根津美術館 2016-08-04
*天正2年(1574)
7月
・ポルトガル船より、大友宗麟に贈る虎4匹、博多津より陸揚げ。
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・「一揆持ちの国」となった越前の新たな対立。
本願寺派遣の支配者と在地の坊主衆との対立。
坊主衆と農民の対立。
「一揆持」の国から本願寺領国化へ転換、これに対する不満。
7月14日、和田本覚寺は、不満分子の「十七講」主の志比荘の林兵衛が盆の念仏参りに北ノ庄に来たところを喧嘩に事寄せて殺害。
更に、丹生郡天下村の川端、吉田郡河合の八杉、坂井郡本庄の宗玄など一揆指導者を襲撃、殺害(「朝倉始末記」)。
同年閏11月、豊原寺の下間頼照を討とうとした河合荘の者たちは坊官若林勢に討たれ、12月には足羽郡の東郷安原村の「鑓講衆」が蜂起し下間和泉に討たれる(「朝倉始末記」)。
志比衆や八杉氏や河合荘の人々は、越前一揆の主要勢力をなした者たち。
一揆は、①村・地域を単位に形成される「国中の一揆」と②門徒組織を単位とする本願寺派門徒一揆との組織原則を異にする2つの一揆から構成される。
「朝倉始末記」によれば、一揆勢には国中年貢の半分免除だけが与えられ、本願寺は知行を望む大坊主・坊主に対して門徒の助力をもって賄えと指令したので、大坊主・坊主達は武士・百姓を弟子(門徒)とし配下とする。本願寺一家衆で一揆指導者の1人専修寺賢会の門徒は、「当寺坊主衆」と称する何人かの坊主衆が抱える門徒が、広い意味で専修寺門徒とされる。
また一家衆・大坊主には所領が与えられ、専修寺賢会は川北(九頭竜川以北)・川西(同以西)の村から代物として銭や絹綿を徴収。一揆勢は、本願寺派遣の坊官と越前大坊主の統制に反発、坊主達が百姓・下部や下人の如く扱うこと、一揆が切り取った国を本願寺派遣の「上方ノ衆」が支配することに不満をもち、十七講の人々の間には大坊主討つべしの声が高まる。
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・ユグノーの牧師達、1573年12月に引き続き2度目の大集会開催、都市に関する行政的な自治権要求。
ラ・ロシェルとモントーバンが独立した都市となる(2都市は小さな共和国を形成、王国内の他のユグノー共同体を連帯)。分離主義が確立、王国内に「第二の国家」が誕生。
フランス国内の情勢。
<平和な地方>
ノルマンディ、モンゴメリー処刑後、平和が継続。
フランス北部と東部、ギーズ一族の支配下で平和が継続。
<ユグノー勢力が強い地方>
アングレームとポワトゥー、ラ・ロシェルの市民と牧師が反乱の火勢を強める。
ガスコーニュ、ラ・ヌーが臨戦態勢を取らせる(カトリーヌ、7万リーヴルで7~8月の2ヶ月間平和を購入)。
ドーフィネ、ユグノー指導者レディギエールの号令のもとに抵抗を繰り返す 。
スダン(ベルギー国境近辺)、コンデがフォン・ナッサウやドイツのルター派大公とジャンパーニュ・ブルゴーニュへの侵略を準備。
<ラングドック>
総督ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、ユグノーと提携。
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7月2日
・筒井順慶、大和国興福寺大乗院「新御所」へ誓紙提出を要請。3日、提出。(「多聞院日記」2)。
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7月13日
・~9月29日 (第3次)伊勢長島一向一揆掃討戦
信長9万、長島征伐出陣(畿内の明智、越前の押さえ羽柴、武田に備える河尻・池田以外の全兵力)。
尾張津島に陣を進める。五明、加路戸、殿名に野陣を進め、本格的な攻略戦へ。
長島、端城を攻略され本城に追いつめられる。
長嶋の地理;
「抑(そもそも)尾張国河内長嶋と申すは隠れなき節所(要害の地)なり。濃州より流出る川余多(あまた)あり。岩手川・大滝川・今洲川・真木田川・市の瀬川・くんぜ川・山口川・飛騨川・木曽川・養老の滝、此外山々の谷水の流れ末にて落合ひ、大河となつて、長嶋の東北西五里・三里の内、幾重共なく引廻し、南は海上漫々として、四方の節所申すは中々愚なり。これに依つて隣国の侫(ねい)人・凶徒等相乗り住宅し、当寺(願証寺)崇敬す」(「信長公記」巻7)。
伊勢長島攻めは、①元亀2(1571)年、②天正1(1573)年についで3度目。
また、元亀1年11月には信長が志賀の陣の最中に、長島一揆が小木江城(愛知県海部郡立田村)を攻撃、弟信興が戦死。
信長政権の基盤東海地方に食込む一向一揆の徹底的制圧を目的にし、北国・畿内を後回しにしても取り掛かる。
信長の作戦:
長島を完全包囲し、兵糧攻めをしながら村落一つ一つ潰す作戦。
既に尾張熱田~矢田川原まで40町余に鹿垣を築く。
桑名方面は、滝川一益・木下秀長を西別所周辺に1年近く滞陣させ石山との交通を遮断。
特に海路からの補給遮断のため、滝川一益の伊勢水軍と九鬼嘉隆の九鬼水軍を信雄の指揮下におく。大型船(安宅船)を入れて600隻余。徹底した海上封鎖戦法と一揆拠点分断封鎖により、篠橋・大鳥居・中江・長島ら5拠点に追込む。
殲滅(根切り、撫で切り)方針:
既に伊勢・志摩を抑えている信長にとって、良港でもない長島は伊勢湾~尾張・美濃に通じる河川交易の邪魔。
また、越中・越前・越後に進出する場合には背後を脅かす存在。
加えて、武家の論理(長袖者、民衆蔑視)、見せしめと年来の鬱憤解消。
「先年、信長公志賀御陣、浅井・朝倉と御対陣半(なかば)、御手塞(ふさがり)と見及び申し一揆蜂起せしめ、既に日を逐つて攻め申し、織田彦七(信興)御腹めされ、緩怠の条々勝(あげ)て計ふべからず。日比(ひごろ)御鬱憤候つれ共、信長天下の儀仰付けらるるに依つて御手透き御座なく、御成敗御延引なされ、今度は諸口より取詰め、急度御対治(たいじ)なさるべきの御存分にて、」(「信長公記」)。
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7月14日
・信長、3手に分けて攻撃。
一揆勢、小木江村封鎖を試みるが中筋の織田勢がこれを突破。
篠橋(長島町、木曽川敷内)へは木下秀長・浅井新八が攻撃。
一揆勢、こだみ崎(弥富町大字コタミ)河口に船を集め、対岸を進む織田勢を堤上で迎撃しようとするが、丹羽長秀がこれを撃破。
その他、前ヶ洲・海老江島・加路戸・いくいら島(いずれも長島東方)の拠点も、焼き払われる。信長、五明(弥富町五明)に進軍、野営。
①中央(早尾口(愛知県佐織町早尾)):
信長指揮。馬廻り、丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・木下長秀(秀長)・不破光治・同勝光・丸毛長照・同兼利・佐々成政・市橋九郎左衛門・前田利家・中条将監・河尻秀隆・津田信広・飯尾隠岐守ら。
②右備え(香取口(三重県多度町香取)):
佐久間信盛・柴田勝家中心に蜂屋頼隆・稲葉良通・貞通が加勢。
③左備え(市江口(愛知県佐屋町・弥富町間)):
信忠、尾張(梁田広正・池田恒興・長谷川丹波守・和田新助ら)・美濃(齋藤新五郎(加茂郡加治田城)・森長可(17、可成の子、可児郡兼山城)・坂井越中守(坂井政尚の子)・佐藤秀方(鉈尾山城)ら)の兵、連枝衆(津田秀成・長利・信成・信次)。
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7月15日
・伊勢海賊大名九鬼義隆の大安宅船、滝川一益・水野守隆・伊藤三丞らの安宅船、島田秀満・林秀貞の囲船を中心とした船団、蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸(いずれも尾張・伊勢の湾岸地域)の兵を乗せて到着、攻撃開始。
織田信雄も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井(伊勢中南部)の兵を大船に満載して参陣。
織田勢は長島に通じる諸口より攻め上る。
一揆勢は妻子を引き連れ長島に逃げ込む。信長・信忠は殿名(桑名町殿名)に本陣をおく。
篠橋・大鳥居(三重県多度町大鳥居)・屋長島(桑名市)・中江(桑名市福島)・長島5ヶ所に籠る一揆勢に対し、津田信広・同信成・同長利・氏家直通・安藤守就・飯沼勘平・浅井新八・水野信元・横井雅楽守が篠橋口へ向かい、大鳥居には柴田勝家・稲葉一鉄・同貞通・蜂屋頼隆が今島(桑名市今島)に陣を取り、川手から大船を寄せて攻撃。坂手の郷(長島町上坂手・下坂手)には押えとして佐久間信盛父子が江州衆と共に布陣。長島の東推付の郷(島町押付)には市橋長利・不破勝光・丹羽長秀が布陣、加路戸島口には織田信包・林秀貞・島田秀満ほか尾張衆船団100艘が海上か
ら攻撃。南の大島口からは信雄・信孝と桑名衆が伊勢の大船団を率い攻める。
信長はこれまでの敗戦から、長島攻撃には水軍が欠かせないことを学んでいた。九鬼嘉隆・滝川一益は当然といえるが、北畠家の継嗣である信雄や尾張の水野守隆も船団を率いている。島田秀満・林秀貞の名まであがっているのは、軍勢を渡す奉行でも務めたものだろうか。
織田軍は篠橋・大鳥居2砦に攻撃を集中。
「諸手大鳥居・しのはせ取寄り、大鉄砲を以て塀・櫓打崩し、攻められ候の処に、両城迷惑致し、御赦免の御詫言申し候といへども、迚(とて)も程あるべからずの条、侫人懲(こらしめ)のため干殺(ほしごろし;餓死)になされ、年来の緩怠(かんたい)・狼藉御鬱憤を散ぜらるべきの旨にて、御許容これなき処に、」(「信長公記」)。
「九鬼右馬允(嘉隆)あたけ(安宅)船、滝川左近(一益)・伊藤三丞・水野堅物、是等もあたけ舟、嶋田所助・林佐渡守両人も囲舟を拵へ、其外浦々の舟をよせ、…」(「信長公記」巻7)。
「大鉄砲を以て塀・櫓打崩し(艦砲射撃)」。
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7月17日
・信長、長島より荒木村重・高山右近に中嶋を攻撃させる(長島への援軍牽制のため)。
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7月18日
・仏、前年ポーランド国王となったシャルル9世弟アンリ・ド・ヴァロア、フランスに帰国。アンリ3世として即位。
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7月20日
・信長、高田専修寺・朝倉景健・堀江景忠・大井四郎・細呂木某・嶋田某・実乗坊・了実坊へ、「越州出馬之刻」における忠節を賞し、知行は望みの通りに宛行う旨を通達(「法雲寺文書」)。
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7月20日
・荒木村重・高山友祥、石山本願寺出城の摂津中島城を攻撃し一向一揆を撃破(荒木村重軍の過半が討死(「多聞院日記」2)。
23日、信長、荒木村重へ中島城攻略を賞し、荒木側の損害は「これまた苦しからず候。古今に習いあり候」。
伊勢国長島方面の戦況は一揆の包囲網を縮小し「落居」は間も無いと通知(「徳富猪一郎氏所蔵文書」)。
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7月22日
・筒井順慶、十市遠長と「入魂誓紙」を交換、同盟締結(「多聞院日記」2)。
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7月23日
・信長、河尻秀隆(荒木村重と共に攝津中嶋城攻撃中)へ、
「種々(長島)一揆共、(降伏を)懇望仕り候へども、この刻(みぎり)、根切るべき事に候の間、その咎を免さず候」「この方に候へども、心はその方の事のみ案じ入り候」(「玉証鑑」)。
皆殺しの決意、自分は長島にいるが石山攻めが気懸かりと述べる。
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7月27日
・北条氏政、関宿城を攻めるが、上杉謙信が武蔵に侵入し鉢形・松山・忍城を攻める。
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7月28日
・上杉勢、越中を制圧、加賀に兵を進める。
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7月29日
・信長の弟半左衛門秀成、長島一向一揆と交戦中に討死。
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7月29日
・信長、京都の鳥羽辺りに布陣する明智光秀へ、
「篠橋と云う所、大鳥居此両所、昨今、弥(いよいよ)執巻(とりまき)候。両所ながら兵糧一円になきこと、慥(たしか)に相聞へ候。五三日(ごさんにち)迄ハ相(あい)延ぶべからず、落居らるべく候。・・・これさえ攻め崩し候へば、根本の長島同前に候。長島の事も存の外、雑人原(ざつにんばら)北(にげ)入り候て、正体なき事、推量の外にて候。はや城中に男女の餓死のことの外多き由に聞え候。彼此れ以って爰許(ここもと)の隙、近日明くべく候の間、やがて開陳すべく候」(「細川家文書」)。
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7月晦
・細川藤孝、織田側の河内若江城などに攻撃を仕掛けてきた遊佐信教・三好康長らを撃退(「細川家文書」)。
石山本願寺と協力関係にある河内高屋城三好康長と門徒衆、信長方三箇城を攻撃。
信長は細川藤孝を河内に送る。
長島攻略の目途が立つと、佐久間信盛・明智光秀を河内に送り、飯盛山付近で三好康長を破る。
更に、佐久間らは長躯して萱振城を落とし、9月18日、高屋城下を焼払う。
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