2026年4月2日木曜日

大杉栄とその時代年表(796) 1908(明治41)年8月1日~6日 荷風の井上精一(唖々)宛の手紙 「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」(8月4日) 「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」(8月8日)

 

永井荷風

大杉栄とその時代年表(795) 1908(明治41)年7月26日~31日 「夜、何か書くつもりだつたが、些ともそんな張合がない。 うつらうつらと、気のぬけた様な心地で、蚊に攻められながら、いろいろの事を考へた。大薩パに言つてみようなら、自己の価値、文学の価値、それらが総て疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。予は生れてから今が一番真面目な時だ。然し今でもまだ不真面目なところがある。」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

8月

清国、欽定憲法大綱公布。9年後、憲政実施約束。

8月

田中王堂「我国に於ける自然主義を論ず」(「明星」)

8月

中国同盟会の孫武ら、東京で英進会を組織。

8月

三輪田真佐子「現代女界の暗流」(「女学世界」)。教育とは「不健全な思想」(厭世自殺・煩悶のため周囲を心配させるような)「を除去せんために施すもの」、「文学を解する女子にして、この愚を演ずるは、教育上の一大罪人ならずや」。

8月

英、炭坑労働者の労働時間を8時間に制限。

8月

8月~12月、ウィルバー・ライト、ヨーロッパで次々と飛行記録を塗りかえる。

8月1日

ロシア大使、寺内正毅外相に日露懸案一括解決交渉を提議。

8月1日

国産自動車完成を記念し、乗用車10台、第1号所有者有栖川宮家より多摩川へ遠乗会開催。

8月1日

出口ナオ、王仁三郎ら、金明霊学会を大日本修斎会(のちの大本教)に改組。

8月1日

日光東照宮建造物26棟が当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(文化財保護法における重要文化財に相当)となる。

8月1日

「八月一日

(略) 

七時頃煙草代を怎かしようと阿部月城を訪ねたが不在。・・・・・

残れる銅銭を集めて、あやめの五匁を一つ買つて来た。

中央公論の後藤新平論と国木田独歩論を読んで、考へた。秋声の筆つきは気に入つたが、少し拵へすぎてゐる。

今夜は両国の川びらき、沓かに花火の音がする。


八月二日

(略)

日暮、金田一君と洗湯にゆく。半月目也。浴後体量を計るに僅かに十二貫三百目。帰り、氷屋に入ること二度。まくは瓜を求め来りて共に味ふ。その味に故園を忍ぶこと深し。

趣味八月号―“文豪国木田独歩”―を読む。噫多幸なる哉独歩。明治の文人にして、国民的悼歌のうちに葬られたるもの、紅葉独歩の二人のみ。而して、かの紅葉にして猶且天下の同情を贏得たること独歩に及ばざる遠し。独歩また瞑すべし。

独歩の性行を録するものを読みて、予の特に感ずるは、彼が無邪気なりし事なり。小児の如く笑ひ、小児の如く怒りし事なり。予は何故に怒りえざるや?

独歩の旧稿に“文学者――予の天職”なる一文あり。中に曰く、

“予は遂に文学者なるものの如し。”

と、更に曰く、“予は文学者の高貴なる所以を知る。然れども予は何ら虚栄の念なくして此業に従はざるべからず、宛然農夫の田を耕す如くに。”と。

予の独歩を憶ふこと日に深し。然して、予も亦遂に文学者なるが如し。!!

(略)」(啄木日記)


8月1日

英、老齢年金法、成立。1909年1月1日発効。

8月1日

仏、労働総同盟(CGT)指導部、逮捕。サンディカリストへの弾圧。

8月2日

「八月二日(日)、夜、森田草平の不調に尼子四郎医師(本郷区駒込千駄木五十番地)に相談するように勧める。

八月三日(月)、小宮豊隆宛葉書に、「僕高出歯亀となつて例の御嬢さんのあとをつけた。歸つたら話す。」と書き送る。(小宮豊隆、帰省中である)

八月五日(水)から十七日(月)の間に、『三四郎』起稿する。(十月五日(月)脱稿する。原稿用紙は、橋口五葉の図案になるもので、『明暗』まで使用する)


この前後、東京帝国大学理科大学の実験室に赴き、寺田寅彦に、光線の圧力について聞く。執筆前後とみなされる書簡で、現在発表されているものは、八月三日(月)小宮豊隆宛、八月十九日(水)高浜虚子宛、八月二十三日(日)田島道治宛のほか、八月(?) (小宮豊隆推定)、渋川柳次郎(玄耳)苑のものである。八月三日(月)は、「小既はまだかゝない。いづれ新聞に間に合ふ様にかく。」とあり、八月十九日(水)は、「小生の小説もいきれ可申か」とある。八月二十三日(日)は、「只今三四郎執筆中例により多忙を極め候」とある。渋川柳次郎(玄耳)宛の日付不明のものには、『三四郎』の題名と、予告の原文が記されている。以上の手紙のほかは発表されていない。書簡のない期間は八月四日(火)から八月十八日(火)までと八月二十日(木)と八月二十二日(土)である。八月十九日(水)には、『三四郎』の(二)までの原稿はできていたと推定される。このことから、起稿の日を推定すれば、八月十七日(月)以前ということになる。但し、書簡のない期間にも未発表書簡は存在するかもしれない。」(荒正人、前掲書)


8月3日

ロシア、社会革命党協議会第4評議会(~8月14日)。

8月4日

「八月四日

夜の明けざるに目さむ。暑気少しくゆるみて、八十九度。

半日金田一君と語る。例の稚き頃の思出。話してる所へ、与謝野氏より書留、為替五円。外に、明夕あたり御出下され浴衣お着代へ被下度しと晶子申候、と書いてあり。暫く語なく与謝野氏の好情を懐ふ。

(略) 

夕刻、為替をうけとり、原稿紙と蚊やり香と煙草と絵ハガキ数枚と、外に、蕪村の句集、唐詩選、義太夫本、端唄本二冊もとめて来る。

与謝野氏へ礼状、吉井、北原、長谷川、佐々木信綱、藤條、宮崎、おこうちやんの諸氏へ葉書。

蚊帳いらずを焚いて安眠するをえたり。」(啄木日記)

8月4日

荷風の井上精一(唖々)宛の手紙

「まだ下駄がよくはけないので浴衣でぶらぶら出かける事が出来ないので困ってゐる」

「当分親爺の手前をごまかす為めに役所か会社へ出やうかと思ってゐる」(7月24日付。荷風帰国の9日後)

「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」(8月4日)

「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」 (8月8日)


この月以後、のちの『ふらんす物語』に所収する短篇を「読売新聞」「新潮」「早稲田文学」「新小説」等に発表。

8月6日

ロシアと樺太島日露境界確定書(4月10日調印)について境界確定事業承認に関する外交文書を交換。9月10日、告示。


つづく

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