2016年8月21日日曜日

天正2年(1574)10月1日~12月31日 荒木村重が摂津を統一(伊丹親興逃亡)し有岡城(伊丹城から改名)を居城とする 越前「一揆内一揆」(反大坂領国の抵抗)激発 [信長41歳]

中の島@京都・宇治川 2016-08-16
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天正2年(1574)
10月
・明知光秀、高島城の三好康長を攻める。
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・越前、府中辺の郡司七里頼周の配下、南条郡三尾河内に赴き指出を徴収。
指出は、在地のこれまでの年貢額などを報告させ、年貢納入を誓約させることであり、下間頼照ら本願寺坊官による越前農民支配は戦国大名朝倉氏と変わらないことを示す。
12月、三国滝谷寺が寺領の年貢・地子の指出を提出。
閏11月~12月、下間頼照、大野洞雲寺・越知山大谷寺・大野鍬掛洪泉寺・吉田郡昌蔵寺の寺領を安堵。これら寺社知行高の指出を踏まえてのこと。
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・アンリ3世愛人マリー・ド・クレーヴ(コンデ公アンリ夫人)、分娩中に没。
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10月3日
・オラニエ公ウィレム、スペイン軍包囲破りライデン(レイデン)市を救出
(ボアソ提督指揮救援艦隊、ライデン到着、スペイン軍、ライデンの包囲を解き撤退)。
スペイン軍、以降、ホラント州の町を攻撃しなかった。
ホラント州・ゼーラント州の人々、ライデンへの感謝の印にライデン大学設立。
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10月11日
・越前鉢伏城守備の専修寺賢会支配下の坊主衆である善覚・老原・勝秀など、逃亡。坊主衆の不満の表れ。
顕如は坊官池尾を越前に派遣、20日、池尾は北ノ庄に到着、一家衆・坊主衆・惣門徒衆に宛てた顕如の書状を披露。賢会も北ノ庄に赴き、門徒説諭のため3日間これを広めたと云う。
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10月24日
・大塩円宮寺に寺宝として伝えられている惣門徒宛の顕如書状(「増補南越温故録」)。
今度の錯乱は惣門徒の尽力で静まったが、今こそ「馳走」することが仏法興隆であり、忠節を尽くすことが真実の報謝であるとする。具体的な内容は「委細七三(七里三河守頼周)申すべく候なり」と末尾に記され、府中辺の門徒に対しては郡司七里頼周から伝えることになっている。
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10月27日
・秀吉、長浜町民に年貢諸役を免除(河路文書)。
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10月29日
・秀吉、近江国友村の藤二郎へ国友村河原「代官職」を申し付ける旨を通達(「国友共有文書」)。
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11月
・信長、尾張領内の道普請命ず。後、美濃・近江・若狭・畿内にも道路修復実施させる
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・真田信綱、四阿山別当職を安堵する。
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・ガスパル・コエリュ、大村純忠に、全家臣を改宗させ、寺院を教会に変え、寺社破壊を約束させる(フロイス「日本史」10)。
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・ラングドック総督ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、アンリ3世に叛乱、「地方三部会」をモンペリエに召集。
4日、アンリ3世、ダンヴィル伯の地方三部会に対抗してアヴィニョンに「地方三部会」召集。
16日、リヨンよりアヴィニョンに移動。
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11月7日
・柴田勝家、山城山科七郷名主・百姓中へ、山科七郷は往古より「御大裏様」の「御役人」として様々な雑公事・陣詰夫役などは一切賦課されないことになっていたことを信長が聞き入れられた、勝家は病気のため金森長近・飯尾尚清が従来の如く負担を免除するという信長の命令を通達(「沢野井文書」)。
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11月10日
・信長、大和法隆寺へ、「西東諸式」混合の現状を指摘、「各別」とする旨を命令。「東之寺領」は散在しているがこれを安堵する、「西寺」が「段銭」以下を「恣令取沙汰」ていることを厳禁する、違反者には「成敗」を加えると通達(「法隆寺文書」)。
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11月10日
・島井宗叱、大友宗麟に軍用金を用立てる。
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11月13日
・信長、上洛。
大和方面と伊丹親興反乱平定にあたる。
織田軍、大和岡周辺へ進撃し放火。
秀吉、夕刻に奈良へ到来。(「多聞院日記」2)。
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11月15日
・荒木村重、摂津統一。
信長に属した荒木村重、摂津三守護の最後・伊丹城伊丹親興を襲い、親興を逃亡させる。
摂津統一を果たし、居城を有岡城(伊丹城から改名)に定める。

元亀1(1570)6月、池田家中の混乱から当主勝正出奔。実力者荒木は勝正弟重成を立てるが実権は掌握。
池田・和田の守護間の争いから翌年8月郡山の戦いが起こり、和田惟政は戦死。
元亀4年3月、惟政後継者惟長は高山重友(右近)に高槻城を奪われる。蔭に荒木の謀略。
荒木は義昭討伐のために上京した信長を逢坂で迎え忠誠を誓う。
義昭追放後、信長は荒木に伊丹城攻略を命じる。

村重、池田城獲得。
この年、池田知正派18人、村重舅・北河原三河守長勝を謀殺し、池田城への招待状を茨木城に送る。北河原長勝嫡男・金勝、茨木城に逃げ込む。暗殺計画を察知した村重は逆に18人を殺害、池田城を攻め取る。池田知正は三好三人衆を頼って落ち延びる。
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11月16日
・織田軍、奈良より退却(「多聞院日記」2)。
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11月18日
・北條氏政、小田氏治に羽生城攻略と関宿城の明日開城を伝える
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11月21日
・後の京都大徳寺56世住持江月宗玩、誕生。父は堺の豪商津田宗及。
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11月28日
・大友義統、三苫宮内少輔の軍労を賞す。
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閏11月11日
・丹羽長秀、近江犬上都にて、罪科人明蔵主の捕縛を命じる。
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閏11月19日
・古河公方家重臣簗田晴助・持助父子、北条氏政に攻められ、下総関宿城(千葉県野田市)を開城。
12月16日、氏政、簗田持助を赦し水海城に入れる。北条氏の次の標的は下野祇園城(小山市、小山秀綱)。
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閏11月19日
・上杉謙信、武蔵羽生城(埼玉県羽生市)を破却し、騎西城に放火。この日、厩橋城入り。12月、帰国。
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閏11月19日
・越前「一揆内一揆」(反大坂領国の抵抗)激発。
国人衆・門徒衆の本願寺の坊官支配への不満爆発。
豊原寺の坊官下間頼照(守護代)、河合庄の国人衆ら3千に襲撃される。若林長門守が出撃して国人衆を破る。
一揆を迎え討つ長門守は、戦功あれば「凡下ナラバ侍ニナシ、武士ナラバ直ニ恩賞ヲ与フベシ」と檄を飛ばす(「朝倉始末記」)。
凡下(一般庶民)の解放意欲を歪めた形で利用しようとする本願寺坊官は、戦国大名となんらの違いもない。
12月、国人衆(足羽郡本郷の鑓講一揆)700、北庄の館の下間和泉守(足羽郡司)を襲撃、大敗し100余が討たれる。
越前はこの内部対立に加え、信長の侵攻に備えるという内憂外患に直面。

これより先、「まず大坊主衆を誅すべし」と「十七講」が一揆指導層に抵抗。
事前に発覚し、指導者道場坊主・門徒たちは大坊主・和田本覚寺(福井市)により謀殺。

賢会の在番中の鉢伏城から一族諸江氏への書状。
法敵信長打倒の揺らぎない思いを述べ、「いつかたにても聊爾ニ(軽率に)物を仰事候まじく候」、「少も悪口候ば、その身のたおれのもといにて候」と述べる。密告されて失脚するかもしれないという恐怖政治。

信長の侵攻に対抗する為、本願寺の統制下に置かれた軍事力をもつ領国を形成する事が課題。
その為、一方で、朝倉以来の領国統治制度である郡司制度を継承して郷村を支配し、朝倉氏旧家臣の支配を認めてその軍事力を掌握しようとする。
従って、この支配体制から自立的な一揆には、首導者を殺害するなどして一揆の自立性を奪う(戦国大名の百姓支配を踏襲)。
他方、戦国大名の支配と異なる点は、門徒に支えられているということ。門徒掌握は、道場坊主から門徒を切り離し、一家衆・大坊主の支配下に置こうとする。しかし門徒は村を単位にあたかも知行地のごとく与えられており、この意味では門徒支配も領国支配の論理が貫徹している。
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閏11月20日
・毛利輝元・小早川隆景、備中松山城主三村元親が背いたため出兵、備中小田に着陣。
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閏11月22日
・丹羽長秀、若狭遠敷郡の鉄屋に若狭の鉄屋職を安堵(「金屋鋳物師文書」)。
長秀の若狭支配。
初めのうちは、守護武田氏の若狭国衆支配権がある程度は認められているが、次第に長秀の力が浸透し、武田氏もその下に組み入れられて行く。しかし、若狭支配が進んでも、長秀は居城佐和山から移動しなかったと思われる。
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閏11月25日
・信長、尾張国中の道路・橋、潅漑用水道の修理を命令。篠岡八右衛門・坂井利貞・河野氏吉・山口太郎兵衛の4人宛てに朱印状が発せられる(『坂井遺芳』)。
尾張一国への命令に見えるが、『信長公記』によれば、「去年月迫(げつぱく=歳末)に国々道を作るべきの旨」を、この4人を奉行として、分国中に触れたとある。
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12月1日
・沢庵、誕生。父は但馬出石城主山名祐豊の重臣秋庭綱典。
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12月12日
・オスマン朝スルタンのセリム2世(50)、没。
15日、第12代スルタン、ムトラ3世(28)、即位。
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12月20日
・龍造寺家の鍋島直茂、西肥前の須古城を攻め落とす。城主平井経治は自刃。
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12月21日
・村井貞勝、明智光秀とともに、賀茂社に対し、社領境内および所々散在の地を安堵する(賀茂別雷神社文書)。
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12月22日
・ヴィランヌーヴ・レ・ザヴィニョン(アヴィニョン西郊の町)で「地方三部会」開催。
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12月24日
・松永久秀(65)、「落髪」して「道意」と号す。
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12月26日
・アヴィニョン、ロレーヌ枢機卿(49、ギーズ公フランソワ弟、メアリー・スチュアート叔父)、病没。
ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、アヴィニョンから目と鼻の先のリヴロン城塞に立て籠もる。
リヴロンからコンタの掠奪に出撃、カマルグのエーグ・モルトやサン・ジル(アヴィニョン近く)を奪う。
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