実権を掌握。

7月16日

ベルリン、国際通貨会議開催。

7月17日

竹山道雄、誕生。

7月18日

川上音二郎(39)・貞奴(31)、横浜・喜楽座での一座公演で「ヴェニスの商人」「サッフォー」を上演

7月19日

仏、モーリス・ギャラン、第1回ツール・ド・フランス自転車レースで優勝。

7月20日

「東亜木材会社」と韓国西北辺界鬱陵島森林監理趙性協間で土地租借契約。駐韓ロシア公使パウロフは、これを龍岩里租借協約にする企図。日本(公使林権助)の反対(機会均等の公理違反)で実現せず。

7月21日

外相小村寿太郎、駐露公使栗野慎一郎に対露交渉開始訓電。

7月21日

足尾銅山に鉱毒除外命令。

7月21日

英議会、統一党政府のウィンダム法(アイルランド土地買収法)可決。アイルランドの地主権益買収し小作農が自らの耕作地を所有。償還期間は68年6ヵ月。

7月23日

日本初のオペラ上演。グルック「オルフェオとエウリディーチェ」。柴田環。

7月26

頭山満、近衞篤麿、神鞭知常ら、「対外硬同志会」結成

8月9日、「対露同志会」と改称。

7月28日

小村寿太郎外相、栗野慎一郎駐露公使に、ロシアに日露交渉開始を提議するよう訓令。

「日露戦争開幕ノ合図音」(「一たび談判を開始せんとせば、戦争は最初に於て決心し置かねばならなかった」桂の述懐)。

31日ロシア外相ラムスドルフに口上書手交。

8月5日ニコライ2世の允可を得たため交渉に応じる旨、回答。

7月30日

ロシア社会民主労働党第2回大会開催(~8月23日、ブリュッセル、ロンドン)。党綱領と規約を採択。規約第1条や「イスクラ」編集部構成をめぐりレーニン・プレハーノフ(後、メンシェヴィキに移る)主導のボルシェヴィキ(「多数派」、急進主義)とマルトフ(後、プレハーノフが加わる)らのメンシェヴィキ(「少数派」、中道主義)に分裂。トロツキーはメンシェヴィキに与する。

大会期日が迫り、トロツキーらはジュネーブに移る。大会準備の主問題は規約(特に「イスクラ」とロシア国内の中央委員会との関係)。レーニンは、国外の「イスクラ」編集部が党を指導するというもの。

トロツキーはシベリア同盟から代議員に推され出席。ブリュッセルでは大会代議員全員に尾行がつき、警察からの召喚状がでる。出頭した者は24時間以内の出国申し渡し。トロツキーは出頭せずロンドンに向かう。

大会が進むにつれ、「イスクラ」主要幹部間の対立露呈(「硬派」(レーニン)と「軟派」(マルトフ)との分化)。「イスクラ」主要メンバで話し合うことになり、トロツキーが議長に選ばれる。

結局、溝は埋まらず大会は分裂。トロツキーはレーニンと袂を分かつ。古参派アクセリロートとザスーリッチを「イスクラ」編集部から排除するレーニン提案の厳格さをトロツキーは受入れられず。1904年9月トロツキー、メンシェヴィキからも離脱。


つづく

2025年3月30日日曜日

自宅から徒歩圏内のサクラを観る 某巨大団地中庭は花盛りMAX(オオシマザクラ、ソメイヨシノ、センダイシダレ、八重ベニシダレ) 比較的よく咲いているソメイヨシノのピックアップ 2025-03-30  

 3月30日(日)晴れ

今日は、自宅から徒歩圏内のサクラ観。

ざっくり言うと、ソメイヨシノは平均で五分咲き前後というところでしょうか。

(↓下の写真は五分咲き以上のものだけをピックアップ)

ただ、オオシマザクラなどソメイヨシノではない品種には満開のものがある。

▼某巨大団地の中庭(花盛りMAX)

満開のオオシマザクラがデ~ンと構えて、他の桜を睥睨している感じ。

睥睨されてるのは、ソメイヨシノ、センダイシダレ、シダレ(ピーク越え)で、写りきれてない八重ベニシダレが何本かある。


▼オオシマザクラ


▼センダイシダレ

▼八重ベニシダレ(早咲き)


▼よく咲いているレベルのソメイヨシノ



▼今日観たサクラ(品種無関係ランダム)







大杉栄とその時代年表(450) 1903(明治36)年7月1日~10日 「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」)

 

夏目鏡子

大杉栄とその時代年表(449) 1903(明治36)年6月28日~7月 「日本では君主政体を国体と称するようである。(中略)社会主義なるものは、(中略) いわゆる国体、すなわち、二千五百年一系の皇統が存在するということと、矛盾・衝突するのであろうか。この間題に対して、わたくしは、断じて否と答えねばならぬ。(中略)社会主義は、かならずしも君主を排斥しないのである。」(幸徳秋水『社会主義神髄』付録「社会主義と国家」) より続く

1903(明治36)年

7月1日

チタ~ウラジオストック間の東清鉄道開通、全線開通。接続するシベリア鉄道はペテルブルク~ウラジオストク全線開通。また、東清鉄道は、満州里~ハルビン~奉天~大連~旅順の全線が開通。

7月1日

(株)日本製麻設立。(株)帝国製麻の前身のうちの1つ。

7月1日

啄木(17)、「ほほけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき」(『明星』卯歳第7号、4首の中の1首)。

7月1日

トゥール・ド・フランス第1回大会。フランス一周自転車レース。

7月2日

ロシア旅順口会議。~11日。陸相クロパトキンら極東関係者(関東長官アレキセーエフ中将、太平洋艦隊司令官スタルク中将、宮廷顧問官ベゾブラゾフら)。

ニコライ2世の意図は、極東での事業が日露開戦の口実を与えないようにすること。「東亜木材会社」関連の全将校の引揚げを指示。民営性徹底のため、鳳凰城の部隊と龍岩里の武器の撤収を命令。13日クロパトキン陸相、旅順口発。

7月2日

山県・松方元老、伊藤の枢相祀り上げ上奏。天皇に対し、桂内閣の退陣は不可、伊藤が元老で政党党首であることが国政に悪影響あり、「速やかにこれを政党より抜きて廟堂の要路に立たしめ」る必要ありと述べる。

天皇は、政党に不信あるものの、伊藤の失脚を意味する枢密院議長祀り上げには躊躇。徳大寺実則侍従長も説得、3日には天皇もこれを決意。伊藤の幕僚伊東巳代治もこれに絡むが、伊藤はこの事実を知らず。

7月2日

伊東は伊藤に対し、天皇が桂を慰留し、これを山県・松方から伝達した模様とのみ報告。山県・松方の上奏には触れず。

3日には、桂が伊藤を訪問。天皇に慰留されたのでしばらく葉山で静養すると述べる。伊藤はこの日、伊東に「別後首相来訪、談笑の中百疑氷釈、快然の至りに候。この上は井伯、陸相(寺内)をも煩わすの必要これあるまじきかと存じ候」と書き送る。伊藤は、桂が辞意を撤回したと見た。

7月7日付け伊東巳代治の山縣有朋宛手紙。


「例の一件に付きては容易ならざる御厚配感佩(かんぱい)の外これなく候。その後の御操様御伺いかたがた今夕拝趨仕りたくと存じ奉り供えども、昨朝より深更まで御妨げ申し上げ候儀に付き、今夕は引き控え申し候。・・・もっとも閣下に御面話を得候までは、伊藤侯を御訪問申し上げざる愚意に御坐候。」

7月2日


漱石)「七月二日(木)、晴。朝から晩まで、第一高等学校で点数会談開かれ疲れる。(学生の試験の結果極めて悪い。)菅虎雄宛で、神経衰弱だと伝える。俳句一句を添える。

七月三日(金)、午前七時、第一高等学校の入学試験監督のため、学校に行く。奥太一郎宛に手紙を出す。

七月四日(土)、五日(日)頃、鏡、尼子四郎から診察の結果を知らされる。その時、漱石の病状を話すと、ただの神経衰弱とは思えぬから、医学博士呉秀三(本郷区駒込西片町十番地)にみせてはと勧める。その方策を尼子四郎に委ねる。」

7月3日

林董駐英公使、日露交渉開始について英の諒解を求める。

7月4日

米、太平洋横断海底電線敷設。

7月6日

伊東巳代治は伊藤博文から翌日の召命について徳大寺侍従長に内々に尋ねるよう求められ、この日夜、「御用向は十の八九枢相の件なるべし」と報告。しかし伊東は、これは実現性が薄いとも答える。伊藤は、伊東の使者に対して「多分厳命はなかるべし」と話している。

7月6日

伊藤博文、参内。天皇は、対露交渉について諮問する機会も多くなるので枢密院議長に就任するよう内旨が下る

7月6日

エミール・ルベ仏大統領、外相とロンドン訪問(~9日)。英仏協商の交渉を開始。

7月7日

日本、清国に対ロシア強硬を勧告。

7月7日

英ヤングハズバンド大佐、遠征軍を率いてチベット侵入。

7月7日

天皇、伊藤元老に枢密院議長就任指示。

9日、徳大寺侍従長が勅書を手交。

10日、伊藤、松方・山県元老が枢密院顧問官になることを条件に、議長就任了解(松方・山県を道連れにする)。現議長の西園寺公望に政友会総裁就任を要請、西園寺は承諾。伊藤博文に政治の第1線での活動終る

山県・桂の陰謀

桂首相が辞表を提出、天皇には最高の相談役が必要との名目で、伊藤を枢密院議長に祭り上げ、政友会総裁辞任に追い込む、伊藤が総裁を辞任すれば政友会は自壊する考え。天皇は、決断に迷うが、ロシアとの交渉が極めて重要で戦争に繋がる危険も迫る時期で、内閣が倒れ政治に混乱を生じさせる訳にはいかず、伊藤に枢密院議長就任を求める。

伊藤は、山県・桂の陰謀を察知して、西園寺枢密院議長に自らの就任可否について相談、西園寺は拒否を勧める。翌日に西園寺から状況を聞いた政友会幹部原敬も同意見。結局、伊藤は天皇の苦悩を察し、桂内閣が再び辞表を提出しないという条件で枢密院議長就任を内諾。

7月7日

幸徳秋水(「一兵卒」署名)「戦争論者に告ぐ」(「万朝報」)。職業軍人と徴兵された一般兵士の差別、不公平。

戦争は、職業事人たちによって戦われるものではない。戦争にかり出される兵士たちはプロレタリアの子弟である。高等教育をうけたものは、様々な名目で兵役を免れており、徴兵をうけるのは貧乏人ばかりである。その多くは一家の働きざかりである。貧乏人は、兵役という貧乏クジを引くほかない社会の仕組は、不公平そのものである。勇ましい開戦論を唱える学者たちは、危険な戦場へ行かない。

「わが輩、一兵卒、あに甘んじて富貴者流のために犬死するにしのびんや。あえて一言して世の仁人に訴う。」

7月9日

福井県、暴風雨の被害甚大。死者13人、床上浸水3400戸。

7月10日

平出修(26)「七博士の行動を難ず」(「越後日報」7月10,11日)発表。この新聞は義兄平出善吉が高田市で発行・経営していた。修はこれ以前にも評論や短歌をいくつも寄稿している。

7月10日

この頃、漱石、神経衰弱再発(翌明治37年5月頃まで)。9月10日ころまで鏡子、一時実家に帰る。


「七月十日(金)頃、神経衰弱一層ひどくなる。九月十日(木)前後まで鏡と別居する。鏡、父親中根重一と相談して筆・恒子を連れて妊娠中の身で実家に帰る。」(荒正人、前掲書)


「梅雨期頃からぐん/\頭が悪くなつて、七月に入つては益々悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、無暗と癇癪をおこして、枕と言わず何といはず、手当り次第のものを放り出します。子供が泣いたといつては怒り出しますし、時には何が何やらさつぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当り散らして居ります。どうにも手がつけられません。」(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)

「漱石の精神状態は六月の梅雨を迎えて悪化した。夜中になると病癖を起し、枕やら何やら手当たり次第に投げ、子供が泣いたと言っては怒った。鏡子はまた妊娠し、悪阻で苦しみ、肋膜炎で少し熱もあった。彼は女中も気に入らずに追い出し、鏡子一人を集中攻撃した。実家へ帰れとしきりに言うので、鏡子はひとまず子供を連れて中根家へ帰ることにした。ロンドンでは他人目を憚り部屋に籠ったが、自宅では一番親しい者に当たり散らすのが彼の病気の特徴である。講義の受けの悪さや、年度末試験の採点、面接の立ち会いなど彼にとっては愚にもつかない仕事の連続で、癇癪のこぶがどんどん大きくなっていたのだろう。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

「・・・以前はあんなに無茶苦茶に怒る人ぢやなかつたのだが、あんまり勉強でもし過ぎて、どつか身体なり頭なりに異状のあるのではあるまいか。以前とはまるでころりと違つてゐますので、不審でもあり心配でもあるので、その頃始終私を診に来てくださった尼子四郎さんにお話をしまして、とてもまともに診てあげませうなどといつたつて、近頃の空模様では素直におとなしく診せる気遣ひもなし、いつか折をみて、私を診に来てゐると、どうも夏目の顔色が悪いがとか何とか言ひがかりをつけて、そこのところをうまく持ちかけて診察してやってくれませんかとお願ひしました。尼子さんも仔細承知で引きうけてくださいました。」.

「四五日たつと、尼子さんがみえてのお話に、余程話が旨く運んだとみえて診察をされたといふのです。どんなでしたとお伺ひしますと、どうもただの神経衰弱ぢやないやうだと首を傾げられます。それではと重ねて御伺ひしますれば、精神病の一種ぢやあるまいか。しかし自分では何ともそこのところは申し上げ兼ねるから、呉(くれ)博士に診て戴いてはといふお話です。さうなれば是非もありませんが、また益々心配なので、ではさう願はうといぶことにお話をきめて、万事の謀(はかるごと)は尼子さんに御願ひいたしました。」

「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」)


つづく


2025年3月29日土曜日

日本の平和主義は一体どこへ? 安全保障関連法施行から9年 殺傷兵器の共同開発や輸出に歯止めがかからない(東京)

トランプ氏“買収に意欲的” アメリカ副大統領がグリーンランド訪問 現地は不快感 / (アメリカのヴァンス副大統領) デンマークがグリーンランドのイヌイットを抑圧してきたとか、北極海をロシアや中国に与えるのかとか、イヌイットの人たちはアメリカによる支配を求めているとか、言いたい放題だな。ウクライナを侵攻する前のプーチンを見ているようだ。(Kazuto Suzuki)  

玉木雄一郎の記者会見だけではわからない“別の顔”とは 元秘書らが証言「見るに堪えない光景」(AERA.);「『お前は使えねえな』『辞めてしまえ』『ハゲ』『アホ』『お前の代わりはいっぱいいる』などは何度も言われました。.....」 / 国民民主党「パワハラ問題」ウヤムヤ決着狙いミエミエ…玉木代表が被害者に言い放った“隠蔽圧力”発言(日刊ゲンダイ) / 〈玉木雄一郎代表も「今はうちが最も保守的な党だ」と周囲に漏らし、保守層のさらなる取り込みへの意欲〉 / 泉房穂氏、国民民主党共同代表打診の過去明かす「自公と連立前提で断った」入閣条件提示も (産経)         

大杉栄とその時代年表(449) 1903(明治36)年6月28日~7月 「日本では君主政体を国体と称するようである。(中略)社会主義なるものは、(中略) いわゆる国体、すなわち、二千五百年一系の皇統が存在するということと、矛盾・衝突するのであろうか。この間題に対して、わたくしは、断じて否と答えねばならぬ。(中略)社会主義は、かならずしも君主を排斥しないのである。」(幸徳秋水『社会主義神髄』付録「社会主義と国家」)

 

幸徳秋水『社会主義神髄』(朝報社)

大杉栄とその時代年表(448) 1903(明治36)年6月16日~24日 「桂の奇襲」により桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立。伊藤の棚上げ工作。伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての「一案」(枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」)決定 より続く

1903(明治36)年

6月28日

閣議、潮汕(広東省汕頭から潮州)鉄道に、個人名義で70万円の出費を決定。

6月29

『蘇報』事件。章炳麟、鄒容ら『蘇報』で排満革命を主張したため上海で捕らえられる。愛国学社閉鎖。清朝は引渡しを要求するが、租界当局は拒否、会審公堂で裁判。

6月29

池辺三山、密かに元老山県に手紙、開戦策を訴える。御前会議で決定した日露協商談判の方針はかえって日本を危地に陥れることになりかねない、ロシアが旅順に軍備整備を行っている今日、閣下の猛断勇快によって元老や政府を動かしてほしい、という。

6月29

滝廉太郎(25)、没。

6月30

内村鑑三「戦争廃止論」(「万朝報」)

7月

北洋常備軍左鎮、整う。                     

7月

この頃、渡良瀬川沿岸全域の鉱毒被害民の運動停滞

既に前年35年後半には「雲竜寺は廃寺同様」となり、この頃には「地方数回の集会不活発、不寄ゝゝにて延会し、終に結局は出来ぬゝゝで畢る」有様。翌8月には東京芝口越中屋の東京鉱毒事務所も閉鎖。

①権力・古河らの「離間」工作。

②生活困窮化。

③前年の大洪水により被害地が渡良瀬川下流の谷中・利島・川辺に移動。

④前年9月の大洪水に伴う10里にわあたる山崩れが、新土を沿岸にもたらしこの年秋の収穫期には豊作となり、政府・古河の予防工事の宣伝を信じさせ、かつ、治水により鉱毒被害を防げるという幻想を与える。

⑤日露対立が切迫し、ジャーナリズムによる鉱毒世論も沈静化。

7月

片山潜『我社会主義』幸徳秋水『社会主義神髄』。2書刊行

幸徳秋水『社会主義神髄』(11月までに6版)

自序


「『社会主義とは何ぞ』是れ我国人の競ふて知らんと欲する所なるに似たり、而して又実に知らざる可らざる所に属す。予は我国に於ける社会主義者の一人として、之を知らしむるの責任あるを感ずるが故に、此書を作れり。

近時社会主義に関する著訳の公行する者、大抵非社会主義者の手に成り往々独断に流れ正鵠を失す、其然らざるも或は僅に其一部を論じ、或は単に一方面を描くに過ぎず。而して浩瀚(こうかん)の者は却って煩冗に過ぎ、短簡なる者、亦要領を得難きの憾(うら)み有り。是を以て予は本書に於て、勉めて枝葉を去り、細節に拘せず、一見明白に其大綱を了会し要義に透徹せしめんことを期せり、世間未だ社会主義の何たるを知らざるの士之に依て、所謂『鳥眼観(バーヅアイ・ヴユー)』を做すことを得ば、幸ひ甚し。・・・」


付録「社会主義と国家」では、


「日本では君主政体を国体と称するようである。(中略)社会主義なるものは、(中略) いわゆる国体、すなわち、二千五百年一系の皇統が存在するということと、矛盾・衝突するのであろうか。この間題に対して、わたくしは、断じて否と答えねばならぬ。(中略)社会主義は、かならずしも君主を排斥しないのである。」


と、社会主義が国体と矛盾・衝突しないことを述べ、さらに、


「わが日本の祖宗・列聖のような君主、ことに「民の富は、朕の富なり」とのたもうた仁徳天皇の大御心のようなのは、まったく社会主義と一致・契合するもので、けっして矛盾するところではないのである。日本の皇統が一系で連綿とつづいているのは、じつに祖宗列聖が、つねに社会人民全体の平和と進歩と幸福とを目的とせられたがために、かかる繁栄をきたしたのである。これは、じつに東洋の社会主義が誇りとするところであらぬばならぬ。」


と、日本の天皇制を賛美している。

このころの秋水は、社会主義の主張は、経済組織の改革であって、国体にも政体にも関係ない、と考えていたようだ

〈社会主義に関する著作〉

明治34年:

安部磯雄著『社会問題解釈法』、久松義典著『最近国家社会主義』『社会研究新論』『社会小説東洋社会党』、片山潜著『普通選挙』、片山潜・西川光二郎共著『日本の労働運動』、幸徳伝次郎述『廿世紀の怪物帝国主義』、西川光二郎『社会党』、島田三郎『世界の大問題社会主義概評』など。

明治35年:

赤羽一著『鳴呼祖国』、煙山専太郎『近世無政府主義』、幸徳秋水著『長広舌』『兆民先生』、西川光二郎著『英国労働界之偉人ジョン・バアンズ』『人道之戦士社会主義の父カールマルクス』、大原祥一著『社会問題』、矢野文雄著『新社会』

明治36年:

安部磯雄著『社会主義諭』、ベラミー著・平井広五郎訳『百年後の新社会」、久松義典著『社会学と哲学』『社会学と事業』、磯野徳三郎著『社会主義新小説文明の大破壊』、ゾンバルト著・神戸正雄訳『一九世紀に於ける社会主義及社会的運動』、片山潜著『都市社会主義』『我社会主義』、木下尚江著『社会主義と婦人』、児玉花外著『社会主義詩集』、幸徳秋水著『サン・シモンの伝』『社会主義の根底』『社会主義神髄』、守屋源次郎著『独逸社会史附社会改良の方策』、中山伝之丞著『社会主義提要』、西川光二郎著『富の圧制』、高橋五郎著『社会主義活弁』、山口義三著『破帝国主義論』など

7月

日本基督教青年会同盟(YMCA)、結成

7月

日本郵船(株)、青森~室蘭間に定期航路開設。

7月

琵琶湖第1疎水に初の鉄筋コンクリート橋架設。

7月

尾上菊五郎没(1月)により、出演作「紅葉狩」が初公開される。

7月

柴田環ら最初のオペラ上演。

7月

山川登美子、「去年よりひとり地に生きながらへて」のことばを添えて、「夢うつつ」と題するうた10首を「明星」7月号に寄せてくる。

7月

大杉栄(18)、福島連隊区司令部副官を命じられた父東と共に弟妹も引っ越していた福島を訪ね1ヶ月ほど過ごす。

7月

この月(日不詳) 安倍能成、第一高等学校学年試験に落第し、宮本和吉と同級になり、親しく交わる。(宮本和吉は、安倍能成の妹せつと結婚する)

7月

この月(日不詳)、森田草平、東京帝国大学文科大学英文学科へ入学決る。

11月、本郷区丸山福山町四番地(現・文京区西片一丁目十七番七号)伊藤ハル方に入居する。暫くして、樋口一葉旧居と知り感激する。

7月初め

7月初め頃、漱石、大学を辞める旨、学長に申し出たが説得されて撤回。


「六月末(不確実な推定)から七月二日(木)の間、東京帝国大学文科大学長井上哲次郎に大学を退職したいと述べ、止められて引き返がる。」(荒正人、前掲書)


「六月十五日午後におこなわれた『英文学概説』(『英文学形式論』)の試験も不成雛だったので、金之助は辞職を決慧した。彼は井上哲次郎にかわって文科大学長になっていた坪井九馬三に面会を求めて学生の学力の実情を報告し、改革に関する意見を述べ、自分には到底つとまらないから辞めさせてほしいと頼みこんだ。しかし坪井は、「まああまり固苦しくお考えなさるな」といってとりあおうとせず、金之助は結局慰留された。」(江藤淳『夏目漱石とその時代2』)

7月

漱石の妻、鏡子


「七月、鏡、悪阻と肋膜後遺症で、尼子四郎の診察を受ける。」(荒正人、前掲書)

7月

二葉亭四迷(39、長谷川辰之助)、北京より帰国(11日、北京発)。大陸滞在1年3ヶ月。明治35年6月よりウラジオストク~ハルビンを経て、北京で川島浪速差配の京師警務学校で提調(事務長)を務める。暫く田端で閑居静養し、翌年明治37年3月より大阪朝日新聞東京出張員となる。

前年5月、外国語学校教授を辞任してウラジオストックに渡る(貿易商徳永茂太郎商店の顧問)。

6月、ハルビンに移る。

10月16日、徳永商店と縁を切り、外国語学校時代の友人川島浪速が清国政府に依嘱されて経営していた京師警務学堂の提調代理(教務主任)に就任。

二葉亭の言う川島の「漢学で固まった貴族主義」と二葉亭の「洋学まじりの平民主義」との食いちがい、川島浪速の言う「彼の人情哲学と、吾輩の治国統民の経綸観」との相違が次第にはっきりしてくる。

7月

この頃、正宗白鳥(24)、「読売新聞」入社。月給15円。帝大出身者は20円、早稲田は15円と決まった初任給。

入社早々ストライキがあり、殆どの記者はこれに加わる。正宗は、入社早々だから仲間に入らなくてもいいと言われ除外された。他に、明治31年に入社し、文芸部主任兼社会部主任となっている上司小剣がこれに加わっていない。ストライキに参加した者はみな辞めて、入社早々の正宗と、上司小剣とが古参社員となった

7月

永井荷風、7月1日、「夜の心」を「新小説」に、「燈火の巷」を「文芸倶楽部」に掲載。

「小説 恋と刃」(ゾラ「獣人」の翻案)を「大阪毎日新聞」(9日から8月23日まで46回)に連載。

7月

ロシア、自由主義者、インテリゲンチャ、ゼムストボ(地方自治会)の労働者で構成される解放同盟結成。ロシアに自由主義憲法要求。

7月

セルビア、社会民主党結成。

7月

ベルリンで国際通貨会議。金本位国・銀本位国間の固定平価決定。

7月

東京高等師範学校教授平田禿木、オックスフォード大学に留学。先に行っていた島村抱月と共に学ぶ。


つづく

米国、ウクライナに投資計画全ての管理権要求-欧州など他国排除 (Bloomberg)

 

2025年3月28日金曜日

「スミソニアン博物館が歴史を歪曲」トランプ大統領、展示排除を命令(朝日); トランプ大統領は、スミソニアン博物館の展示が、有害で抑圧的なものとして描かれているとし、「不適切なイデオロギー」の排除を命じる大統領令に署名しました。

イーロン・マスク氏、米裁判官選挙に介入 反対署名に賞金1.5億円 - 日本経済新聞(有料記事)

大杉栄とその時代年表(448) 1903(明治36)年6月16日~24日 「桂の奇襲」により桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立。伊藤の棚上げ工作。伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての「一案」(枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」)決定    

 

桂太郎

大杉栄とその時代年表(447) 1903(明治36)年6月9日~15日 7博士事件 「彼れ地歩を満洲に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火を賭(ふ)るが如く、朝鮮己に其勢力に服すれば、次に臨まんとする所、問はずして明かなり。・・・溝韓交換又は之に類似の姑息退譲策に出でず、根本的に満洲還附の問題を解決し、最後の決心を以て大計画を策せざるべからず。・・・」 より続く

1903(明治36)年

6月16日

クロバトキンが離京して旅順に向おうとしているところへ、露帝から勅電が到着し、彼はしばらく日本にとどまらざるを得なくなった。国務顧問官ペゾブラゾフが旅順に到発する前に、日本を離れてはならないというのである。ペゾブラゾフは主戦論者の旗頭で、鴨緑江沿岸の森林伐採に巨大な利権を有し、クロバトキンの報告に影響されぬうちにアレクセーエフの戦意を固めておこうとしていた。やむなくクロバトキンは須磨、明石に遊んで時間をっぶし、さらに九州を経て6月28日、ようやく長崎から巡洋軽アスコリに坐乗して離日した。

6月16日

ドイツ、帝国議会総選挙、社会民主党が第2党に。

6月16日

米、ヘンリー・フォード、フォード・モーター社設立。

6月17日

粗製樟脳・樟脳油専売法公布。10月1日施行。

6月17日


(漱石)「六月十七日(水)、井上勝太郎(微笑)から『白扇会会報』への寄稿求められて、投稿用紙送って来たので、十三句送る。「無人島の天子とならば涼しかろ」「能もなき教師とならんあら涼し」など心境を詠む。

六月十八日(木)、曇。住宅の設計考える。転居して、夏中勉強しようと思う。」(荒正人、前掲書)


6月18日

内田康哉駐清公使、奉天・大東溝の開放を清国に促す。

6月19日

上海愛国学社、中国教育会離脱。

6月19日

台湾、日本の植民地支配に反発する住民が蜂起、宜蘭庁の樟脳製造所を襲撃。

6月19日

幸徳秋水「開戦論の流行」(「万朝報」)。非戦論、愛国心過熱批判。東大7博士に関して、「いたずらに流行に雷同し、人心の煽動につとめるのは、吾人のふかく遺憾とするところ」と健康な社会理性の回復を論説。


「兵は凶器である。戦争は罪悪である。多数生民の平和と進歩と幸福とを愛する者は、あくまでもこれに反対しなければならぬ。日清戦争の結果が、いかにわが国民に多大の苦痛と腐敗を与えたかを見る者は、あくまでもこれに反対しなければならぬ」


6月19日


(漱石)「六月十九日(金)、晴。午後、寺田寅彦来る。他に来客(不詳)中で会わない。

六月二十日(土)、雨。午後、寺田寅彦来る。『文庫』の写生文などについて話す。岩田静夫(巌次郎)来る。

六月二十三日(火)、晴、寺田寅彦来る。松根東洋城(麻布区笄町、現・港区麻布、柳原邸内)に手紙を出し、以前から上京のことを聞いていたが、会いたいから何時でも訪ねて来て欲しいと伝える。」(荒正人、前掲書)

6月19日

英、第6回シオニスト会議。スイス・バーセル。ユダヤ人の祖国をウガンダにする提案。会議参加者の間で意見衝突。

6月21日

清国、学生の革命運動禁止される。

6月22日

参謀総長大山元帥「朝鮮問題解決に関する意見書」上奏。朝鮮を守るため満州のロシア軍駆逐。参謀本部次長田村怡与造少将が策案。軍令部は伊東大将はじめ全員賛成海相山本権兵衛は戦備未然のままの開戦に反対

6月22日

山本周五郎、誕生。

6月23日

御前会議、小村外相、「対露交渉意見書」説明。満韓問題につき対露交渉開始決定

政府から桂首相、小村外相、山本海相、寺内陸相、元老として伊藤博文、山縣有朋、大山参謀総長、松方正義、井上馨の計9人が出席。但し、「韓国ノ領土ハ其ノ一部タリトモ、如何ナル事情アルニ拘ラズ、露国ニ譲与セザルコト」と談判方針に明記。

「開戦決意ノ誓約」と言われるもので、4月21日「無隣庵」決議の再確認

小村外相は、「対露交渉意見書」により満州・韓国問題について「直接ノ交渉ヲ試ミ以テ時局ノ解決」を図る、と述べる。


「今日ハ既ニ其ノ機熟シタリト云フベク、若シ今日ヲ空過セバ……大局己ニ去リテ憾(うらみ)ヲ万世ニ胎(のこ)スニ至ラン」


外相は、「満韓交換」方式を基礎とする交渉を提案して、全員の諒解を得た。

談判要領についても、開催地を東京にすることのほかに、


「満州ニ於テハ、露国既ニ優勢ノ位置ニ在ルヲ以テ、多少之ニ譲歩スルコト」


という一項がつけ加えられた。

しかし、「意見書」には以下の文言もあり。


「露国ヲシテ之ヲ承諾セシメンコトハ極メテ難事卜思考スルニ付、一旦之ヲ提議スル以上、万難ヲ排シ飽ク迄我ガ目的ヲ貫徹スルノ決心ヲ以テ着手スルコト、最モ肝要ナリト思惟ス」


談判方針として、

「一、露国ガ約ニ背キ満州殊ニ遼東ヨリ兵ヲ撤セザルニ就テハ、此ノ機ヲ利用シ、数年来解決シ能ハザリシ韓国問題ヲ解決スルコト。

一、此ノ問題ヲ解決スルニ当り、韓国ノ領土ハ其ノ一部タリトモ、如何ナル事情アルニ拘ラズ、露国ニ譲与セザルコト」

6月23日

(露暦6/10)ロシア、工場スターロスタ法、公布。

6月24日

桂首相、官邸に伊藤・山県元老を招き海相山本権兵衛を立会人にして、対露交渉の大役を果たせないとして辞意表明、2人のどちらかに首相を引きうけて貰いたいと提案(桂の奇襲)。両元老共に反対。

25日、閣議、全員辞意固める。

7月1日、桂首相、辞表奉呈。公表されず後継など秘密裡に進行。桂は病気を理由に葉山の別荘に篭る。

2日、天皇、辞表を却下。

伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての宮内大臣田中光顕の「一案」が、伊藤以外の元老間で決定、桂内閣存続・桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立

「一案」:伊藤元老を枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」(政党関係者は枢密院に入れないという内規)。

伊藤の棚上げ工作。事前に山縣を通じて伊藤を政友会から外すよう天皇に工作。山縣は政党内閣に反対、元老の政党総裁就任にも反対のため桂の工作に乗る。しかし、桂にとって対伊藤のための山縣の存在意義、伊藤を外した後は山縣も必要なくなりその影響力も減退する

6月24日


(漱石)「六月二十四日(水)、第一高等学校で、狩野亨吉に会い、担任の三年生には、点数で問題になる生徒いないと伝える。

六月二十五日(木)、曇。午後雨。午前八時過ぎに眼覚める。第一高等学校の「点数会議」欠席する。東京帝国大学の場合は、点数調べ未了なので欠席する。」(荒正人、前掲書)


つづく

2025年3月27日木曜日

鎌倉 妙本寺 モミジがすっかり新緑 ソメイヨシノは三分咲きくらい 海棠咲き始め 大巧寺 利休梅 椿(玉之浦) シャガ ボケ(東洋錦) 2025-03-27

 3月27日(木)晴れのち曇り夜雨

鎌倉、本覚寺と安国論寺を廻って、次に妙本寺と大巧寺に廻った。

鎌倉 本覚寺の枝垂桜と桐ケ谷 安国論寺の枝垂桜とミツバツツジ 2025-03-27

▼妙本寺

モミジがすっかり新緑になっていて、さわやか気分になる。


▼ソメイヨシノは、ニ天門側がまだ二分咲き程度で、祖師堂側がほぼ五分咲き。




▼海棠も咲き始めている



▼大巧寺の利休梅(五分咲きくらいか)


▼椿(玉之浦)
白い縁取りが殆どなく、一見ヤブツバキと変わらない。
Web情報だと、これはよくある話で、縁取りのある方が突然変異なのだ、とか?
数年前、ここで縁取りのあるキレイな玉之浦を見つけて、以来、毎年気を付けて見ているが、まだ再見を果たしていない。

▼もうシャガが、、、

▼ボケ(東洋錦) 咲き分け品種




鎌倉 本覚寺の枝垂桜と桐ケ谷 安国論寺の枝垂桜とミツバツツジ 2025-03-27

 3月27日(木)晴れ時々曇りのち夜雨

今日は、曇りがちとの天気予報だったが、いいところではずっと晴れてて得をした気分。切り上げて帰路につく頃に曇り出した。黄砂の再来かとも思える曇り様だった。

2日ほど前から、鎌倉の本覚寺と安国論寺の枝垂桜が満開との報があって、やや焦っていたが、少し散り始めてはいるもののまだ満開の範疇に入っているようだった。

尚、妙本寺、大巧寺にも立ち寄ったが、これについては別記事にて。

鎌倉 妙本寺 モミジがすっかり新緑 ソメイヨシノは三分咲きくらい 海棠咲き始め 大巧寺 利休梅 椿(玉之浦) シャガ ボケ(東洋錦) 2025-03-27

▼本覚寺の枝垂桜

毎年楽しみしているが、今年もいい感じだ。

枝垂れの疎らさが、背景を映し込み、一体となっていい味を醸し出してる。









▼本覚寺の桐ヶ谷(鎌倉原産) まだ咲き始め

▼安国論時の枝垂桜(門前の枝垂桜)


▼本堂横の枝垂桜
実は、こちらの枝垂桜を拝見するのは3年ぶり。




▼ミツバツツジ